第11話 言い訳

 稽古が始まってからわたしは一心不乱に竹刀を振った。

 暑い、苦しい、痛い。

 そんな負の感情が大きく膨れ上がるほど、わたしは何も考えずに剣道に集中することができた。


 集中していると思い込んでいた。

 お兄ちゃんのこと、釜瀬かませくんのこと、翡翠ひすいちゃんのこと。

 誰の顔も思い浮かべずただ無心で竹刀を振っていると思っていた。


「メーーーーーンッ!!!!」

「一本!!」


 真波まなみちゃんの声が遅れて脳に届いた。

 気付いた時には練習稽古は終わっていて、わたしはただ茫然と竹刀を構えている。

 いつの間に素振りから練習稽古に変わっていたんだろう。

 無意識に体を動かしていたのか全く気が付かなかった。


 剣道に集中してたんじゃなくて、本当に何も考えていなかったんだ。

 あれだけ息巻いていたのに情けない。

 この状況がますますわたしの心をどん底へと転がしていく。


「どしたの夜夏ちゃん。さっきはあんなに気合入ってたのに。少し休んだら?」

「大丈夫。うん」

「むむぅ……」


 面をしているので真波ちゃんの表情はよく見えない。だけど本気でわたしの心配をしてくれているのは伝わってきた。

 悪ノリしがちな真波ちゃんがこんな風に気遣ってくれるなんて、今のわたしってよほど酷い顔してるのかな。


百井ももいせんぱーい! 夜夏ちゃんが具合悪そうなので保健室に連れていってもらっていいですか?」

「はーい。すぐ行くー」

「真波ちゃん! なんで百井先輩!?」

「えー? だってウチとはさっきたっぷり話したじゃん。次は愛するお兄ちゃんを取った女狐めぎつねと話を付けてきな」


 やっぱり真波ちゃんはわたしを心配してたわけじゃなかった。

 半分くらいはそういう気持ちがあったかもだけど、本音はもっと恋愛絡みのおもしろい展開を期待できるから。

 面を被っていてもわかる真波ちゃんのしたり顔を想像すると沸々とエネルギーが湧いてくるようだ。

 今すぐその面を小手で直接殴ってやりたい。


「でもさ、一度はちゃんと話し合わないとずっとモヤモヤするよ?」


 本気で殴ってやろうかと拳に力を込めたその時、真波ちゃんのテンションがすとんと落ち着く。

 優しくそんな風にささやかれてしまったら、もう怒ることはできない。

 お兄ちゃんと百井先輩が付き合い続けるならいつかはこんな時がくる。


 それをずっと先延ばしにして逃げ続けるか、今この時の勢いに任せてしまうか。

 たくさんのモヤモヤを構えている今、一つでもそのモヤモヤを解消したい。


「わかった。ありがと。調子が悪いのも本当だしね」

「よかった。ゆっくり休んでおいで。それで、あとでじーっくり話を聞かせてね」

「それが本題なんでしょ。本当に恋バナが好きなんだから」

「お兄ちゃん一筋だった夜夏ちゃんに新しい恋が到来する予感がしたら、そりゃあ盛り上がりますよ」


 へらへらと笑う真波ちゃんを見ていると、本当にどこまで分かってやっているのか不思議だ。

 あくまで自分の趣味でやっているのだろうけど、その軽いノリがわたしの背中を押してくれる。


「夜夏ちゃん平気? お水は飲めそう?」

「あ、はい」

「今日の夜夏ちゃんすごい気合だったもんね。それに体育館の中は暑いし。まずは涼しいところに避難しようか?」


 百井先輩に言われるがままにわたしは防具を外して体育館をあとにした。

 防具を外して道着姿になった百井先輩も汗で髪が乱れてるのに綺麗で、むしろ汗をかいてより一層色気が増している。

 ボブくらいの長さだと首回りも涼し気で、百井先輩の全てが羨ましく見えた。


「外に出ただけでも涼しいね。やっぱり風は偉大だよ」


 そう笑顔で話す百井先輩の顔はあの日みたいに太陽に照らされている。

 暑そう。と思う以前に、まるでスポットライトに当たる舞台のヒロインみたいに思えた。


「保健室に行く? それとも部室棟ぶしつとうで冷たい物でも飲む?」

「それなら部室棟で」

「おっけー」


 百井先輩は初めて会った時からこんな調子だ。

 あまり先輩っぽくないのに、内に秘めた実力からくる自信が先輩であることを明白にしている。

 一見すると親しみやすいんだけど、油断して近付くとこっちがへし折られるみたいな。

 まるでアリジゴクみたいな人という印象を勝手に抱いている。


「それにしても本当に暑いね。まだ梅雨が明けてないのに夏みたいだよ」

「ですね」


 わたしと百井先輩は二人ともペットボトルのお茶を選んだ。

 なんとなく百井先輩がお金を出してくれたけどあとで返さなきゃ。


「あ、お金は気にしないで。ゆうくんに貰っておくから。妹の分はお兄ちゃんが払わないとね」

「はぁ……」


 まるでわたしの考えを読んだみたいな発言にドキリとする。

 そして本人に自覚はないんだろうけど、お兄ちゃんの話題に持って行くのは本当に性質が悪い。

 ずっと一緒に暮らしているのはわたしなのに、まるでもう自分のものみたいに話すなんて最悪だ。


「そうだ。ゆうくんから聞いてる? 今夜ウチらは夕飯食べに行くからちょっと帰りが遅くなります」

「え?」

「あれ。言ってないのかな。夕飯の準備とかあるのにねー? あとでウチの方からキツく叱っておくから」


 言葉が出て来ない。夕飯の準備はこれからだから別に何も問題はない。

 お父さんも今日は帰ってこないからコンビニでお弁当でも買えばだいぶ楽だ。

 空いた時間で勉強でもすればいい。


 ううん。そうじゃないんだよ。

 お兄ちゃんがどんどん遠くに行ってしまう。わたしの知らないところで、知らないところに。


「部活帰りのデートっていうシチュエーションを体験できるのってもう残りわずかでしょ? そんな話をしたらゆうくんが今日にしようって」

「そう……なんですか」

「あんまり遅くならないように指導するから安心して。夜夏ちゃんを一人にするのも心配だし」

「お気遣いありがとうございます」


 百井先輩はわたしだけでなく、後輩によく気を遣ってくれる。

 それはたぶん自信から生まれる余裕だ。

 夜に男女二人でデートなんて本来心配されるのは百井先輩のはずなのに、お兄ちゃんの手綱を握って、わたしのことまで心配して。

 この人はどこまでお兄ちゃんにとってのメインヒロインなんだ。


 兄妹だからじゃない。百井先輩だから負けたんだ。

 小山内先輩も翡翠ちゃんも、百井先輩がライバルになった時点で負けていた。

 お兄ちゃんは百井先輩を選ぶと決まっていて、その気持ちをより固めるためにわたしたちがいた。


 そんな風に考えてしまうくらい、百井先輩は素敵な人で、最悪な人だ。

 

 無意識にペットボトルをギュッと握っていた。

 まだ中身が半分くらい残っていて、こぽんと上層と下層に分かれる。


「本当に大丈夫? あんまり辛いなら今日はもう帰ってゆっくり休んで」

「……平気です。お兄ちゃんと部活できるのも残りわずかですし」

「そう? でも無理はしちゃダメよ。ゆうくんに連れて帰らせるから」

「はい」


 わたしは力強く返事をした。

 具合が悪いふりをすれば百井先輩からお兄ちゃんを取り戻せる。

 だけどそれは同時に、お兄ちゃんが百井先輩のものになったことを意味する。


 百井先輩の指示でお兄ちゃんが動く。まるで夫婦だ。

 わたしは二人に迷惑を掛ける子供。

 そんな風には絶対にしない。させたくない。

 

 お兄ちゃんの恋人になることは諦めても、お兄ちゃんの妹であることはわたしの特権だ。

 これから先もずっと妹で居続けるためにわたしは絶対に倒れない。


「すごい気合ね。でも気合だけではどうにもならないこともあるんだから。ね?」

「わかってます」

「それならよろしい。あ、せっかく涼しいからもう少し休んでいきましょう」

「先輩、サボりですか?」

「サボりじゃないわよ。可愛い後輩の体調管理」


 お茶目に笑う百井先輩は素直に可愛い。多くの男子を虜にしてきたのも頷ける。

 一時はいろんな男に手を出すビッチだと思っていて、本当に失礼なこともした。

 それは誤解だと分かって、露骨に敵視していたことも許してくれて、お兄ちゃんにはもったいない彼女だ。


「先輩ってお兄ちゃんのどこが好きなんですか?」


 もうこの際なので単刀直入に質問した。

 翡翠ちゃんならきっと雑にそうアドバイスすると思ったから。


「うーん。一言で言うのは難しいんだけど……ウチのことを大切にしてくれるところ、かな」

「なんだか抽象的ですね」

「そう? 妹として接してきた夜夏ちゃんが一番よく知ってそうだけど」


 わたしは無言で頷いた。

 百井先輩の言う通りだ。わたしは十六年間、お兄ちゃんに大切にされてきた。

 あまり成績が良くなかったわたしがお兄ちゃんと同じ高校に入学できたのもお兄ちゃんのおかげ。

 大好きなお兄ちゃんと同じ部活に入ったから、今目の前に素敵で最悪な先輩がいる。


 お兄ちゃんがわたしの人生を導いてくれた。

 これから先もそうだと信じていた。


「ゆうくんは夜夏ちゃんに優しい。みんなに優しい。もちろんウチにも」

「はい」


 お兄ちゃんはいわゆる良い人止まりになるタイプだ。

 嫌われない代わりに特別な感情を抱かれることもない。そのはずだった。


「他の男子もね、ウチにすごく優しくしてくれる。たぶんこれがモテるってやつなんだと思う」

「自慢ですか?」

「あ、ごめん。そんなつもりなないんだけど、そう捉える人もいるよね。でも、全員がウチに優しいってことは、そこに優劣を付けられないってことなの」


 はぁっとため息を吐くアンニュイな表情の百井先輩も可愛らしい。

 元恋敵なのに思わず見惚れてしまう。


「で、話を戻すんだけど、修学旅行で沖縄に行った時、迷子になって変な男に襲われそうになったの」

「え!? 初耳なんですけど」

「うん。わたしがゆうくんに黙っておいてってお願いしたから。先生も知らないはず」

「お兄ちゃんにそんなお願いをしたってことは、助けてくれたのが」

「ゆうくん、夜夏ちゃんのお兄さんだったの」

「なるほど。正義のヒーロー的な存在だから好きになったと」

「いいえ」

「ええ……」


 話の流れ的にどう考えても助けてもらって好きになる展開なのに。

 百井先輩の趣味嗜好が全然分からない。


「もちろん助けてくれたのもあるんだけど、ポイントはその後」

「その後」

「ゆうくんね、『百井さんは可愛いんだから一人で歩いたら危ないだろ!』って怒ってくれたの」

「……百井先輩ってもしかしてMなんですか?」

「え、そんなことはないわよ。……たぶん」


 百井先輩は耳まで赤くして手を胸の前でぶんぶん振りながら必死に否定する。

 わたしを含めて、剣道なんて暑くて臭くて痛い競技を選んだ時点でMの素質はあると思うんだけどな。


「それで、お兄ちゃんに怒られたのが好きになった理由なんですか?」

「うん。ウチを大切に想ってくれるから怒ってくれたんだなって。この人の想いは本物だなって思えたの」

「どうも、ごちそうさまでした」


 わたしは手を合わせて深々をお辞儀をした。わたしの知らないところでお兄ちゃんと百井先輩の間に絆が生まれていた。

 そんなことも知らずにわたしはお兄ちゃんにアピールし続けて……。

 

「夜夏ちゃん大丈夫?」

「え?」

「涙出てるよ。やっぱりどこか辛いなら早退を」

「いいえ! これは違うんです。お兄ちゃんに素敵な彼女ができて良かったなって思ったら目から汗が。もしかして百井先輩がお兄ちゃんに脅迫されてるじゃないかと心配してたんですよ」

「もう! ゆうくんはそんなことしません。夜夏ちゃんが一番よく分かってるでしょ?」

「あはは。そうですよね」


 我ながら苦しい言い訳だと思う。お兄ちゃんが好きになった人を脅すなんてありえない。

 いくら涙の理由を誤魔化すためとは言え、最低の言い訳をしてしまった。


 消化不良になった涙がまるで目の奥から脳に行ったみたいだ。

 思考がグラグラする。

 この感情を早く吐き出したい。例えば、翡翠ちゃんの胸の中で。

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