第18話 ていあん
「はぁーーーー涼しい」
学校の空調は集中管理とかであまり冷えないようになっている。
授業中にうとうとしていると寒く感じるのに、少し動くと蒸し暑い。
お世辞にも快適とは言えない校内で図書室は隠れたオアシスかもしれない。
「本が湿度で傷まないように少し設定を低めにしてあるらしいわ」
「え? ズルくない?」
「学校図書を守るという大義名分があるわ」
「その前に生徒を守ろうよ」
「涼しい部屋で居眠りしたら風邪を引くわよ?」
見られてたんだ。空調で冷えた体が内側からカーっと熱くなる。
居眠りがバレたのは厳しい翡翠先生のお叱りを受ける原因になってしまうけど、わたしを見ていてくれることが嬉しかった。
「頬が赤いわよ」
「え? そ、そうかな」
「私に居眠りを見られていたのがそんな恥ずかしいのかしら?」
「別に全然平気だし。翡翠ちゃん、わたしの後ろの席だから寝顔は見られてないもん」
「そういう話ではなくて、居眠りをしていたことを恥じてほしいのだけれど」
そういう話だよ! と心の中で
裸を見られているのに何を恥ずかしがるんだって話だけど、寝顔は完全に油断してるじゃん。
自分の知らないところで勝手に見られる寝顔の方が百倍恥ずかしいって思う。
「さすがにまた人が少ないわね。あまり人が来ない穴場があるの。そこにしましょう」
まだテスト一週間前じゃないから部活は休みになっていない。
図書室の大きな窓からは植木の向こうに校庭がちらりと見える。
今日は雨だから誰もいないけど、だからと言って休みになるわけではなく校内のどこかで筋トレをしているらしい。
剣道部のそれとは一味違うそれは、なぜか釜瀬くんの記憶を掘り起こした。
どんなに競技で鍛えてもルール無用で押し倒されれば男子に敵わない。
たまたま釜瀬くんに良心が残っていたから何もされずに済んだけど、あんなに力強い声を上げる男子だったらと思うとゾッとする。
「この辺は空調の風が届きにくいから冷えにくいのよ」
「へえ、さすが図書委員だね」
「お兄さん……高月先輩に教えてもらったの」
「ちゃんと女の子を気遣えて偉いじゃん」
「ええ、私はその優しさに勘違いしてしまったのね」
寂しそうな、だけどどこか吹っ切れたように翡翠ちゃんは言った。
そんな切ない表情を見て体温が上がる。
これはきっと風が当たらないせいだ。
「英語だったわよね」
「はい。よろしくお願いします」
翡翠ちゃんはカバンから英語の教科書を取り出す。
表紙には外国人の仲が良さそうな
わたし達と違ってだいぶ年は離れていて、きっとこの二人に恋愛感情は芽生えないんだろうなって思った。
「それで英語の何が苦手なのかしら」
「え?」
「英語で点が取れない原因よ。さすがにアルファベットくらいは読めるでしょう?」
「バカにしすぎだよぉ」
翡翠ちゃんはわたしのレベルを低く見過ぎだと思う。
だってお兄ちゃんに勉強を教わって同じ高校に合格してるんだよ?
少なくとも入試を突破できるくらいの英語力は……あの時はあったかな。現状は不明です。
「英会話は私も無理だけれど、単語と熟語、文法が頭に入っていればそのルールに則って問題を解けばいいだけよ」
「それは翡翠ちゃんだからできるんだって」
「私とケーキを食べに行くのでしょう? 全てを完璧にとは言わないまでも、七十点分くらいなら簡単に覚えられるわ」
「翡翠ちゃん、それ本気で言ってる?」
髪の奥からちらりと覗くその瞳は本気と言っていた。
それが当然であると言わんばかりに一点の曇りもなく。
もっとちゃんと、その綺麗な瞳を見たいと思った。
周りに誰もいない図書室で、気付けばわたしの手は翡翠ちゃんの顔に伸びていた。
「どういうつもりかしら」
「翡翠ちゃん、絶対前髪切った方が良いのにって思って」
「言ったでしょう? 周りの視線が気になるからこうしているの」
「でも、もったいないよ」
こんなに綺麗な顔が隠れているなんて世界の損失だと思う。
わたしも男子に対する恐怖感、嫌悪感は分かるけど、せめてわたしの前でだけは本当の翡翠ちゃんを見せてほしい。
「それじゃあ、教室では今まで通りでいいからさ、今だけでも目を隠すのやめない? ほら、家みたいにメガネもしてないんだし、ちょっと邪魔でしょ」
もっともらしい理由を付けて翡翠ちゃんの説得を試みる。
ちょっと強引かもしれないけど、翡翠ちゃんの視界が遮られているのは本当だ。
わたしが翡翠ちゃんの顔を見たいからじゃなく、ちゃんと翡翠ちゃんを想っての提案。
受け入れてもらえるかドキドキしながら翡翠ちゃんの返事を待つ。
空調の風が当たらないせいでだんだんと蒸し暑く感じてきた。
設定温度が低いと言っても風がなければ体感温度は上がってくる。
「分かったわ。それで
「やった!」
思わず小さくガッツポーズをした。
わたしだけが見られる翡翠ちゃん。
クラスメイトも、図書委員の子も、お兄ちゃんも知らない翡翠ちゃん。
「ヘアピンは持っている? 夜夏が提案したのだから貸してほしいのだけど」
「ありますともありますとも。この日のために持っていると言っても過言ではないね」
基本はポニーテールでちょいちょいアレンジを加えるのでヘアピンは必需品だ。
色気のない簡素なものから可愛いものまで取りそろえている。
クールで色白な翡翠ちゃんには……うーん、どれにしよう。
「これ。いいかしら」
わたしが机の上にヘアピンを広げて悩んでいると、翡翠ちゃんが一つを取り上げた。
飾り気のないシンプルな水色のヘアピン。
本当にただ髪をまとめることを目的としたそれはオシャレとはお世辞にも言えないけれど、翡翠ちゃんが付けたら様になるような気がした。
「あまりこういうのをしたことがなくて。お願いできる」
「もちろん」
イスから立ち上がり、向かい側に座る翡翠ちゃんの背後に回り込む。
普段は翡翠ちゃんを見上げているのでこうして見下ろすのは新鮮だ。
前髪に触れると絹のようにサラサラでいつまでも触っていたくなる。
そんな欲望に耐えながら髪を片側に集めてピンで止めた。
「どうかな?」
自分の席に戻り翡翠ちゃんの顔を確認する。
長い髪を左に寄せて目元を出しただけなのに雰囲気が一気に明るくなって、もしクラスメイトに見られたら人気が高まってしまうと思った。
納得のいく出来に仕上がったので手鏡で本人にも新しい翡翠ちゃんを確認してもらった。
「なかなかうまいのね」
「えぇ? わたしのスタイリングについての感想? もっとこう、ないの? 新しい自分にドキッとしたりとか」
「だって自分の顔よ? 家で毎日見ているわけだし」
「むぅ……感動がないなあ」
翡翠ちゃんはもっと自分の魅力に気が付いてほしい。
あまり魅力を振り撒かれると遠くの存在になってしまいそうなのが心配だけど、毒を吐く性格は変わってないから大丈夫かな。
「夜夏、また私に対して失礼なことを考えているでしょう」
「翡翠ちゃんってわたしの心が読めるの?」
「もはや言い逃れもしないのね。その根性だけは認めてあげるわ。それで、一体なにを考えていたのかしら?」
「外見は浄化されても翡翠ちゃんの毒は変わらないだろうなって」
「むしろ綺麗な生き物にこそ毒があるのよ。この毒が私を魅力的にしているのだとしたら皮肉なものね」
翡翠ちゃんの顔やおっぱいに釣られて男子はその毒の返り討ちにある。
それならわたしは?
毒に魅力を感じてしまった翡翠ちゃん中毒のわたしは、これからも友達でいられるのだろうか。
「さ、いつまでも遊んでいないで勉強を始めるわよ。夜夏に話を逸らされ続けたらいつまでも勉強できないわ」
「べべべべ別にそんな意図はまったくない……とは言い切れないですが」
「本当は基礎からしっかり学ぶのがいいのだけど、テストの目標をクリアするためには教科書の中の文章を理解するのが一番よ」
そう言って翡翠ちゃんは教科書を開き、今授業で扱っている文章の解説を始める。
わたしの教科書は新品のようだけど、翡翠ちゃんのはたくさん書き込みがされていて、これを眺めているだけで勉強したような気分になる。
「んんん、やっぱりこちら側だと読みにくいわね」
翡翠ちゃんは教科書をわたしに向けてくれいてる。だから必然的に翡翠ちゃんは反対側から読むことになる。
眉間にしわを寄せながら授業のおさらいをしてくれているけどだいぶ辛そうだ。
「どうも反対から文字を読むのって苦手なのよね。隣、いいかしら」
「うん。どうぞ」
イスからスッと立ち上がると躊躇うことなくわたしの右隣に座った。
正面から顔を見られないのは残念だけど、視線を右に移すとわたしが貸してあげたヘアピンが目に入る。
こうやって隣り合って勉強するのも良いものだと思った。
それに横からだと胸の膨らみがより一層強調されているように見える。
隣の席の男子が羨ましい。
「実はこんな風に
「ふ、ふーん」
翡翠ちゃんが唐突に言った。
わたしは興味がなさそうに振舞ってみるけど、心はやっぱりそうはならない。
翡翠ちゃんだけが知っているお兄ちゃんがいるのも当然のこと。
だけどそれよりも、わたしの知らない、お兄ちゃんだけが知っている翡翠ちゃんがいることがショックだった。
もっと早く仲良くなっていたらここまで深くはまっていかなったのかな。そんな風に考えてしまう。
「実はその時、こうやって胸を当ててみたの」
大きな胸が腕に触れる。
ブラもあるし、手で触るのとは感触が全然違う。
だけどそこには確かに翡翠ちゃんの胸がある。
普段は触れることが許されないその秘めたる部分に触れてしまっている。
それも完全に二人きりの浴室ではない。
いつどこか他の生徒や先生が来てもおかしくない学校でだ。
その背徳感がより一層わたしを熱くした。
風がほしい。
体を冷やすだけでなく、この空気を変えるための一筋の風が。
このままではわたしはもう戻れなくなってしまう。
「高月先輩ったら耳まで赤くなっているのに何も気付いていないふりをして、なんだか可愛いなって思ったわ」
「お兄ちゃんムッツリだからね。それだけアピールされても手を出さないのは紳士じゃなくてヘタレだよ」
照れ隠しにお兄ちゃんをぼろくそに言う。
わたしを選んでくれなかった腹いせではない。
今のこの気持ちを振り払うために、必死になって悪態をつく。
そのはずなのに、こうやって悪口を言えるのも仲が良いからなんだと考えてしまう。
翡翠ちゃんの毒は愛情だ。
わたしは毒のとりこになっている。
そして毒の中には、本当に甘くて優しい毒が時折混ざっている。
「ちょうど今のあなたみたいにね」
耳元でそっとささやかれた言葉は脳から全身に伝わっていく。
血管は広がり、鼓動は早くなり、身震いする。
「こうしているとまるで
「翡翠ちゃんってたまに変なことを言うよね」
なぜ彼女はこんなにも意識させる言葉を的確に使うのだろう。
振り払おうともがけがもがくほど、その言葉がわたしの中に深く入り込んでくる。
「翡翠ちゃんって彼氏ができたらこういうことするんだ」
「ええ、するでしょうね。知らない男には不快で仕方がないけど、心から敬愛するい人にならこの体を差し出せる」
クールで自信たっぷりな表情は変わらない。
翡翠ちゃんは本心からそう思っているし、実際に行動に移せる。
付き合いが短くても分かる。
それくらい雛田翡翠という女の子はひねくれていて、真っすぐな女の子だから。
「一つ提案があるのだけど」
「なに?」
空調の動きが強くなったのかモーター音が図書室の中に響き渡る。
その無機質な音が外の雨音と混じり、二人だけの空間を外界から遮断していく。
まるで他に誰もいないような錯覚に陥り、今ならどんな提案も受け入れてしまいそうだ。
「私と付き合ったら、お兄さんのこと諦められる?」
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