第13話 ともだち
「もしもし」
夕飯時だから繋がるか不安だったけど
たった一言、それも『もしもし』なんて毒にも薬にもならない言葉のはずなのに今のわたしには特効薬のように体に染み渡る。
「急にごめん」
「あなたはたいてい急に何か行動を起こすじゃない」
まだ友達になって一週間も経っていないのにわたしの性格をよくわかっている。
いろいろな事情があって急展開に次ぐ急展開だったのも事実だけど。
「えーっと……何と言いますか。釜瀬くんと別れました」
「はあ!?」
翡翠ちゃんが似合わない大声を出すので反射的にスマホを耳から離す。
驚きの叫びをあげた後に何か喋っていたみたいだけど、それを聴き逃してしまった。
「いきなりビックリさせないでよ」
「それはこちらのセリフ」
「本当にその通りで……」
はぁ……っと翡翠ちゃんのため息が耳元でこだまする。
脳みそをくすぐられるようなその甘い息に思わず身震いした。
こんなにも魅力的なため息なら何度だって翡翠ちゃんを困らせたいと考えてしまう。
「一体どういうことなのよ」
「それがですね。路地裏に連れ込まれて無理矢理キスされそうになりまして」
「最低ね。別れて正解だわ。すぐに被害届を提出しましょう」
「ああ! 待って。結果的に何もされなかったの。わたし達が付き合ってることは秘密にするって約束を守ってくれたから、このことを誰にも言わないでくれってお願いも守るつもり」
「すでに私に話しているのだけど」
「翡翠ちゃんは最初から付き合ってることも知ってたから、だからノーカン」
わたしは最初から
付き合ってることを誰にも言わないでとお願いする前に、すでに翡翠ちゃんには話している。
だから今回の件も翡翠ちゃんにだけは話すという謎理論のルール違反。
どんどん翡翠ちゃんが特別な存在になっていく。
どんどん翡翠ちゃんの存在が大きくなっていく。
どんどん翡翠ちゃんを求めていく。
「なんだか私も巻き込まれたみたいで腑に落ちないわね」
「そこはほら、友情パワーで乗り切ろう」
「巻き込んだ本人が言うことじゃないわよね」
口では悪態を付きながらも通話を切ったりせず、落ち着いてわたしの話を聞いてくれる。
自分の中でいろんな感情がぐちゃぐちゃになってうまく説明できないけど、翡翠ちゃんの声を聞いていられればそれで良かった。
「それで、本当に何もされてないのよね?」
「うん。ファーストキスがこんなのじゃ絶対に嫌だと思って顔を背けてたら、釜瀬くんの方から別れ話を切り出して」
「それはまあ、そうなるわよね。彼女に拒絶されたのだから。でも、釜瀬くんが悪いのだから気に病む必要はないわ」
「だよね! 釜瀬くんが悪いよね」
告白の返事という形とはいえ、自分から付き合おうと言っておいて彼氏を拒んだのはわたしだ。
わたしは自分の心に従って必死に抵抗しただけ。
でもそれが、世間一般から見て正しい行為なのか自信を持てなかった。
翡翠ちゃんにしか話せない。だから翡翠ちゃんのお墨付きしかもらえない。
だけど今のわたしにとって、翡翠ちゃんの言葉は世界よりも重要なものに感じている。
その翡翠ちゃんが、釜瀬くんが悪いと言ってくれた。
わたしはスマホから聞こえる彼女の声に心酔していた。
「でも、あなたも悪いわよ。人気のないところに簡単に付いていって。釜瀬くんがまだ人格者だから何もされずに済んだけど、相手が相手なら……」
翡翠ちゃんはそこから先は言わなかった。
言われなくてもわかる。
男の子がそういうことに興味津々で、いつでもしたいと考えてるのは頭では分かっているつもり。
だけど身近にいた男の人はお兄ちゃんで、お兄ちゃんはお兄ちゃんだからそんなことをしてこなくて。
油断じゃないけど、ちょっと隙を見せてしまったんだと思う。
「それで、これからどうするつもり? お兄さん……高月先輩の前で冷静でいられそう?」
「ちょっと自信はないけど……でも平気。お兄ちゃんは百井先輩とご飯に行ったから」
「なるほど。それに便乗して釜瀬くんが誘ったのね」
「そそ、さすが翡翠ちゃん」
一番大事な部分だけ話したのでそれまでの経緯は全然知らせていなかった。
これだけの情報から答えを導くなんて、やっぱり翡翠ちゃんは頭が良い。
「場所はどこなの? 家から遠い?」
「ううん。学校の近く。ほら、少し歩くと会社がいっぱいあるじゃない? あの辺り」
「また酔っ払いが多そうな場所に……やっぱり釜瀬くんは最低だわ」
釜瀬くんに向けられた呆れ声に色気はなく、ただただ嫌悪感だけが伝わってきた。
わたしには特別なため息を使ってくれている。
ただの勘違いだとしても、今はそんな風に考えてしまう自分がいた。
「今から迎えに行くわ」
「え、平気だよ。自分ですぐ帰れるから」
「今日は夕食の準備をしてないのでしょう? だったらうちで食べて行きなさい」
「それは本当に悪いって。ママさんだってさすがに今からじゃ」
あの日だって夕方に突然お邪魔することになって、急いでわたしの分の食事や布団を用意してくれたに違いない。
今日なんてもう支度は完全に終わって、これからいただきますのタイミングだ。
長年の付き合いだったとしてもお邪魔するのは
ここは
翡翠ちゃんは口が達者だからあれこれ理論で返されたら負けてしまう。
ガツン! と一発しっかり断るんだ。
「……いま…………うん……おねがい」
スマホの向こうから、かすかに翡翠ちゃんの声が聞こえる。
わたし以外の誰かと話しているみたいだけど内容はよく聞き取れない。
「ママには言っておいたから大丈夫。校門で待ち合わせ……よりも、駅の方がいいね。私が迎えに行くのだからちゃんと待ってなさいよ」
「え? ちょっと、話が急展開すぎて追い付いてないんだけど」
「
「そういうことじゃなくて!」
翡翠ちゃんはこれからの行動を一つ一つに分けて簡潔に説明してくれた。
うん。すごく分かりやすい。これなら家庭教師役もばっちりだね!
なんて考えている場合じゃない。
せっかくのお誘いだけど断ろうとした矢先に翡翠ちゃんが強引に話を進めてしまった。
ママさんの許可も得たみたいなので、今から断るのはさらに迷惑を掛けちゃうのかな?
う~ん。難しい。
「夜夏が来るって言ったら喜んでいたわ。だから気を遣わないこと」
「それは無理だよぅ」
「なら、ママには気を遣わなくていいから私には気を遣いなさい」
「逆じゃない!?」
むしろ翡翠ちゃんの方がわたしに気を遣って優しくしてくれても良いと思うんだ。
「今、私に対して失礼なことを考えていなかったかしら?」
「なんでわか……そんな訳ないじゃん」
「やっぱりスマホ越しではなく直接会わないといけないみたいね。いい? 逃げたら許さないわよ」
「だんだん翡翠ちゃんが悪者みたいになってるよ……」
「そうね。私は悪い人かもね。まだ誰にも触らせたことがない女の子の胸を頂いのだから」
翡翠ちゃんの甘く切ない声が耳からじんわりと全身に伝わる。
頭の中にはあの日の光景がしっかりと蘇り、そして翡翠ちゃんの舌や手の感触が胸を駆け抜けた。
「わかった。わかりました。ちゃんと駅で待ってるから迎えに来て」
「よく言えました。もし不安なようなら通話したままにする? 電車に乗るまでなら平気だけど」
「ううん。大丈夫。危なくなったらすぐに翡翠ちゃんに連絡する」
「私を頼りにしてくれるのは嬉しいけれど、そういう場合はまず私ではなく警察よ」
「もう! 翡翠ちゃんはロマンがないな~」
「ロマンで人は救えないもの」
翡翠ちゃんの言う通りだ。
わたしの心を癒してくれるのは、ずっと恋焦がれてきたお兄ちゃんでもなく、みんなに憧れを抱かれる元カレでもなく、ただの友達。
ロマンの欠片もない、たまたま濃密なスキンシップを取ったことがある、ごくごく普通の同い年の友達。
現実で起きた辛いことから立ち直るのに必要なのは、ロマンではなく現実なんだ。
「翡翠ちゃんは現実的だね」
「失恋してからは余計に。もし、私が高月先輩と付き合っていたらもう少し思考がお花畑になっていたかもしれないけど」
「翡翠ちゃんに限ってそれはないよ」
けらけらと笑いながらわたしはそう返した。
つい口から出てしまったけど、女の子に対してわりと失礼だとすぐに気が付いた。
「そうね。現実的な私は夜夏にも現実を見せてあげないとね」
「えーっと……」
「夕食を終えたら勉強よ」
「あ、えー……そうだ。門限! 門限があるの。お兄ちゃんに遅くなるなって言われてて」
「何時かしら?」
「く……いや、八時……あ、九時だったかな」
「分かったわ。十時ね。帰宅までの時間を考えても一時間は勉強できそうじゃない」
「なんで分かったの!?」
勉強したくないから早めの八時と言うか、勉強してでも翡翠ちゃんと一緒に居たいから九時にするか迷っているうちに翡翠ちゃんが正解に辿り着いてしまった。
もしかしたら翡翠ちゃんは本当に人の心が読めるのかもしれない。
「あら。本当に十時だったのね。適当に言ったのだけど」
「ひどい!」
「酷いのは夜夏の方でしょう。八時とか九時とか適当なことを言って」
「それはほら、翡翠ちゃんと一緒には居たいけど勉強はしたくないという複雑な乙女心が」
わたしがあたふたしている様子を聞いて楽しんでいるのか翡翠ちゃんからの反応がない。
翡翠ちゃんも準備しながらだろうし仕方ないよね。
「もしも……」
「ん?」
少しだけトーンの低い、神妙な翡翠ちゃんの声が耳に届く。
「もしも勉強するつもりがなくて、ただうちで門限まで時間を潰すと言っていたら、あなたは門限を何時と答えた?」
翡翠ちゃんの口から発せられたのは、もう済んだ話の『もしも』の話。
もう変えることは叶わない。
すでに結果を知った上で、もしも過去に戻れたらというロマン溢れる話。
「勉強しないんだったら即答で十時。本当は門限なんてないって言いたいところだけど、お兄ちゃんが心配するから」
「そう。分かったわ。そろそろ家を出るから、切るわね」
「うん。それじゃあ、またあとで」
「ええ」
あとはただ通話終了をタップするだけ。お互いにそれをする必要はない。
どちらかがタップすれば通話は終わる。
だけどわたしはタップしない。画面に表示される通話時間はまだ時を刻み続けている。
「切らないの?」
「夜夏こそ」
「わたしは別にこのままでもいいし」
「私もあなたが心配だからこのままでいいわ」
「わたしのためなんだ?」
「ええ。私の感情とは関係ない」
「ふーん?」
ちょっと煽るつもりで言ってみたけど、どうしても声の中に喜びの感情が混ざってしまう。
翡翠ちゃんがわたしとの繋がりを切らないでいてくれた。
現実的なことを考えれば、さっさと通話を切って夜道に気を付けながら駅に向かう方がいい。
今のわたしは翡翠ちゃんの声に意識が集中してしまって周りがあまり見えていない。
翡翠ちゃんだって、よく知った近所の道とは言え歩きスマホだ。それはそれで危ない。
「わたし達ってさ、なんか似てるよね」
「どこがかしら?」
「なんかだよ。なんか」
「ずいぶんと抽象的ね」
「でもさ、似てるってそんなもんだよ。似てるだけで同じじゃないんだから」
空にはまだ夕陽のオレンジが残っていて、昼と夜が混ざり合っていた。
普段ははっきりと分かれているのに、ほんの数分の間だけ溶け合う関係。
同じ人を好きになって、同じ日に失恋した。
本来ならそこで終わっていたはずのわたし達のように空は混ざり、そして夜へと染まっていく。
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