第19話 保留
心の奥では渇望していた言葉のはずなのに前置きのせいで台無しになっている。
「わたしを好きってこと?」
「いいえ」
前に言ったツンデレの可能性に賭けて確認を取ると翡翠ちゃんは即答で否定した。
否定するのは構わない。だけどもう少し悩んでくれたっていいのに。
友達として好きとかフォローの仕方もあるのに。
「ただ、このままだとお互いに辛いし、ろくな男がいないなら私達が付き合って、二人ともお兄さん、
「そっか」
翡翠ちゃんは合理的だ。
このままモヤモヤしていたら次の恋にも踏み出せないかもしれない。
「本気の恋愛じゃなくて、練習するってことかな」
「そうね。簡単に言えば」
「例えばわたし達がキスをしたとして、それはファーストキスになる? それとも練習だからカウントされない?」
「どうでしょうね。明確なルールがある訳ではないし。だけど、そうね。初めてキスをしたのならきっとファーストキスなのでしょうね」
翡翠ちゃんはわたしにキスを迫ったことがある。
あの時は制服を着崩していて妙な色気が出ていて、だけど友達でいたいからと断った。
「友達でいようって言ったのは翡翠ちゃんだよね。どうしてそんなことを言うの」
「考えが変わった。それだけのことよ」
「なんで考えが変わったの」
翡翠ちゃんの横顔は崩れない。
まるで動揺を見せないし、油断も隙もない。
ただ淡々と自分の考えを述べる。
わたしは翡翠ちゃんの考えが変わった理由を知りたかった。
もしわたしの行動がきっかけだったとしたら嬉しい。
わたしが翡翠ちゃんに侵食されたように、翡翠ちゃんもわたしに侵食されている証拠だから。
たとえそれが女同士で恋愛の練習相手になるという非生産的なものだとしても。
「
「わたしじゃお兄ちゃんの代わりにならないよ」
「わかっているわ。だから夜夏を夜夏として見る。友達より一歩踏み込んだ存在として」
「でも、好きにはなってくれないんだ?」
「…………」
そっと目を瞑り翡翠ちゃんは黙り込んでしまった。
空調の音をかき消すくらい心臓がドキドキしている。
今なら隙を突いてキスができてしまいそうだ。
もし今キスをしたら翡翠ちゃんの気持ちが変わってくれるかな。
それとも、恋人の練習台というポジションに落ち着いてしまうだろうか。
「何もしてこないのね」
「する訳ないじゃん」
目を開けてちらりとわたしを見る。
やっぱり髪で顔が隠れていない翡翠ちゃんは素敵だ。
「高月先輩もそうだったわ。やっぱり似てるのね」
「
ふん! と自慢げに鼻を鳴らす。
お兄ちゃんは翡翠ちゃんのおっぱいが腕に当たっても手を出さなかった紳士だ。
妹のわたしにもその血が流れている。
へたれじゃない。相手の気持ちを尊重できるんだ。
「ごめんなさい。自分でもよく分からないの。夜夏と過ごすようになって自分の気持ちが」
「分かるよ。わたしもそうだもん」
少なくとも嫌いではない。それどころか友達として好きなのは間違いない。
だけど、もしかしたらそれ以上の好意を抱いているかもしれない。
その気持ちを素直に受け入れられなくて、お兄ちゃんへの恋心を復活させようとしたり、好意を否定したりする。
わたし達の関係は少しずつこじれてきているけど、翡翠ちゃんと同じ気持ちでいることが嬉しかった。
「今はテスト前だし、保留にしてもいいかな」
「まさか夜夏にそんなことを言われるなんて思いもしなかったわ。ここからは真面目に勉強するわよ」
キリっとした横顔がカッコいい。
こうしてまたわたしは翡翠ちゃんの魅力に憑りつかれてしまう。
さっき保留にしたばかりなのに、その選択を後悔してしまうくらいに。
だからわたしは、おちゃらけてみせる。
ピエロになって叱られている間は凸凹コンビの友達でいられるから。
「でもまずは休憩から」
先生モードに切り替わった翡翠ちゃんにダメ元で休憩を提案した。
翡翠ちゃんは無言でわたしを睨みつける。本気で恐い。
『何言ってんだこいつ』みたいな無言の圧力が襲い掛かる。
「原因は翡翠ちゃんなんだよ? あんなことを言うから脳が疲れた」
まるで子供のようにいじけてみせる。
悪いのはわたしじゃないと主張することで休憩を勝ち取ってみせる!
「なるほど。では私の非を認めてあげるわ」
「本当に!?」
思わず大きな声が出てしまった。
翡翠ちゃんは唇に人差し指を当ててジェスチャーで静かにしろと言った。
「ごめんごめん。翡翠ちゃんが素直だから驚いちゃった」
「私が素直になった時は裏があると思うことね」
「へ?」
翡翠ちゃんは静かに立ち上がると、わたしの背後に立った。
「そんなに疲れているのならマッサージしてあげるわ」
「ふぇ」
肩に翡翠ちゃんの指が触れるとお風呂の記憶が蘇る。
制服越しなのに直に触れられているみたいな生々しい指遣いがわたしの背中を這っていく。
「……あまり
「そう? なのかな。肩凝りになったことがないから分からない」
自分で言ってて負けた気がした。
肩凝りは辛いらしいので別になりたくはないけど、翡翠ちゃんに言うとなんだか悲しくなってくる。
「少し体験してみる?」
そう言って翡翠ちゃんはわたしの肩におっぱいを乗せた。むしろ首をおっぱいで挟まれたというべきか。
質感としてはブラの固さだけど、圧倒的な柔らかいボリューム感が心地いい。
同時に学校でこんないやらしいことをしているというシチュエーションがわたしの体を硬直させた。
「あの翡翠先生。真面目に勉強するという話はどうなったのでしょうか」
「休憩したいと言ったのはあなたじゃない」
「ソウデスケドモ」
わたしが言った休憩は購買でお菓子を買って食べるとかそういうやつだ。
誰も翡翠ちゃんのおっぱいを堪能させてくれなんて頼んでいないし、頼んだら頼んだで絶対に断られる。
翡翠ちゃんが何を思ったか自発的に動いてくれたからこそ実現している。
「翡翠ちゃんもムッツリさんなの?」
「年頃ですもの」
「でも男子の視線は苦手なんだ?」
「興味があるのと実践したいのは別物よ。それに、相手の動きは自分でコントロールできないし」
「まあ、たしかに」
わたしはスカートの裾をギュッと握った。
自分のリズムやタイミングで得られる快感と、相手の都合で半ば強制的に達する快感。
まだ経験したことのない後者を想像するとほんの少し怖くなった。
無我夢中で自分が自分でいられなくなり、寝顔のようにコントロールできない姿を好きな人に晒すかもしれない。
もしそれが原因で嫌われてしまったら?
まさに愛を確かめ合う行為なんだなと妙に納得した。
「もし相手が女の子なら、少しは恐怖が減ると思うのだけど」
「その話は保留って言ったじゃん」
「ええ。分かっているわ。だからこそ情報を与えたの。夜夏が選択をする時の参考にね」
「わたし次第ってこと?」
「先に言葉にした方の強みね。自分の気持ちを口に出すって勇気がいることだけど、済んでしまえば結果なんてどちらでもいい。そんな風に思えるの」
まだ翡翠ちゃんのおっぱいはわたしの首を挟んでいる。
重量感をわたしに伝えようとしているのかもしれないけど、基本的に翡翠ちゃんが支えているのでさほど重くない。
ただただわたしが得をしているだけという状況だ。
「よく考えたら勉強を教えて、おまけに休憩に施しを与えるなんて、あまりに不公平ではないかしら」
「そう言われると、そうだね」
「夜夏にも何かしてほしいわ」
「何かって?」
「それは自分で考えなさい」
どんどん本題である勉強から脱線していく。
翡翠ちゃんも面倒臭いと思いながら日々勉強してたのかな。
今日は先生モードに入ったと見せかけて、実はサボりモードに突入してたみたいな。
首をおっぱいに固定されて後ろを振り返ることはできないけど、なんとなく気怠そうで堕落した感じのゆるい翡翠ちゃんの顔が浮かんだ。
「わたしの手、握っていいよ。お兄ちゃんだと思って」
「…………」
翡翠ちゃんからの返答はない。
何か行動を起こすわけでもなく、そのままおっぱいを乗せたまま沈黙の時間が流れる。
視線だけを窓の外に移すと雨は上がったらしい。
その分、図書室にBGMのように流れていた音が一つ減り、なんとなく人の気配のようなものを感じるようになった。
「手を繋いでいたら勉強しにくいじゃない」
「でもさ、席が隣同士のカップルとかたまにやってない?」
「恋愛に現を抜かして授業が疎かになる愚か者の行動ね」
「バッサリだねえ」
友達の肩におっぱいを乗せるのもなかなかバカっぽいと思うけど口には出さなかった。
翡翠ちゃんが一生懸命考えてくれた休憩方法だもん。
肩に乗っていた幸せが取り除かれると翡翠ちゃんはまたわたしの隣に座った。
背筋がピンと伸びていて、ザ・優等生という振舞い。
こんな子でもエッチなことには興味があるし、わたしとなら学校内で危険な行動に興じる。
「私は右利きだから構わないのだけど、夜夏はちゃんと勉強できるの?」
「実は左手でもそこそこ字が書けるんだ。すごいでしょ」
「それは素直にすごいと思うわ。腱鞘炎になるほど書いて暗記しても大丈夫ね」
「人の特技を拷問に利用しようとするのはやめてください」
「暗記を軽んじる人もいるけど、とにかく知識量は大切よ。頭の中に蓄えている知識を適当に吐き出せば意外と正解している時もあるし」
翡翠ちゃんは勉強についての持論を語る。
そしてすでに、わたしの右手は翡翠ちゃんの左手にしっかりと掴まれてしまっている。
指の一本一本が絡み合う恋人繋ぎで。
もう逃がさないと言わんばかりに握り方が強い。
一見すると真面目に勉強している女子二人が、実は机の下では恋人繋ぎをしている。
まるで漫画のようなシチュエーションにドキドキが止まらない。
お兄ちゃんと手を繋いだ時に感じたことのない、体の奥から熱が生まれるように胸の高鳴りを感じている。
翡翠ちゃんからの提案は回答を保留にしたはずなのに、これではまるで提案を受け入れたみたいじゃないか。
わたしの気持ちの変化を察して、どう立ち回るかを予測して動いているのだとしたら本当に恐ろしい。
とてもじゃないけどわたしにはできない芸当だ。
人間は基本的に、自分にないものを持っている人間に惹かれる。
翡翠ちゃんはわたしが持っていないものをたくさん持っている。
ならその反対は? 気付いてしまった。
そっか。だから『好き?』という問に即答で否定できたんだ。
ツンデレだとかそういう話じゃない。
翡翠ちゃんの本質はやっぱり素直だ。
表現の仕方がひねくれているだけで、いつも自分の気持ちに正直に生きている。
目から涙が溢れそうになる。
だけど今は、それを拭うための手が片方塞がれている。
今ここでペンを置いたら何かあったと悟られてしまう。
感情を理性で押さえ込もうと必死に『涙よ止まれ』と念じ続ける。
溜まった涙で視界がボヤける。
ああ、もうダメだ。
「あ、あの、雛田さん」
「なにかしら」
ハッと声がした方に視線を移すと同じクラスの森田くんの姿があった。
この位置からなら手を繋いでいるのは見えていないはず。
だけど今するべきことは手を離すことなのに、翡翠ちゃんはそれを許してくれなかった。
しっかりと絡み合った指を簡単に解けるわけはなく、クラスメイトの前で恋人繋ぎをし続ける。
「今いいかな。高月さんごめんね。ちょっと借りる。って言うか髪型変えたんだ。似合ってるよ」
「ありがとう」
翡翠ちゃんはちょっと迷惑そうにお礼を言った。
嫌な予感がした。
翡翠ちゃんも何かを察したようだ。
名残惜しむように少しずつ、ゆっくりと指が解放されていく。
「少し席を外すわね」
「うん」
わたしの予感はきっと的中する。
だって森田くんは、あの時のお兄ちゃんと同じ顔をしていたから。
森田くんの後ろを付いていく翡翠ちゃんの表情は見えない。
窓から夕陽が差し込む。
鋭いオレンジ色の光が、さっきまで涙を浮かべて弱った目に突き刺さる。
わたしは翡翠ちゃんからの提案に対する回答を保留したことを後悔した。
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