第15話 知りたくない
突然の訪問にも関わらず
来るのは二回目だけど家の大きさと広さに圧倒されてしまう。
玄関を開けると明るくて、中に誰かいて、美味しそうな匂いがするのってなんか良いなって思った。
基本は帰ったらわたしが夕飯の支度をして、お兄ちゃんは洗濯物をしまったりして、あまりゆっくりできなかったから。
そんな共同作業もなんだか夫婦みたいで楽しいんだけどね。
「いらっしゃい。今日はお兄さんが外で食べてくるんですって。青春ね~」
「最近彼女ができたばかりなんです」
「あらそう。そしたら
ちょっと年上のお姉さんくらいにしか見えない翡翠ちゃんのママは、まるで
いくつになっても、なんて言い方は失礼かな。
女の人って他人のそういう話に興味が尽きないのかもしれない。
「夜夏ちゃんのお兄さんならきっと素敵な人なんでしょうね」
「それはもう! 自慢のお兄ちゃんです」
わたし達はこんな風に褒められることは少なくない。
幼い頃に母を亡くし、家のことを兄妹二人で頑張っている。
世間の大人からすれば自分の子供と比較してさぞ立派に見えたことだろう。
だからわたしはあまり
お兄ちゃんがすごいのは本当だから、褒められたら素直にそれを受け取る。
例えそれが遠回しな嫌味だとしてもだ。
褒め言葉にはお礼を言うし、反対に貶されれば反論する。
それがわたしの好きなものに対する姿勢だ。
「それよりすみません。急にお邪魔しちゃって」
「いいのよ。パパのおかずを減らせばいいだけだから」
「ええ!? それならやっぱりわたしは……」
さすがにまだ挨拶を済ませていないパパさんのおかずを減らすのは申し訳ない。
コンビニでお弁当でも買って、お兄ちゃんに釜瀬くんのことを聞かれないうちにさっさと寝てしまおう。
「大丈夫よ。パパは
「そういう問題じゃないよぉ」
仕事を終えて愛する妻の手料理が待っていると思ったら、なんだかいつもより量が少ない。
もしかして離婚の危機か!? なんて風になってしまったら困る。
「なーんてね。明日のお弁当用のおかずを夕飯にアレンジしたのでした」
「つまり明日のお弁当のおかずが減るということかしら?」
翡翠ちゃんの目の色が変わった。長い前髪からチラリとのぞく鋭い眼光はまるで飢えた獣だ。
パパさんのおかずが減るのはいいけど、自分のおかずが減るのは許せないらしい。
実にわかりすい反応である。
「翡翠ちゃんみたいに自分でお料理できないんだから文句言わないの」
その言葉にわたしは思わず反応してしまう。
「今は料理できないかもしれないですけど、これから練習しますから。ね?」
ほんのちょっと言葉に怒気を込めてしまった。
翡翠ちゃんは料理の経験がまだ少ないだけし、それはママさんが凝り過ぎるのが原因の一つ。
きっと翡翠ちゃんなら練習すればわたしより上手になるんだから。
「実はねママ。私が勉強を教える代わりに、夜夏が料理を教えてくれることになったの」
「そうなの? それは楽しみねえ。夜夏ちゃん、もううちにお嫁に来てよ」
「あはは。考えておきます」
人の家庭に口を出すな! なんて言うタイプではないと思うけど、人の地雷はどこにあるか分からない。
翡翠ちゃんに料理を教える許可を得るどころか嫁入りの許可まで頂いてしまった。
「女同士で嫁入りはおかしいでしょう」
「うふふ。翡翠ちゃんは頭が固いわねえ」
ママさんはうふふと笑いながらそんなことを言った。
もしも世の中の人がみんなママさんみたいなら、わたしはお兄ちゃんと結婚できたのかな。
それでもやっぱりお兄ちゃんは百井先輩を選んで、わたしと翡翠ちゃんは友達になって、そして……。
絶対にありえない『もしも』を考えるとなんだか虚しくなった。
お兄ちゃんとは恋人になれないけど今はまだ思い続ける。
さっきそう決めたばかりじゃない。
「ちなみに明日のお弁当のおかずもちゃーんと用意してあるから安心してね」
「分かってるわよ。それに夜夏を呼んでママの負担を増やしたのは私だもの。おかずで許されるなら安いものよ」
「翡翠ちゃんはママと違って真面目ねえ。翡翠ちゃんとお友達のためならこんなの負担でも何でもないわ」
ママさんは甘いんじゃなくて優しい。そんな風に感じた。
翡翠ちゃんがママさんにどこまで事情を説明しているのか分からないけど、触れてきたのはお兄ちゃんの件だけでわたしの事情には一切触れてこない。
口止めの約束もあるけど、正直、話すことで思い出したくもない。
翡翠ちゃんに吐き出して、あれでもう全て終わったことにしたい一件だ。
自分以外の誰かが作った温かい料理はどんな味付けをしているか未知数で、一口食べる度に感動が押し寄せる。
これはわたしでも作れるかな。お兄ちゃんに食べさせてあげたいな。翡翠ちゃんと一緒に作ったら楽しいだろうな。
うん。やっぱりそうだ。
断ち切れなかったお兄ちゃんへの想いを改めて復活させても、それでも翡翠ちゃんのことを考えてしまう。
一緒にいたい。一緒に何かしたい。また一緒に触れ合いたい。
この感情は一体なんなんだろう。
正体を知ってはいけない気がして、わたしは食べることに意識を集中させた。
***
「家で勉強する時はメガネなんだ」
「ええ、普段からメガネだと弱い者扱いされそうだから」
美味しい夕飯をご馳走になったあとは翡翠ちゃんとお喋りタイム! に突入するのかと思いきや、翡翠ちゃんはおもむろにメガネを装着して、いかにも勉強しますオーラを出しながら机にノートと教科書を広げていった。
「ふーん。わたしの前ではいいの?」
「確実に私の方が上だと分かっているもの」
「ひっどーい! わたしは料理の先生なんだよ」
「今は私が先生の時間なのだけど」
メガネをクイっとあげる姿はまるで女教師だ。
いつもは制服をきっちり着こなす翡翠ちゃんも、さすがに家では多少ラフになるようでブラウスのボタンが開いている。
それがさらに女教師らしい色気を醸し出していた。
「でもさでもさ、たしかに勉強するって言ったけど、いざこういう時間になるとやっぱり勉強じゃなくてお喋りしたいって思いませんか?」
「私はその欲望を抑えて、心を鬼にしてあなたの先生になっているの」
「翡翠ちゃん、無理しなくていいんだよ? 自分に素直になろうよ」
自分の言葉が胸にチクリと刺さった気がした。
素直になれてないのはどっちだ。へらへら笑って、一度失恋した相手をまた好きになって、友達と言い張って。
このモヤモヤした気持ちは自分に素直になっていないから生まれている。
「そうね。夜夏がそう言うのなら素直になろうかしら」
「え?」
翡翠ちゃんはメガネを外すとわたしの横にぺたんと座った。
スカートから露わになる太ももが艶めかしい。
一緒にお風呂に入った時は上半身に目が行っていたけど、翡翠ちゃんは脚も綺麗だ。
「今頃二人はキスしてたりして」
「…………」
嫌な妄想が浮かぶような一言を耳元で囁かれて、わたしは言葉出なかった。
それに、キスという単語は忘れようとしている記憶をより鮮明に脳に焼き付けてしまう。
「二人はもう三年生。来年には大学生だもの。それくらいは、あると思うわ」
翡翠ちゃんだってそんな想像をしたら辛くなるはずなのに。
現に声が少し震えている。
「どうしてそんなこと言うの? 本当に素直になってる? なんかおかしいよ」
「おかしくなんてないわ。自分の気持ちに素直になった結果、こういうことを言っている」
訳が分からなかった。
お互いにお兄ちゃんのファン友達になろうと決めて、お兄ちゃんに彼女がいることも気にしないスタンスで想い続けるって決めた。
でも、自分から墓穴を掘って辛くなるのは違うと思う。
「家にいる時のお兄ちゃんはお兄ちゃんだもん。百井先輩とどこで何をしてるか考えなければ、わたしの大好きなお兄ちゃんだん!」
「そうね。私ももう図書委員会くらいでしか会わないでしょうし。その時は彼女の存在を感じない一人の憧れの先輩」
わたしのお兄ちゃんとして家で過ごすお兄ちゃんを翡翠ちゃんは知らない。
図書委員の先輩として翡翠ちゃんに接するお兄ちゃんをわたしは知らない。
それと同じように、
自分だけ知っているお兄ちゃん、自分が知らないお兄ちゃん、それでいいんだ。
知っている部分を想い、知らない部分を諦める。
そうして少しずつ知らない部分を増やしていけば、いつかきっとこの想いは消えるから。
「でも気にならない? キスの感触」
チラリと見える翡翠ちゃんの唇はつやつやで、とても柔らかそう。
もしここに自分の唇が重なったらどれだけ気持ち良いのだろう。
想像をしてもうまくイメージが膨らまない。
自分の唇を指で触れてもそれはあまり変わらなかった。
「目を
「そんなことは……ないと思うよ」
まずキスの経験がないし、そんなの何回か経験したことないと誰にも証明できない。
「拒絶はしないのね」
「…………」
翡翠ちゃんの問い掛けにわたしは何も言えなかった。
釜瀬くんの場合は本当に強引で恐怖を感じたのもある。
でも翡翠ちゃんは無理強いはしない。あくまでわたしの同意を待っている。
もしここでキスすることを許したら、ファーストキスが友達ということになる。
だけど、少なくとも翡翠ちゃんはお兄ちゃんのことを思い浮かべながら唇を重ねる。
そんな気持ちが通じ合っていないキスが初めてなんて、辛すぎるよ。
「変なこと言うね」
「ええ」
前置きをして防衛線を張る。
少しずつ丁寧に、崩れかけのジェンガを抜くように。
触れる場所を間違えないように一つずつ言葉を紡ぐ。
「翡翠ちゃんとキスはしたい」
「そう」
わたしとしてはかなり思い切った言葉だけど、翡翠ちゃんは簡単に受け入れてくれた。
もはや翡翠ちゃんの唇を受け入れる覚悟ができたと言ったも同然なのに、翡翠ちゃんはわたしの言葉を待ってくれている。
「でも、お兄ちゃんのことを考えながらするのは違うと思う」
「ええ」
翡翠ちゃんは短く相槌を打つ。肯定も反論もしない。
「この気持ちの正体を知ってしまったら、翡翠ちゃんと友達でいられなくなっちゃう気がしてて」
「…………」
自分の声が震えている。視界もぼやけるのはきっと涙のせいだ。
なんで泣いているのか分からない。感情の整理が追い付いてない。
ぼんやりとしか見えないけど、こんなわたしを翡翠ちゃんはただ見つめている。
頭を撫でたり、抱き寄せたり、唇を重ねたり。
こんな状態のわたしになら何だってできるはずなのに、彼女は一切手を出さない。
「だから、翡翠ちゃんとはキスできない」
「わかった」
短くそう答えると翡翠ちゃんはスッと立ち上がり、広げた勉強道具を片付け始めた。
「ハンカチは持っているかしら。さすがにそんな泣き顔をママに見られたら何かあったと思われてしまうわ」
「う゛ん゛」
キスしようとしたのが嘘のように翡翠ちゃんは冷静だ。
わたしが一方的に感情を乱されている。
「私の方こそ変なことを言ってごめんなさい。もし許してもらえるのなら、明日からも友達でいてほしい」
「…………」
過呼吸気味でうまく声を出せなかったのでわたしは大きく頷いた。
翡翠ちゃんが誤解しないように、縦に大きくぶんぶん振った。
ここまですれば絶対に明日からも友達だよって伝わったはず。
そう。友達だ。
「明日からも友達としてよろしくね」
「ええ、友達として」
少し呼吸が落ち着いて言葉を発せられるようになった。
だから改めて言葉に出して確認する。
わたし達は友達なのだと。
このモヤモヤする気持ちはの正体はきっと知ってはいけないものなんだ。
自分に言い聞かせるように、友達という言葉を何度も反芻した。
知らないふりをしていれば、いつかきっと忘れられるはずだから。
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