第16話 テリトリー
一夜明けて今日は梅雨らしい雨が降っていた。
天気予報によると明日は晴れるらしいので洗濯は明日に回そう。
昨日は運よくお兄ちゃんと顔を合わせずに済んだ。
百井先輩とどんな風に過ごしたのかを想像してしまうし、
だけど同じ家に住む以上、いつかは絶対に顔を合わせる。
お兄ちゃんと一緒に暮らせることがわたしの自慢だったのに、今はどちらかと言えば心にずっしり重くのしかかっている。
昨日の夜は何も作っていないので朝ごはんとお弁当のおかずを一気に作る。
二食続けて同じようなメニューになってしまうのは仕方がない。
わたしはそんなに器用な人間じゃないから、目の前のことに集中するとその間だけは他のことを忘れられた。
タタタっと階段を降りる音が聞こえる。
この軽快なリズムはお兄ちゃんの足音だ。
そんな軽快さとは反対に、足音が近づくにつれてわたしの心臓はキュッと掴まれたみたいに苦しくなる。
「おはよう
「お兄ちゃんおはよう」
いつも通り朝の挨拶を交わしたはずなのに、なんとなく二人の間にぎこちない空気というか、変な気まずさがある。
たぶんお兄ちゃんもそれを感じ取っている。
なんとなくお互いにどう会話のキャッチボールをしていいか分からず、テレビの音だけが家の中に響いた。
お兄ちゃんは何も言わずに洗面所に向かい、わたしは黙々と料理をする。
前はこの時間にどういう風に会話してたっけ。
記憶を引っ張り出せばたくさんの思い出が蘇るのに、どうしてもそれを再現することができなかった。
「
自分の口からこんな言葉が漏れ出ていたことにハッと気が付いて周囲を見回す。
お兄ちゃんには聞かれてないみたい。
「あ、いけない!」
ちょっとボーっとしているうちにハンバーグを焼き過ぎてしまった。
急いでひっくり返すと黒くこげてしまっている。
「夜夏、どうした」
ちょっと大きな声を出してしまったのでお兄ちゃんが洗面所から戻ってきた。
まだ髪は寝癖でボサボサで格好もだらしないのに、わたしにとってもカッコよく見える。
「ううん。大丈夫。ちょっとハンバーグ焦がしちゃって」
「ケガがないなら良かった。それにハンバーグも香ばしくて美味しいんじゃないか」
「さすがにこれは体に悪いよ」
「そんなことないって。むしろこれがオトナの味ってやつだろ」
もはやハンバーグと呼べるのか分からない黒い塊を見てお兄ちゃんは笑いながらそう言った。
もし翡翠ちゃんならこれを見てなんて言うだろう。
最初に毒を吐いて、それでも結局は一緒に食べてくれるのかな。
お兄ちゃんはわたしの辛いことを代わりに背負ってくれる。
翡翠ちゃんはわたしと一緒に辛いことを共有してくれる。
お兄ちゃんはお兄ちゃんで、翡翠ちゃんは友達だから。
「夜夏の味覚は子供だからな。試しに一口だけでも食べてみるか?」
からかうようにお兄ちゃんは言った。
前のわたしならこの提案を断って、全部お兄ちゃんに任せていた。
だけど、失恋をしてわたしは少しオトナになったんだ。
「試しに、食べてみる」
「本当に? 無理しなくていいんだぞ」
まさかの肯定にお兄ちゃんが戸惑っている。
ずっと一緒に暮らしてきて、お互いのことを何でも知っていると思っているから。
だけどそれは間違っている。
お兄ちゃんはわたしの知らないところで彼女とイチャイチャしているし、わたしはお兄ちゃんの知らないところで翡翠ちゃんと仲良くしている。
わたし達はお互いに知らないところでオトナになっていく。
「本当に一口だけ」
黒焦げになったハンバーグに箸を入れると中からジュワっと肉汁がこぼれる。
外が残念なだけで中身はむしろ美味しそうだ。
「いただきます」
そうは言っても外はこんがり黒焦げで炭の匂いがする。
ちょっと抵抗感を持ちつつハンバーグを口に入れると苦みが広がった。
その分、お肉の味があとから押し寄せた時の感動はひとしおで、むしろ今まで一番良くできたんじゃないかと思うくらいだ。
「どうだ夜夏」
「最初は苦かったけど、噛んでたら美味しくなってきた」
「でしょ? だって夜夏が作ってくれたんだから、美味しくないはずがないよ」
お兄ちゃんの優しい言葉が心に染み渡る。
メインのおかずを失敗して朝ごはんもお弁当もダメになったと思ったけど、お兄ちゃんが救い出してくれた。
でも、この感情が恋なのか自分でも分からない。
今までは恋だったはずなのに、今は恋ではない気がする。
お兄ちゃんに百井先輩という彼女ができたから?
お兄ちゃんをお兄ちゃん以上の存在で見ている自分と、恋愛感情とは別の視点でお兄ちゃんを見ている自分がいる。
ここまで入ってきたら恋人、ここにいる間はお兄ちゃん。
そういう領域があるとしたら、お兄ちゃんはお兄ちゃんの場所にいる。
「どうした? なんか様子が変だぞ。具合でも悪いのか?」
「ううん。平気。ちょっと考えごと」
「無理はするなよ。昨日だって部活で倒れかけたんだから」
「うん。ありがと」
彼女ができてもお兄ちゃんはわたしを気に掛けてくれる。
それはきっと兄としての責任感であって、わたしに好かれたいみたいな下心はない。
だからこそ安心できるし、わたしのテリトリーに必要以上に入ってこない。
今、目の前には大好きなお兄ちゃんがいるのに、頭の片隅には翡翠ちゃんの顔がちらついている。
いつか恋人になりたいから、ずっとお兄ちゃんでいてほしいという気持ちに変わる。
自分の中にどんどん翡翠ちゃんが入ってくる。
お兄ちゃん一筋だったから分かるこの感覚。
お兄ちゃんのことは好きだけど、どんどん翡翠ちゃんの割合が大きくなる。
一緒にご飯を食べるのも、一緒に勉強するのも、お兄ちゃんより翡翠ちゃんがいいって思ってしまう。
わたしは最低だ。
自分の中に生まれた感情の正体を知りたくないばっかりに、いつまでもお兄ちゃんを想い続ける妹を演じている。
この好きは、恋愛の好きじゃないんだ。
兄妹だから許されない好き。
恋人がいるから許されない好き。
でも、わたしには許される好きもある。
その好きだけ
「なんか顔色悪いぞ。やっぱり今日は休んだ方が」
「平気だって。それにテストが近いんだから休むわけにはいかないよ。テストに出るところ先生が授業中に喋るんだしさ」
「そんなのあとで友達に聞けばいいだろ。釜瀬は同じクラスじゃなかったっけ?」
釜瀬くんの名前がお兄ちゃんの口から出てきてドキッとする。もちろん悪い方でだ。
お互いに昨日の夜のことは触れないでいたのに、こうして名前が出てくると派生する可能性がある。
体調は全然平気なはずなのに嫌な汗が額から出てきて、自分でも具合が悪いんじゃないかと錯覚してしまう。
「釜瀬くんは別のクラスだよ。同じクラスなのは翡翠ちゃん。ほら、図書委員の」
「ああ、
「うん。最近ね」
他にも剣道部員で同じクラスの子はいるのに、わたしは反射的に翡翠ちゃんの名前を出した。
口の中がカラカラで上手に声を出せない。
それでも動揺を隠すように必死に声を絞り出す。
きっかけがお兄ちゃんの告白現場に居合わせたからなんて口が裂けても言えない。
「雛田さん周りに壁を作るところがあるから安心したよ。新しいクラスで夜夏と友達になってくれて」
「お兄ちゃんは翡翠ちゃんの何なの?」
「うーん。難しいけどお兄ちゃんみたいなものかな。夜夏に比べるとだいぶ大人っぽいけど」
「そっか」
お兄ちゃんが翡翠ちゃんをどんな風に見ているか。
本人も知らない事実をわたしだけが知ってしまった。
血は繋がってないけど、妹みたいな存在。
そんなの、翡翠ちゃんにだって勝ち目がないじゃん。
わたしと同じように兄妹に分類されてしまったら、もう絶対に恋人のテリトリーには入れない。
絶対……は言い過ぎかな。でも、勝率はかなり低い。
血の繋がりがない分だけわずかな可能性を持っている。
だけど負けてしまった。選ばれなかった。
わたしと同じように。妹だから。
また一つ、翡翠ちゃんとの共通点ができたことに喜ぶ自分がいる。
わたし、最低だ。
「雛田さんのことはいいんだよ。夜夏、顔色悪いから今日は休め。弁当は自分で詰めるし、夜もどうにかするから」
「本当、大丈夫だから。ちょっと休めばすぐに良くなる」
「家を出るまでに顔色が良くなってなかったら無理にでも休ませるからな」
「うん」
わたしはソファに寝転がる。
テレビの星座占いで蟹座は十位だった。
最下位なら運を回復するアドバイスがもらえるのに、ただ単に運が悪くてどうしもできない順位。
雨は全員に平等に降り注いでいるのに、シトシトと音を立てるそれはわたしの気持ちを表しているように聞こえた。
「顔色、少し良くなってきたかな」
だって学校を休んだら翡翠ちゃんに会えないから。
翡翠ちゃんのことを考えると冷たくなった指先に少しずつ熱が戻っていくのが分かる。
鏡で自分の顔を見ずに寝てしまったから状態がよく分からない。
希望的観測で体調が良くなっていると信じるしかなった。
わたしはただ、最近できた新しい友達に会いたいだけ。
もう少し心が落ち着いたら、お兄ちゃんが翡翠ちゃんをどんな風に見ていたか教えてあげよう。
いつが良いかな。
そうだ、翡翠ちゃんに好きな人ができた時が良い。
新しい恋が始まった時、過去の恋を笑い話にするんだ。
その時は泣けてくるかもしれないけど、わたしと翡翠ちゃんならきっと笑い合える。
だって、同じ人を好きになったファン友達なんだから。
アイドルさんが結婚したら祝福して悲しんで、感情がぐちゃぐちゃになってそれでもやっぱり好きで応援し続ける。
わたしと翡翠ちゃんはお兄ちゃんをそういう風に見るって決めたから。
「なあ夜夏、どうしても変な隙間できるんだけど、普段どういう風にしてるんだ? ああ! 起き上がらなくていい。寝たままヒントをくれ」
「まったく! お兄ちゃんはわたしが居ないとダメなんから」
翡翠ちゃんみたいにハァっとため息を吐いてみた。
全然色気がなくて自分でちょっとおもしろくなってしまった。
「ああ……だからまだ寝てろって」
「顔色良くなってるでしょ?」
「そうだけどさ」
「はいはい。お弁当作りはわたしの仕事なの」
自分が元気であることをアピールするように再び台所に戻る。
お兄ちゃんのおかずの詰め方は雑で無駄なスペースが多い。
余ったおかずは夕飯にすればいいんだけど、こんなちょっとじゃ寂しすぎる。
しっかり全部お弁当に詰められるように計算したわたしの腕前を思い知るがいい!
料理なら翡翠ちゃんに負けないんだから。
「楽しそうにしてるのは良いんだけど、本当に無理はするなよ」
「分かってるって。お兄ちゃんの方こそ、わたしにばっか優しくしてると百井先輩にフラれちゃうよ?」
「今は夜夏のお兄ちゃんだ。それにハルだってお前を妹みたいに思ってるぞ?」
「そうやって外堀から埋めようとするのがお兄ちゃんっぽい」
「なんだよ外堀って」
「外堀は外堀だよ」
まだ高校生のくせにお兄ちゃんは百井先輩との結婚を考えている。真面目だからきっとそうだ。
だからまずわたしを先輩の妹ポジションにして高月家に取り込むんだ。
あんなにハッキリと告白できたんだからもっと素直に気持ちを伝えればいいのに。
「あっ!」
「どうした?」
「ううん。ごめん。なんでもない。ちょっと思い出したことがあって」
「そうか。僕が代われる用事なら変わるからな」
「ありがと。大丈夫。たいしたことじゃないから」
いつか翡翠ちゃんに言った「素直じゃない」という言葉がブーメランのように自分の心に突き刺さった。
友達より先のテリトリーに入ってこないようにお兄ちゃんという厳重な壁を作っても、わずかな隙間から少しずつ翡翠ちゃんが入り込んでくる。
わたしは今、そのお兄ちゃんの壁を放棄しようとしていたのだから。
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