第17話 ミス

「具合が悪くなったらすぐ保健室に行くんだぞ」

「うん。ありがとね」


 小さいく手を振ってお兄ちゃんを見送る。

 翡翠ちゃんのことを考えていたらお兄ちゃんから見ても顔色が良くなって、許可も得られて無事に登校することができた。

 本当は百井先輩と一緒に登校するつもりだったみたいだけど、今日はわたしが心配だからと付き添ってくれた。

 彼女持ちの人と一緒に登校できるのは妹の特権だ。


「またブラコンに逆戻りなのかしら?」


 ぬーっと気配を感じさせずに背後からひすい翠ちゃんが現れた。

 あれだけ会いたいと切望していたのに心の準備ができていなくて心臓が飛び出しそうになる。


 美人は三日で飽きると言うけど全然そんなことはない。

 黒くてサラサラの髪が肌の白さとキメ細かさをより引き立てている。

 こんなに蒸し暑いのにブラウスの上にベストを着ているから分かりにくいけど、わたしはその胸のたしかな膨らみを体験している。

 

 わたしの頭の中をどんどん支配する存在が今目の前にいる。

 それだけでわたしはどうかなりそうだった。


「今朝はちょっとね。いろいろあって貧血みたいになっちゃって。それで心配して一緒に付いてくれたの」

「そう。優しいお兄さんね」

「うん。本当に大好きな自慢のお兄ちゃんなんだ」


 翡翠ちゃんの目はどこか寂しそうだった。

 彼女でも妹でもない。同じ委員会に所属する後輩。


 お兄ちゃんは妹みたいに見てるって言ってたけど、それはあくまでも比喩だ。

 やっぱりこれを明かすのは今じゃない。そう確信できた。


「勉強はどうする? やっぱりお兄さんに見てもらう?」

「ううん。翡翠ちゃんと一緒にいたい」

「え?」


 思わず本音が漏れてしまった。

 せっかく彼女ができて受験生でもあるお兄ちゃんは自分の勉強に集中してほしい。

 わたしは新しくできたお友達と勉強したい。

 それが本音だ。嘘偽うそいつわりはない。


「いや、ほら。お兄ちゃん受験生だしさ。自分の勉強に専念してもらわないと。予備校生のお兄ちゃんをお世話するのはさすがに大変だし」

「あまり答えになっていないような気がするのだけど」

「そ、そうかな?」

「ええ、お兄さんを気遣っているのはよく理解できたわ。でも、私と一緒に居たい理由にはなっていない」


 さすが翡翠ちゃん。するどい。

 視線は冷たいのに、血色がよくほんのりと湿った唇に目を奪われる。

 もし昨日、この唇に触れていたらわたしはもう少し素直になれたのだろうか。

 

「えーっと、一緒に居たいから……じゃダメかな?」

「全然理由になっていないわね」

「だから理由なんてないんだよ。一緒に居たいから一緒に居たい」

「…………」


 別に嘘をいているわけじゃない。

 本当に一緒に居たい。

 前に約束したから。翡翠ちゃんは勉強ができるから。好き……かもしれないから。

 理由を言おうと思えば言うことはできる。

 だけど、それを言葉にしてしまったら翡翠ちゃんとの関係が固まってしまいそうで怖かった。


「まあいいわ。部活が休みになるのは来週から?」

「そうなんだけど……今日は自主休みにしようかな」

「サボりは癖になるわよ。と、言いたいところだけど、事情が事情ですものね」

「さすが翡翠ちゃん、わかってるぅ」

「それに今朝は具合が悪かったんでしょう? それなら仕方ないわ」


 別にたいしたことはないんだけど、お兄ちゃんにあとで一言LINEしておけば部活は休めるはず。

 翡翠ちゃんと勉強するから心配しないでって一言付け足しておこう。

 今のわたしには翡翠ちゃんがいるんだ。


 頭の中をどんどん翡翠ちゃんに侵食されていく。

 最初は恐怖もあったのに、今はそれが快感に変わっている。

 このままじゃいけない。歯止めが利かなくなってしまたらわたしは……。


「図書室でいいわよね。あまりママ……母を喜ばせると調子に乗ってしまうから」

「うん。あんまり連続で行くのも気を遣うし」

「テスト一週間前になると混み始めるから、そしたらうちにいらっしゃい。テスト直前なら母も大人しくしてくれるから」

「なんだか翡翠ちゃんがママさんみたいだね」

「そういうところはあるかもしれないわ」

「料理はできないけどね」


 余計と分かっていて一言付け足すと翡翠ちゃんはギロリとわたしを睨んだ。

 勉強もおっぱいも負けてるわたしが唯一勝てるのが料理。

 いつか追い抜かれると分かっているからこそ、マウントを取れるうちに取っておく。


夜夏よるかは私の料理の先生ですものね。自分で作るのと人に教えるのは別物だと思うのだけれど、その辺は問題ないのかしら」

「大丈夫! ……じゃないかなあ」

「ずいぶんと頼りない先生ね。料理の腕でも私がすぐに勝ってしまうんじゃないかしら」

「それってつまり、料理以外はわたしに勝ってる自覚があるってこと?」

「ええ。あなたも力の差を理解していると思っていたのだけど」


 相変わらず口の減らない子だ。

 女子のコミュニティでは絶対にうまくやっていけないタイプ。特に裏表が激しい陽キャのグループでは。

 だからこそ新鮮で、ずかずかと遠慮なく弱点を突く翡翠ちゃんの言葉が癖になる。


 ああ、放課後が楽しみだな。

 わたしの心はすっかり翡翠ちゃんに支配されていた。

 それに気付かないふりをするから、話がこじれてしまうのに。


***


 待ちに待った放課後がやってきた。

 一応体調不良で部活を休むことにしているので何となく気怠い雰囲気を出しているけど、翡翠ちゃんと二人で勉強するって考えたら体が火照り頬がゆるむ。

 まるで恋する乙女みたいだ。


「それじゃあ行きましょうか」

「うんっ!」


 まだ自分の席で荷物を片付けているわたしに声を掛けてくれた。

 翡翠ちゃんも待ちきれない気持ちなのだとしたらこんなに嬉しいことはない。


「もう少し具合が悪そうにしてはどうかしら?」

「剣道部の子はもう体育館に行ったから平気平気」

「夜夏がこれからも私に勝ち続けるものが分かったわ」

「なになに?」

「サボりの才能。サボっても罪悪感を抱かない図太い精神」


 フッと翡翠ちゃんは小バカにしたような不敵な笑みを浮かべる。

 褒めると見せかけて貶す。

 一度持ち上げられた分だけ落とされた時の衝撃が大きい。

 

「むぅ……翡翠ちゃんの方こそあんまり真面目だと肩凝るよ?」

「ええ、自覚しているわ。背負っている……いえ、正確にはぶら下がっているものが違うのだから」


 ちょうど目線の高さに翡翠ちゃんの肩凝りの原因があった。

 これは不可抗力だ。真っすぐ前を見ていたらそこに存在していた。


「あまりジロジロ見ているとセクハラで告発するわよ」

「ジロジロは見てませ~ん。たまたまそこにあったんですぅ」

「はぁ……もういいわ。早く行きましょう」

 

 翡翠ちゃんは翻り図書室へと向かう。

 ただしその歩みはとても遅く、わたしが急いで支度をして席を立てばすぐに追いつけそうだ。

 翡翠ちゃんはツンデレってやつなのかな。そういうのが似合いそう。あとで言ってみようかな。


「翡翠ちゃんってツンデレなの?」

「は?」


 廊下を歩く翡翠ちゃんに追い付くなりわたしは気になっていたことを質問した。

 人間はふいにされた質問にはつい本音で答えてしまうらしい。

 その答えが『は?』だったので、翡翠ちゃんはツンデレを知らないのかもしれない。


「ツンデレって知らない? 普段はツンツンしてるのにたまに甘いの」

「それくらいは知っているわよ。高月先輩も好きと言っていたわ」

「へえ、そうなんだ」


 それは知らなかった。まさかお兄ちゃんがツンデレ好きだったなんて。

 でも実際に告白したのはいつも優しい百井先輩だ。

 好きなタイプと実際に付き合う人というのは別なのかもしれない。

 リアルのツンデレって面倒臭そうだしね。


「夜夏、あなた今、失礼なことを考えていないからしら?」

「ぜ、全然!」

「人ってね、嘘を吐くと視線が右下に下りるそうよ」

「へえ、だからわたしは翡翠ちゃんの太ももを拝んでるんだ」

「私がツンデレかどうかは置いておいて、ツンで夜夏に接するのは名案かもしれないわね」

「デレがないと辛いよぉ」


 翡翠ちゃんはわたしの左側を歩いている。

 今まではお兄ちゃんの左側を歩くことが多かったので、左に人がいるというのはちょっと新鮮だったりする。

 カバンを左手に持っていて良かった。

 もし手が空いていたら翡翠ちゃんの手を握っていたかもしれない。


 触れようと思えば触れられる距離に翡翠ちゃんがいるのに、わたしはそれができない。

 女子同士で手を繋ぐなんてよく見る光景だ。仲の良い友達なら全然普通の行為。

 わたしが変に意識してしまっている。

 

 友達だと思えば思うほど、知りたくない感情が湧き出てくる。

 まるで温泉のように、何かきっかけがあれば一気に噴き出しそうだ。

 だからわたしはそこに蓋をする。


 見て見ぬふりをして、うっかり掘り起こしてしまわないように。

 そして友情という感情を膨らませる。


 今はただ友達と一緒に過ごす時間が楽しいだけ。

 だからわたしのテリトリーをどんどん侵略してくる。


「ところで教科は何がいいのかしら?」

「うーん。理系でも文系でも使う英語かなあ。英語ができればどんな進路でも大丈夫そうだし」

「分かったわ。さすがに全教科をしっかり完成させるのは難しいから今回は英語に力を入れましょう」

「今回はってことは、これからも勉強見てくれるの?」

「ええ、私なりのデレよ」

「それはデレって言わないから!」


 一緒に勉強できるのは嬉しいんだけどなあ。

 だけどそれだけじゃなくて、何かを教えたり教わったりだけじゃなくて、本当に何の用事もないのに一緒にいたい。

 遊びに行くわけでもなく、ただダラダラと二人で過ごしてみたい。

 翡翠ちゃんは耐えられないかもしれないけど、一緒に堕ちるところまで堕ちたら背徳感が堪らないだろうな。

 

「それなら夜夏はどんなデレが希望なのかしら」

「言ったら叶えてくれるの?」

「それで勉強のモチベーションが上がるなら検討するわ」

「翡翠ちゃん、それすでにデレだよ」

「チョロい女ね」

「ひどっ!」


 何の躊躇ためらいもなく翡翠ちゃんはばっさりとわたしを言葉の日本刀で真っ二つにした。

 たしかにチョロいけどさ、それを本人の前でさらっと言っちゃう?

 翡翠ちゃん以外は絶対こんなこと言わないよ。

 

「冗談は置いておいて何かないの? ご褒美がないとなかなか継続できないわよ」

「翡翠ちゃんもご褒美用意してるの?」

「ええ、目標点をクリアしたらケーキを食べられるルールにしているの」

「なら、わたしも目標点をクリアしたらケーキ食べる。翡翠ちゃんと一緒に」

「そんなのでいいの?」

「目標点は翡翠ちゃんより低く設定するけどね!」


 友達と一緒に勉強して、テストが終わったら一緒にケーキを食べる。

 なんて素敵な友情なんだろう。


 テストが終わったら釜瀬くんと夏休みの計画を立てるなんて話してたっけ。

 あの時は全然トキメキもワクワクもしなかったのに、今はただケーキを食べると考えただけで胸が高鳴る。

 その前に勉強をしないといけないけど、翡翠ちゃんと一緒なら乗り越えられる。


「もし目標点をクリアできなかったら、指をくわえて私がケーキを食べる姿を見るがいいわ」

「わたしは翡翠ちゃんと一緒なら何でも……」


 言いかけたところでわたしは言葉を紡ぐのを止めた。

 これでは目標を設定する意味がない。何でも良いなんて逃げる言い訳だ。

 わたしは翡翠ちゃんと楽しい時間を共有したい。


「絶対に目標をクリアして翡翠ちゃんと一緒にケーキを食べるから」

「私が教えるのだから七十点取るなんて当然よ」

「え? ちょっと待って。七十点?」

「そうよ。私は九十点以上、なんなら百点を目指しているわ」

「翡翠ちゃんはどうぞご勝手に百点を目指してください。わたしの目標は平均点くらいだったんですが……」


 さも当然のように百点を目標に掲げる翡翠ちゃん。

 長い髪の向こうに見える大きな瞳にはメラメラと闘志の炎が燃えているように見えた。


「平均点を目標にするのは結構だけど意外と難しいわよ。自分が簡単だと感じれば周りも出来が良い。つまり平均点が上がる。それなら最初から具体的な点数を決めた方がクリアしやすいわ」

「うぅ……なんか翡翠ちゃんにうまく乗せられてる気がするけど……わかった! 七十点以上取る!」

「その意気よ。私がみっちり付き合ってあげる」


 わたしはとんでもないミスをしてしまった。

 ただ友達と勉強するだけのはずが、濃密な個人レッスンの関係になってしまった。

 このままではいけないと頭では分かっているのに、翡翠ちゃんの存在が理性を狂わせる。

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