第21話 いつか

「や~~~~~っと終わったあ」


 最後の科目である数学Bのテストを終えて思わず背伸びした。

 凝り固まった体がほぐれて鬱憤うっぷんが解き離れていくような感覚が堪らない。

 二学期にも三学期にもテストはあって、三年生になったら受験もある。

 大学生は大学生でテストはあるし、人生はテストの連続だ。


 未来には楽しいことだけではなく辛いことも大変なこともある。

 だけど今は、このテストからの解放感に浸っていたい。


「ずいぶんと気が抜けた顔をしているわね」

翡翠ひすいちゃんはせっかくテストが終わったのにいつもと変わらないね」


 背伸びしているわたしの上から冷やかな視線を落とす。

 このまま手を伸ばせば翡翠ちゃんのおっぱいに触れてしまいそうだ。

 さすがにみんながいる教室でそんなことはしないけど、テスト後の勢いに任せてならやってもいいかなって思えてしまう。


「そのシャーペン、見ないやつね」


 机の上にはシャーペンが三本と消しゴムが二つ。

 落としたら挙手して先生に拾ってもらわないといけないので念のため予備を置いてある。

 シャーペンが三本なのには理由がある。


「お兄ちゃんに貰ったんだ。誕生日プレゼントに」

「そういえば七月二日だったわね。おめでとう」

「ありがとう。だいぶ過ぎてるけど」


 心のこもっていない祝福の言葉に、心を込めずにお礼を言った。

 ただの形式的なやりとりだ。


「当日も一緒に勉強していたのに何も言われなかったから」

「LINEを交換した時にわたしの誕生日を覚えてくれたと思ってたの。それに誕生日プレゼントを催促するなんて最悪じゃん。サプライズを期待してたのに」

「数日遅れで祝うサプライズよ」

「それ、今思い付いたでしょ?」


 誕生日当日も、前日も翌日もわたしと翡翠ちゃんは二人で勉強していた。

 二人の間に友達以上の進展はなく、友情が壊れるような後退もなく、ごく普通に勉強した。

 翡翠ちゃんが先生でわたしが生徒。

 お互いに教え合うのではなく、一方的にわたしが教えてもらうだけ。

 何か一科目くらいわたしが教えられるのがあればよかったけど、一緒に勉強していてそんな場面は一度もなかった。


「今度は夜夏よるかが私に料理を教える番よ」

「なんで微妙に上から目線かな」

「今この体勢だと実際に上なのだから仕方ないわ」

「それもそっか」


 わたしは姿勢を正し、机の上の筆記用具を片付ける。

 勢いよく立ち上がるとポニーテールが激しく揺れた。


「これで上から目線はできないよ」

「そうやってムキになるところが子供ね」

「むぅ……わたしが料理の先生なのに」

「すぐに追い越すから楽しみしているといいわ」

 

 わたし達の視線が絡み合うところでは火花がバチバチと散っている。

 テスト期間中、翡翠ちゃんはさんざん私を厳しく指導したんだ。

 今度はその腹いせにわたしが翡翠ちゃんをヒィヒィ言わせてやるんだ。


「今日は部活はないの?」

「うん。明日から再開。地獄の暑さで剣道するの辛い」

「お兄さんはもう引退なのでしょう? モチベーションは持つの?」

「どうだろう。剣道部に友達がいるから、まあ惰性で」

「そう」


 翡翠ちゃんは少し寂し気に短く答えた。

 普段は強気でクールなのに、時折わたしに見せる切ない表情。

 わたしは翡翠ちゃんの毒の虜になってしまっているけど、たまに解毒薬を与えられるせいでますます毒沼にハマっていく。

 本当に恐ろしい女の子だと思う。


「そういう翡翠ちゃんは部活に入ってないじゃん。図書委員だってそんなに忙しくないでしょ?」

「部活動は肌に合わなかったのよ」

「まあ、分かる気がする」

「夜夏の方がよっぽど失礼なことを言っている自覚はあるのかしら」

「だって事実じゃん。お兄ちゃんがいなかったら絶対に言葉を交わさないクラスメイトで終わってたよ」


 簡単に言えばタイプが違う。

 たまに陽キャグループにも陰キャグループにも馴染める子がいるけど、そういう子は本当に特殊で、光が強すぎて自分の影を作れるみたいな神様に選ばれたような子だ。

 わたしも翡翠ちゃんもそういうタイプじゃない。

 普通なら混ざり合わない水と油を引き合わせて馴染ませてくれたのがお兄ちゃんだ。


「そんな言葉を交わさないはずのクラスメイトが教室でこうして談笑しているのは不思議ね。場所を変えてもいいかしら」

「うん。おっけー」


 別にわたし達が教室で話すのは珍しいことではない。

 初めはなんで仲良くなったのか聞かれて回答に困ったけど、テストを挟んだのもあって今では自然な光景になっていると思う。

 それなのに場所を変えるというのは、つまり他の誰にも聞かれたくない話があるから。


 テストが終わるまで保留にすると言った翡翠ちゃんの提案をどうするか、わたしの心はすでに決まっている。

 結論が出たのはわりとすぐで、何度も何度もそれでいいのか考えて、それでも同じ結論に辿り着いた。

 だからこの選択は、翡翠ちゃんがどう感じるかは置いておいて、今のわたしにとって最良だ。


「テストが終わった日の図書室ってやっぱり人が少ないの?」

「なぜ図書室だと思ったの」

「翡翠ちゃんが教えてくれた場所、本当に人が来ないから」

「体育館裏が良かったかしら?」

「ううん。涼しいから図書室でいいよ」


 わたし達の恋の終わり。友情の始まりである体育館裏。

 場所としてはその方が運命的ではあるけど、今はまだお昼。

 太陽が一番輝いている時間帯だ。

 セミの鳴き声も情緒を感じるというよりはムードクラッシャーみたいな感じ。


「なんだかすれ違う人の表情が明るいわ」

「そりゃあテスト終わりだからね。普段と同じテンションでいられる翡翠ちゃんの方が特殊だよ」

「普段の勉強を答案用紙に出すだけもの。さほど特別なことではないわ」

「言ってみたいな~、そんなセリフ」

「今から二学期の中間テストに向けて勉強すれば言えるようになると思うのだけど、一緒にどうかしら」

「遠慮しておきます」


 わたしは深々と頭を下げて低調にお誘いをお断りした。

 数日間のテストのために何か月も掛けて準備するなんて嫌すぎる。

 それにわたしは部活と家事をこなすんだ。すでに偉いと思う。

 

「夜夏は部活も家事もあるものね。私からしたらそっちの方がすごいと思うわ」

「わたしの心を読んだの?」

「どういう意味?」

「なんでもないです」


 翡翠ちゃんは時々わたしの考えたことを言葉にする。

 まるで心を読んだみたいに的確に。

 それだけわたしのことを理解しているのか、わたしが分かりやすのか、どっちなんだろう。

 

「なんだか図書室も久しぶりだわ」

「毎日翡翠ちゃんの家に行ってたもんね。お世話になりました」

「気にしないで。マ……母も喜んでいたし」


 ママと言いかけて翡翠ちゃんは慌てて訂正する。

 わたしの前だとちょっと油断してくれているのかと思うと嬉しい。


「他に誰もいないからママでいいんだよ」

「学校でそういう癖が付くと恥ずかしいもの」

「翡翠ちゃんみたいなクールビューティがお母さんをママ呼びしてたらギャップで人気が出るのに」

「人気なんて出なくていいわ」


 すねたように視線をそっぽを向かれてしまう。

 ものすごく大人びているのにたまに子供っぽい。

 そりゃあお兄ちゃんから妹として見られちゃうよ。


「ねえ、夜夏」

「うん?」

「図書室で二人になったら、また髪をしてもらっていいかしら」

「もちろん」


 結局、普段の学校では相変わらず長い前髪で顔を隠すように生活している。

 せっかくの美人さんがもったいないような、顔目当ての男子がたくさん寄ってこなくて安心したような複雑な気分だ。


「今度はこういうのどうかな?」


 大きいアサガオの細工が付いたヘアピンを見せる。

 白をベースにした淡い色合いが翡翠ちゃんの雰囲気に合うと思う。


「そういう派手なのは私に似合わない」

「そうかなあ。浴衣と合わせたら絶対美人だと思うけど」

「浴衣を持っていないわ」

「じゃあ今度一緒に買いに行こうよ。花火大会も二人で見たいし」

「他の友達はいいの?」

「それぞれ行きたい相手がいるだろうし。たぶん平気」

「夜夏は私と行きたいの?」

「うん」


 翡翠ちゃんは?


 そんな風に聞くのはいじわるな気がして、やめた。

 絶対に断らないと分かっていても、迂闊うかつに聞いたことで翡翠ちゃんが話をこじらせてしまうかもしれない。

 あまり余計なことは言わない方が良いとわたしは学習したんだ。


 図書室には誰もいなかった。

 ひんやりとした空気が張り詰めていて、テスト後でお祭り騒ぎになっている教室とはあまりにも雰囲気が違う。

 同じ学校の中でもこんなに違うなんて、まるで人間みたいだなと思った。


「人がいなくて助かったわ」

「ね」


 どの席も自由に使えるのに、わたし達は示し合わせたようにあの時の場所へと向かう。

 空調の風が届きにくい、人の少ない図書室の中でさらに人が寄り付かない穴場。

 窓から入る日差しが座席を照らし、涼しいはずの図書室でそこは異彩を放っていた。


「まずは髪をセットする?」

「お願いするわ」


 翡翠ちゃんの背後に立ち、長い髪をまとめる。

 アサガオのヘアピンは似合わないと本人は言っていたけど、わたしの見立てでは絶対に似合う。

 わたしに任せるという意味をハッキリと分からせるため、こっそりと計画を実行する。


「夜夏、あの水色のヘアピンでいいわよ」

「後ろにも目が付いてるの?」

「あなたの浅はかな考えなんてお見通しよ」

「やっぱりわたしの心を読めるんだ……」


 そっか、わたしが単純すぎて考えてることが筒抜けなんだ。

 本当に心が読めるならわたしの決断をすでに分かってるはずだもんね。

 それに、わたしの気持ちにも気付いてくれるはず。


 気が付いていたら、翡翠ちゃんはきっとわたしと距離を取るはずだから。

 この想いを秘めたまま一緒に過ごして、翡翠ちゃんに考えを改めてもらう。

 それがわたしの願いだから。


「よし、できた」

「ありがとう」

「素直にお礼を言えて偉いよ」

「バカにしてるのかしら?」

「褒めてるんだよぉ」


 軽口を叩くことで緊張を解そうと試みたものの、そう簡単に心と体はコントロールできない。

 いや、むしろものすごくコントロールできているのかな。

 いろいろな欲望や感情を抑えて、友達として翡翠ちゃんに接している。

 

「ごめんなさい」

「…………」

 

 わたしはズルい女だ。

 相手の目を見ることなく、背後から、何の前置きもなく結論を口にした。


 お互いに練習台として試しに付き合ってみるという提案。

 いつわりとは言え恋人は恋人。

 翡翠ちゃんと一緒に楽しいことをたくさん経験できる。


 だけどそれは友達でも出来ること。

 あえて恋人という設定にしなくても、普通に友達として経験が出来る。

 さっき約束した浴衣や花火大会、それに料理を教えるのだって、仲の良い友達なら特別なことではない。 


「私の方こそ変な提案をしてごめんなさい。あなたの心を惑わせてしまったわね」

「ううん。嬉しかったし、悲しかった。だからすぐに返事ができなかった」

「嬉しくて悲しいってどういう意味」

「それを分かってくれないから悲しいってこと」


 勉強はできるくせに、わたしの考えも簡単に読むくせに、大事な気持ちだけは分かってくれない。

 目の前にいる鈍感な友達に何か仕返しをしたくなった。


「訴えたら私が勝てるのだけど」

「でも訴えないでしょ」


 後ろから翡翠ちゃんのおっぱいを鷲掴みにした。

 それはそれは大層なボリュームで、わたしの長い指をもってしてもこぼれ落ちそうだ。

 この体勢なら翡翠ちゃんを好きにできる。だけどしない。

 釜瀬くんがわたしにしたように、無理強いになってしまうから。


「さすがにこの行為は友達を超えて恋人程度のものだと思うのだけど、それでもあなたは私の提案を断るのね」

「うん。今はね」

「この先のためにした提案よ。今断ったら、この先は受け入れる理由がなくなってしまうのだと思うけど」

「そんなことないよ。初めからちょっと濃密だっただけで、わたし達はまだ出会って間もない。お互いに知らないことがたくさんある」


 よく言うじゃない『まずはお友達から』って。

 わたし達はその過程を飛ばそうとしていきなり恋人になろうとしたからモヤモヤしたんだ。

 それに気付いてこの結論に至った。


「だからね翡翠ちゃん。お兄ちゃんのファン友達とかじゃなくて、普通に友達になろう。たまたま同じクラスになって、きっかけがあって仲良くなった普通の友達に」

「……私は別に構わないわよ。まだ料理を教えてもらっていないしね。勉強を教えた分の借りはしっかり返してもらうわ」

「まったくもう、翡翠ちゃんは素直じゃないなあ」


 冗談交じりに翡翠ちゃんのおっぱいを揉みしだく。

 制服とブラに守られているからか反応は薄い。

 

「普通の友達になると言うのならそのいやらしい手付きをやめなさい」

「あれ? 翡翠ちゃんもしかして」

「言ったわよね。訴えたら私が勝てると」

「申し訳ございませんでした」


 おっぱいから手を離し、降伏の意味を込めて両手を挙げる。

 翡翠ちゃんは必死に堪えてただけで、本当はわたしの手で……なんて考えてしまうと変なスイッチが入ってしまう。 

 

 ここは学校なんだ。

 誰にも見られていないからと言って変なことはできない。

 よかった。翡翠ちゃんの部屋じゃなくて。


「翡翠ちゃん、大好きだよ」

「何よ藪から棒に」


 そっと耳元でささやくと真っ白な肌が熱を帯びたように赤くなった。

 翡翠ちゃんの目を見てだと恥ずかして言えない。

 お兄ちゃんは本当にすごいと思う。

 百井ももい先輩の顔を正面から見て、しっかりと自分の想いを伝えたんだから。


 そしてわたしは、いつかこうなってほしいという夢を付け加えた。

 世界の誰にも聞こえないくらい小さな声で。

 翡翠ちゃんにだけ向けた特別な言葉を。


「                 」

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