第9話 手

 電車から降りたら微妙な距離を保ったまま、わたしと釜瀬かませくんは言葉を交わすこともなく学校へと歩いた。

 この何とも言えない距離感が逆にあやしさを出している気もする。

 釜瀬くんとはすごく話す感じでもないけど、全然話さないわけじゃない。


 去年は同じクラスだし、剣道部だし。むしろ友達……だったのかな、面倒だから友達ということにしておこう。

 友達だった頃よりも距離が広がっている。


 ちらりと周囲を見渡した限り剣道部の子は見当たらない。

 去年同じクラスだった子はもうこの際気にしない。クラス替えをしたらそんなに話さなくなるのはよくあることだ。

 内心ヒヤヒヤしながらもどうにか無事に教室に辿り着くことができた。


 彼氏ができたからと言って周りに知られていなければ日常は何も変わらない。

 そんな新たな発見があったのは収穫だと思う。


***

  

 時間はかなり進んで今は昼休み。

 彼氏ができたばかりの女の子なら真っ先に相手の教室に行って一緒にお昼食べる時間。 

 だけどわたし達は期末テストを口実に関係を隠すことに決めている。

 

 そうなるとわたしが昼休みに声を掛ける子は必然的に彼女になる。

 今まで教室内でほとんど言葉を交わしたことがない。どちらかと言えばようと、どちらかと言えばいんの組み合わせ。

 でもそんな分類は周りが勝手に決めたことだ。

 陽でも陰でもどっちでもいい。わたしは彼女と話したいんだ。


 いつもお昼を一緒に食べる梨桜ちゃん達の誘いを断り、わたしは彼女の席へと向かい手招きをする。

 たったこれだけの動作で全てを察したようにスッと立ち上がり、一緒に教室をあとにするという行為が楽しい。


 廊下では一切の言葉を交わさず、わたしが歩く後ろを翡翠ひすいちゃんが付いている形。

 神妙な雰囲気をまとうわたし達を見て周りは決闘かカツアゲと思っていたりして。

 って、そんな想像するなんて自分に悪役の自覚があるみたいじゃん。


「彼氏よりも私を選んでくれてうれしい! ……なんて私が言うと思う?」

「いやー、その、話の流れというか何と言うか。あはは」


 比較的人の少ない裏庭に着くなり翡翠ちゃんが言った。前半部分は恋する乙女みたいなテンションで後半は呆れ声。

 大人びて見える翡翠ちゃんがまるで女児向け漫画のヒロインみたいなテンションを演じたことがちょっと可愛い。


「付き合って早々に友達を選ぶなんて、よく別れ話にならなかったわね」

「テスト前だから今は恋人っぽいことはやめておこうって言ったら納得してくれた」

「ふーん……。もしも、もしも話よ。夜夏よるか高月たかつき先輩と恋人になれたとして、テスト前だから我慢しようって言われたらどう思う?」

「……わたしのことあんまり好きじゃないのかなって思う」


 でもお兄ちゃんはそんなこと言わないし!

 恋人っぽいことを我慢しても勉強教えてもらったり一緒にご飯食べたりできるし!

 話の本質はそういうことじゃないよね。


「まるで釜瀬くんから逃げているみたいよ」

「はい。その通りです」


 ちょうどベンチが空いていたので二人で腰掛けた。

 三人座れるくらいのサイズで、わたしと翡翠ちゃんの間は一人分に満たないくらいの距離が空いている。

 今は日陰になっているけど、さっきまで夏の日差しに温められたベンチは居心地が悪い。

 

「それで本当に私と一緒に勉強するつもりなの?」

「翡翠ちゃんが良ければだけど……お兄ちゃんも受験生だし、その、今までみたいにわたしに構う時間も減るだろうし。みたいな」

「はぁ……つまり家庭教師役がほしいと。そういうわけね?」

「そうなんです! 問題の順番としてはこっちの方が先なんです」

「問題の順番って、他にもまだあるの?」

「実はですね」


 テストが終わったら二人で夏休みの計画を立てることを話すと翡翠ちゃんは大きなため息を付いた。

 そりゃそうだよね。彼氏と遊びに行くのを問題視しちゃってるんだもん。わたしが翡翠ちゃんの立場だったら意味わかんなすぎて大声出してるよ。


「付き合ってから先のことは私だって知らないわよ。何度も言ってるけど釜瀬くんのことも知らないし」

「だから話を聞いてくれるだけでもありがてぇんです」

「ハァ……本当に高月先輩の妹なのかしら」

「むぅ! それは聞き捨てなりませんな」


 やっぱりわたしはお兄ちゃんのことになるとムキになってしまう。

 だけどそんな自分が楽しくて、同時に辛くて。

 他の子にこんなことを言われてもたぶん愛想笑いで済ましちゃう。

 これは翡翠ちゃんだから。翡翠ちゃんにしか見せないわたしの姿。


「はい! 手の指が長い!」

「……は?」

「だ・か・ら! お兄ちゃんみたいに手の指が長いでしょ? どやぁ」

「何が言いたいのかしら」

「翡翠ちゃんがわたしをお兄ちゃんの妹か疑ってたから証拠を見せてあげたんじゃん」

「たしかに高月先輩は指が長いような気がするけれど、特別長いというわけでもないような」

「そうかなあ。わたしは指長いのお兄ちゃんに褒められたよ。手先が器用だから家事がうまいんだなって」


 この指はわたしの自慢だ。お兄ちゃんに褒められて、お兄ちゃんを支えることができた。

 よく見るとお兄ちゃんだって結構指が長くて、それがすごく嬉しかったのを覚えている。


「別に本気で疑っていたわけじゃないわよ。それに似てるところがあるということは、いよいよ兄妹であって恋人になれないことの証明になっているのだけど、それは平気?」

「も、もうお兄ちゃんへの恋は諦めたから。彼氏だってできたし」

「その彼氏とはうまくいってないどころかスタート地点にも立ててないのに?」

「スタートくらいは立ってるもん。だって付き合い始めたんだから」

「そうね。スタート地点に立って棄権しそうといったところかしら」


 翡翠ちゃんの口からとにかくスラスラと言葉が出てくる。口喧嘩くちげんかでは絶対に勝てない。

 でも、こうやってズバズバと口撃してもらうと現実逃避した自分に罰を与えられたみたいで心がスッキリする。

 もしかして、わたしってMなの?


「今はスタート前の精神統一ということで」

「そうね。目前に迫った期末テストに向けて集中しないとね」

「あ゛あ゛あ゛あ゛」


 学生である以上に絶対に逃れられないテストという現実を改めて突き付けられてわたしは溶けた。

 ベンチからずり落ちるようにするすると背中が滑っていくと、真っ青な空が目に入る。

 自分は何をしているのだろか。頭の中がからっぽになって、難しいことを一切放棄したくなった。


「一体何をしているのかしら?」

「ごめん。起こして」

「まったく……」


 呆れながらもわたしの背中と裏腿うらももに手を添えてベンチへと連れ戻してくれた。

 このまま勢いよく起き上がったら翡翠ちゃんの唇に触れられるかもしれない。 

 期待なのかな。なんでそんなことを考えてしまったのか自分でも分からないけど、まるでお姫様抱っこされたみたいでちょっとだけキュンときた。


「早くお弁当食べましょう。食べながらでも話はできるのだし」

「そうだよね。そうしよう。 わっ! 翡翠ちゃんのお弁当きれい!」

「夜夏のこそ栄養バランスを考えていそうじゃない。自分で作ってるんでしょう?」

「まあね。翌日のお弁当まで考えて夕飯を作ってますから」


 翡翠ちゃんに比べたらほぼ平らみたいな胸を張って高らかに自慢する。

 家庭料理だけは翡翠ちゃんに本人に真向まっこうから勝てそうだから。


「辛くはないの? その、失恋した人のために料理を作るって」

「…………」


 翡翠ちゃんは伏し目がちに、申し訳なさそうなオーラを出しながらわたしに聞いてきた。

 その問いには即答できないのがある意味で答えみたいなものだ。

 本当に気にしていなければすぐに返事ができるのだから。


「まあ義務みたいなものだし。翡翠ちゃんだってママとケンカしてもご飯は用意されるでしょ? それと同じ」

「ケンカをしたことがないから分からないけれど、そういうものなのかしら」

「翡翠ちゃんの家は平和そうだもんね」


 うちだって平和だけどね。基本的にはお兄ちゃんが折れてくれる。

 いつも家事を頑張ってくれてるからって。

 それは兄としての責任なのか、妹に任せている罪悪感なのか、少なくとも気を遣ってくれているのはたしかだ。

 わたしはそれを優しさとして受け止めていたけど、それは遠慮とも取れる。


 お兄ちゃんはわたしに遠慮していた。

 対等ではなく、上に立つ者として、わたしを守る者として。

 やっぱり最初から負けていた。百井ももい先輩にも小山内おさない先輩にも翡翠ちゃんにも。

 そういう戦いにわたしは挑んで、一番モヤモヤする形で完全敗北してしまったんだ。


「ボーっとしてるけど大丈夫? 日陰と言っても暑いし、教室に戻りましょうか」

「ううん。平気。翡翠ちゃんのおかず美味しそうだなって思って」

「よかったら一口あげるわよ」

「本当!? じゃあわたしは高月家特製卵焼きをあげよう」

「ありがとう。いただくわ」


 お弁当のおかず交換なんて友達同士ではよくあることだ。

 特にわたしは自分で作った料理を自分で食べるので、他人様の家のおかずを食べられるのはいろいろ参考になるのでありがたい。

 主婦魂が完全に染みついてしまっているんだ。


「う~ん。冷めても柔らかくてジューシーなお肉。素材の良さだけじゃなくて仕込み方がうまいんだろうな~」

「へぇ、そういうのが分かるのね」

「ふふふ。女子高生よりも主婦をやってる期間の方が長いですから」

「将来はきっと良いお嫁さんになるわね。この卵焼き、とても美味しいわ」

「でしょでしょ? 長年の研究の末に辿り着いた究極の味だからね」


 お弁当を食べながら今後について話すはずが、やっぱりわたし達は話が逸れて目の前のお弁当で盛り上がってしまっている。

 だって翡翠ちゃんのことをもっと知ることができるんだもん。そりゃあ夢中にもなるよ。


「よかったら今度わたしにも作り方を教えてくれないからしら」

「いいけど。ママじゃなくていいの?」

「ママは凝り性だから初心者向けじゃないと思うの。学校と両立する夜夏のレシピの方がきっと参考になるわ」

「むふ~。よろしいですとも。その時は絶対にわたしを先生って呼んでね?」

「なら、勉強を教える時は私のことを先生と呼ぶように」

「うげっ! 鬼教師だ」

「それが教えをう者の言葉使いかしら?」

「翡翠ちゃんだってわたしの料理の生徒なのに!」


 翡翠ちゃんが先生か~。

 長い黒髪を時々耳に掛けながら隣で勉強を見てくれるのかな。

 それで問題を解けたらご褒美におっぱいを触らせてくれたりして……。


「夜夏、あなた何か気持ちの悪いことを考えてないかしら? 頬がゆるんでるわよ」

「べべべべべ別に何も! 翡翠ちゃん先生は厳しそうだなって」

「厳しそうなのを想像して頬が緩むって、あなたの嗜好を疑うわね」

「悪いのは翡翠ちゃんがセクシーだからよ」

「なんで私が悪いのよ。好きでこんな体になったわけでもないのに」


 翡翠ちゃんはぷいっとそっぽと向いてしまう。

 すねた子供みたいな反応が可愛いけど、本人が気にしていることをネタにするのはよくない。

 例えそれがわたしにとって魅力的なものだとしてもだ。

 

「ごめん翡翠ちゃん。謝るからこっち向いて」


 わたしは無意識に翡翠ちゃんの手を取った。

 別にそうする必要はまったくないのに、ごく自然に、まるでわたしがそれを本能的に欲していたみたいに。


「え、あっ。まあ、そんなに謝ることではないけれど」

「うん。だからごめん。翡翠ちゃんが気にしてるってわかってたのに。本当にごめん」


 翡翠ちゃんの手をぎゅっと握り、真っすぐにその大きな瞳を見つめながら本気で謝った。

 まるで愛の告白みたいなシチュエーション。

 釜瀬くんと同じ電車に乗っても高鳴らなかったわたしの心臓は、なぜか今、ものすごい速さで動いている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る