第14話 とおい
普通に歩けばわたしの方が先に駅に着く計算だ。
駅で待ち合わせと言われたけど、具体的に駅のどことまでは決めていないことに今更ながら気が付いた。
スマホのロックを解除すると画面から漏れる光が眩しい。
光の下では見辛いくせに、暗くなった途端にこれでもかと存在を主張してくる。
駅のどこで
ここまで打ったところでわたしは手を止めた。
路線がいくつも通っているわけでもない小さな駅でそこまでピンポイントな場所を決めなくてもいいんじゃないか。
そんな考えが脳裏をよぎった。
「わたしが翡翠ちゃんに合わせるか、翡翠ちゃんがわたしに合わせるか」
つまりそういうことである。
どちらかが適当に場所を決めて、もう片方が相手の思考を読んでそこに向かう。
一言LINEをすれば済む話をあえてこじらせようとしている。
「うーん……」
スマホの光が目に優しくないのでひとまずロックして再びしまう。
空はもうすっかり夜になっていた。
夏の日の夜に生まれたから夜夏。
小さい頃に名前の由来を教えてもらった時はあまりにも単純で好きになれなかった自分の名前。
だけど年齢を重ねるにつれてだんだんと好きになっていった。
サァーっと冷たい風が吹き抜ける。
汗ばんだ体に与えられる一瞬の癒し。
この一瞬のために生きているとすら思える。
名前を呼んでもらいたくなった。
なんの脈絡もなく、唐突に。
「翡翠ちゃんならきっと辿り着くよね」
勝手にそんな確信を得た。
わざと隠れるわけじゃない。
待ち合わせ場所を決めずに、わたしが気まぐれにそこにいるだけ。
わたしはあえて気付かないふりをする。
声を掛けるのは翡翠ちゃんから。
そうすればきっと……。
頭が悪いなりに考えた作戦の第一関門はひとまずクリアしたみたい。
先に翡翠ちゃんが到着していて、
下校時刻からだいぶ経っているので周りに同じ制服の姿は見当たらない。
仕事帰りの人が圧倒的に多く、なんていうか華やかさがない。
毎日見ている駅の風景がそれだけでいつもと違う風に見えた。
「目的地は翡翠ちゃんの家なんだから、こっちで待ってるのはおかしくないよね」
わたしは翡翠ちゃんが降りたつ上りホームではなく、帰宅する時に使う下りホームへと向かった。
階段を降りてすぐの場所ではなく、一番離れた先頭車両の方まで歩く。
ホームの中ほどまではそれなりに電車待ちの人がいたけど、先まで来ると人はまばら。
それは反対側に見える上りホームも同じで、階段から遠いところは穴場なんだと学んだ。
スマホで時間を確認するとあれから二十分ほど経過していた。
翡翠ちゃんからの連絡も来てない。
作戦の第二関門は翡翠ちゃんが待ち合わせ場所を決めていないことに気付いてしまうこと。
駅だと思って油断しているのか、単純に気が付いていないのか、ひとまず連絡がなくてホッと胸を撫で下ろす。
名前なんて普段の会話でいくらでも呼ばれているのに自分でもおかしいって思う。
でも、そういうのじゃないんだ。
会話の流れじゃなくて、気持ちを込めたその一言がほしい。
この駅はホームの先まで屋根が設置されていなくて夜空がよく見える。
ボーっと空を眺めているだけで時間はあっと言う間に過ぎていった。
「あの電車かな」
向かい側のホームに上り電車が到着する。
第三関門はたまたま窓の外を見ていた翡翠ちゃんがわたしを発見してしまうこと。
上りホームにもいなくて、改札にもいなくて、じゃあ下りホームかなって探して、ようやくわたしの元に辿り着く。
そして、夜空を見上げて
目が合ったらせっかくの計画は台無しなのに、電車が走り去ったあとのホームに翡翠ちゃんがいるか探してしまう。
住宅街ではないからこの時間に降りる人はあまりいなくて、ざっと見渡すのにそう時間は掛からなかった。
「先頭車両に乗ってたのかな?」
そしたら電車が走り去るころには階段を上ってしまっている。
駅で待ち合わせと言ったら翡翠ちゃんの中では改札で待ち合わせになっていて、迷わず改札に向かったとか?
翡翠ちゃんにわたしを探させる計画だったはずなのに、妙にわたしがそわそわしてしまっている。
たぶんものすごく近くにいるはずなのに、なぜか遠くに感じる。
バカなことを考えてないで素直にLINEしておけばよかった。
でも、今更もう遅い。
わたしは翡翠ちゃんを信じてここで待つ。
そう決めたんだ。
さっきまで定期的に吹いていた風が止んで徐々に不快指数が高まっていく。
一度は乾きかけたブラウスにじんわりと汗が染み込んでいって気持ちが悪い。
もしかして罰が当たったのかな。
迎えに来てくれた翡翠ちゃんに迷惑を掛けるようなマネをして。
本当にわたし、いろんな人に迷惑を掛けてる。
さすがに翡翠ちゃんにも本気で呆れられちゃうかな。
そんなことを考えると心臓をギュッと握られたような気持ちになって、体温は下がるのの汗がぶわっと噴き出した。
「
わたしの心の乱れとは対照的に、とても落ち着いていて透き通った声の方に顔を向ける。
少し髪が乱れているけど相変わらず顔は整っていて美人だ。
まだお風呂に入る前だったのか、この時間には珍しい制服姿で凛と立っている。
日中も学校で会っていたはずなのにまるで数年ぶりに再会したような、そんな感覚に襲われる。
ただ名前を呼ばれただけなのに心の底から安心できる。
二人の間には距離もある。それなのにまるで抱きしめられているような安心感。
ギュッと握られた心臓が今度は元気に動きだす。
むしろ元気すぎて、翡翠ちゃんに会えた喜びが血流に乗って全身に運ばれていく。
「ごめんなさい。ちゃんと待ち合わせ場所を指定しなかったから」
「ううん! わたしの方こそ」
翡翠ちゃんは本気で場所の指定を忘れていたらしい。
しっかりしてるようでちょっと抜けている。
もしこれが、わたしにだけ見せてくれた意外な一面だとしたらすごく嬉しい。
「夜夏にしては合理的よね。行き先が私の家なら下りホームで待ってる方がいい」
「でしょでしょ! もっと褒めていいんだよ?」
「調子に乗らないの。だからってこんなホームの先で待つことはないでしょうに」
「あはは、なんとなくこっちまで来てみました」
へらへらと笑って誤魔化す。
翡翠ちゃんに名前を呼んでもらいたくてちょっと遠くで待ってたなんて、とてもじゃないけど言えやしない。
ふぅっと翡翠ちゃんが呆れたようなため息を付くと耳がくすぐったくなった。
完全に脳が、体が、翡翠ちゃんの吐息の味を覚えてしまっている。
忘れたくても忘れられない。
記憶を消されてもきっと思い出す。
それくらい深くわたしに刻まれている。
「大変だったわね」
「……うん」
下り電車が来るまであと数分ある。
電車はきっと混んでいるけど、今このホームの先にいるのはわたし達だけ。
開かれた密室とも言えるこの空間、この時間をとても大切にしたかった。
「無事で良かったわ」
「うん」
翡翠ちゃんの言葉に『うん』としか返せない。
だけど翡翠ちゃんも多くを求めていないみたいで、改めて深く追求しようとはしない。
近いような遠いような絶妙な心の距離が嬉しくて寂しい。
「お兄ちゃんのことね」
「ええ」
「まだ好きでもいいかなって思った」
「そう」
翡翠ちゃんの答えはとてもあっさりしていた。
否定でも肯定でもなく、ただわたしの決断を受け入れる。それだけ。
「おかしいって思わない?」
「お兄さん……
「うん。それもあるんだけど……さ」
「他に理由があるの?」
翡翠ちゃんの推測はたぶん当たっている。
自分の気持ちのことなのにたぶんって付くのは、きっとわたしの中でもまだぐちゃぐちゃになっているから。
また同じような不幸せを体験しないために、いろいろな予防線を張って、ふつうの女の子のふつうの恋愛をするために手を尽くす。
一旦深呼吸をしてお兄ちゃんのことを考える。
今、百井先輩と一緒にいるお兄ちゃんじゃなくて、わたしが高校に入学する前のお兄ちゃん。
電車通学になって新しい環境になって疲れてるはずなのに受験勉強を見てくれたお兄ちゃん。
仕事で留守にしがちなお父さんの代わりを務めてくれたお兄ちゃん。
わたしが恋をしたお兄ちゃん。
深呼吸をしたのに胸の鼓動が高鳴る。
釜瀬くんには感じなかったこの高鳴りはきっと恋だ。
わたしはまだお兄ちゃんに恋できる。
それを確認することができた。
「他の理由は……そう、お兄ちゃんを基準にするの! お兄ちゃんは百井先輩っていう素敵な彼女を見つけたでしょ? だから、わたしも百井先輩みたいな素敵な彼女になるために、お兄ちゃんよりも素敵な男子を探す。お兄ちゃん以上にときめく人が現れた時に即行動できるように」
「ふふ。おもしろいことを考えるのね。私も参考にしてみようかしら」
「翡翠ちゃんはそんなことしなくても男子にモテるから平気だって」
「そうでもないわよ。
うわぁ、バッサリだ。
今まで翡翠ちゃんに告白しようと思った男子はなかなかのメンタルの持ち主なんだろうな。
わたしが男子だったら今の一言で魂が灰になってるよ。
「彼女がいる人を好きになるだなんて、これって不倫になるのかしら」
「お兄ちゃんが手を出したらね。わたしのお兄ちゃんは絶対にそんなことしないけど」
「そうね。この私が惚れた男なのだから、そんな不貞行為は働かないでしょうね」
「結局、好きな人に好きな人ができたくらいじゃ恋は諦められないんだ」
「ええ、そう簡単に割り切れるものじゃない」
「別に百井先輩から奪うとかじゃなくて、一方的に好きでいるのは自由だよね? どう思いますか翡翠さん」
「その通りよ。恋人がいるアイドルを応援するファンと同じね」
おおっ! と思わず
たしかに最近のアイドルは恋人や結婚を公表した上で活動する人も多い。
一部では炎上するみたいだけど、公表したあとは今までと変わらず、いや、今まで以上に活躍している。
お兄ちゃんがアイドルっていうのはちょっと無理があると思うけど、翡翠ちゃんの言わんとしていることはよく分かった。
「だから私達は同じ人を好きになったファン友達」
「ファン友達」
翡翠ちゃんの口から出たファン友達という言葉をオウム返しして自分の中で咀嚼する。
うん。わたし達は友達。女の子同士の友達。
ちょっと過激なスキンシップを取ったことはあるけど、それは一時の気の迷い。
お互いに苦手なものを教え合ったり、大好きなお兄ちゃんについて語り合うごく一般的な友達。
それが高月夜夏と雛田翡翠の関係を表す言葉だ。
翡翠ちゃんはどう感じているのか分からないけれど、改めて友達であることを確認されて、わたしの中では翡翠ちゃんとの距離が広がってしまった気がする。
絶対にそんなことはないはずなのに。
この不安をかき消すためにお兄ちゃんのことを思い浮かべても何も変わらなかった。
「電車が来たわよ」
「うん」
小さい頃、二人で電車に乗る時にお兄ちゃんはわたしと手を繋いでくれた。
ホームと列車の隙間に落ちないようにするためだ。
その時の思い出が急に蘇り、ふいに翡翠ちゃんの左手へと手が伸びる。
わたしの体に触れたその白い左手を掴む寸前で、ハッと我に返り思いとどまれた。
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