第5話 じっくり

「あ、返事きた」

「なんて書いてあるかしら?」


 翡翠ひすいちゃんはグイっと顔を近付けてわたしのスマホ画面を見る。

 同じシャンプーやボディソープを使ったはずなのに翡翠ちゃんからは別の甘い香りが漂ってきてくらくらしそうだ。

 これがオトナの女から醸し出されるフェロモンってやつなのかな。


「どうしたの? わたしの顔に何か付いてる?」

「なんでもない。ほら、返信。一緒に見て」


 画面をタップしながら話題を元に戻し釜瀬くんからの返信を見る。


「ありがとう。デートしくれるだけでも嬉しいって」

「ふーん。まあ、相手もそう返すしかないわよね。がっついたら引かれるかもしれないし、それなら諦めるというのも変な話だし」

「うんうん。これも翡翠ちゃんのアドバイスのおかげだよ」

「私は別に……それよりこれからどうするの」

「問題はそこだよね」


 お兄ちゃんのことをモテないってバカにしてたけどわたしもデートの経験なんてない。

 あ、お兄ちゃんと遊びに行ったのはデートにカウントされるのかな。

 でもお兄ちゃんとだしあんまりデートっていう感じじゃなかったし……うぅ、またお兄ちゃんが頭の中でぐるぐるする。


「定番は映画じゃないかしら。上映中は喋らなくていいし、終わったら感想を語り合える」

「それいいかも! ちょうどお兄ちゃんと一緒に見に行こうと思って前売り券を買ってた映画があるんだ……」

「だからいちいちお兄さんのことを思い出してへこむのはやめなさい。私まで辛くなる」

「ごごご、ごめん。でも仕方ないじゃん。さっき失恋したばっかで何も整理できてないんだから」


 これから整理するための釜瀬くんとのデートだ。そんな風に言ったら釜瀬くんにちょっと悪いかな。

 わたしを好きでいてくれている気持ちを利用しているみたいで胸にチクリと痛みが走る。


「恋愛は好きになった方が負けと言うし、その辺は負けている釜瀬かませくんが悪いと割り切りましょう」

「うわ、翡翠ちゃん悪い女」

「すでに敗北を経験してるからね。失うものが何もないのよ」

「すごいなあ、翡翠ちゃんは」


 心の奥ではどうか分からないけど、少なくとも表面上ではもう吹っ切れている。

 わたしの前で強がっているのだとしても、こんな風に振舞えるだけでも十分に強い。

 そんな精神的な強さも持ってる翡翠ちゃんはお兄ちゃんのどこに惹かれたんだろう。


「ねえ、翡翠ちゃんってお兄ちゃんのどこが好きだったの?」

「今それを聞くってどんな根性してるのよ」

「だって美人ではがねメンタルでおっぱい大きくて、お兄ちゃんじゃなくても素敵な彼氏がすぐに見つかりそうなのに」


 初対面の印象の悪さを乗り越えられればの話だけど。というのはちゃんと黙っておいた。わたし偉い。


「失恋した日に好きになった理由を話すのは釈然としないけど、簡単に言えばLINEのアイコンよ」

「アイコン? お兄ちゃんの?」


 お兄ちゃんのLINEアイコンはアニメキャラの顔イラストだ。

 同じ作品のファンならともかく恋愛的にキュンとくるようなものではないと思う。


「違うわ。私のよ。さっきの夜夏みたいに『これ翡翠なの?』って食い付いてきたの」

「ふーん。それで?」

「それでって、それだけよ」

「それだけ!?」


 思わず大きな声が出てしまった。夜ももう更けている上に他人様のお家だ。これはわたしが悪い。

 でもさすがにそんな反応にもなるよ。LINEアイコンが宝石の翡翠かどうか聞かれただけで好きになっちゃうなんて。


「私に興味を持ってくれた……なんて思ってしまったのかしら。具体的な過程は自分でもよく分からないけれど、それがきっかけなのは間違いない」

「そっかあ、人を好きになるって不思議だね」

「実の兄を好きになる夜夏が言っても説得力がないわよ」

「わたしの場合は環境が特殊だし、それにやっぱり特別なんだよ。お兄ちゃんは」

「ええ、だから恋って本当に不思議。一人の人を同時に複数の人が好いてしまったり、その逆もあったり」

「バランス悪いよね。ほんと」


 翡翠ちゃんがベッドに倒れ込むとブラに支えられていない大きなおっぱいが重力に従う。

 そのダイナミックな動きに自然と視線は胸元に移る。


「本当に、なんでこんなに視線を集めてしまうのかしら」

「ああ、ごめん。そんなつもりは」

「気にしないで。慣れてはいないけど、慣れなくてはいけないから」


 わたしから見たら羨ましいことの塊の翡翠ちゃんには翡翠ちゃんなりの悩みがあって、それを解決しようと努力している。

 おっぱいのこともお兄ちゃんのことも、自分の中で折り合いを付けようとしている。


「わたしも頑張る!」

「……残念ながら今からの成長にはあまり期待はできないと思うのだけど」

「そっちの話じゃないから!」

「ふふ、分かっているわよ」

「本当に翡翠ちゃんっていい性格してるよね」

「でしょう? 完璧すぎて理想が高くなっちゃうの」

「その結果がお兄ちゃんだなんて見る目ないなあ」

「そうかもね」

 

 翡翠ちゃんはごろんと寝返りをうち壁の方を向いてしまった。

 ゴムで結った髪も一緒に連れていかれて白い首筋が露わになる。

 お風呂で背中やお尻を見た時も綺麗と感じたけれど、こうして一部を布に覆われるとより一層色気が出るから不思議だ。


「絶対に夜夏よるかのお兄さんより素敵な人を見つけるから」

「うん。その意気だよ」

「その言葉、そっくりそのまま夜夏に返すわ」

「う゛っ……」


 人の応援は本気度が低ければ低いほど簡単にできちゃうものだ。

 別に翡翠ちゃんの応援に本気じゃないわけじゃない。

 ただ、いざ自分が新しい恋を見つけるためにデートするとなると一気に不安と緊張が押し寄せてくる。


「ところで翡翠ちゃん」

「何かしら?」

「LINEアイコンに食い付いたら好きになったってことは、わたしのことも好きになっちゃったり?」

「…………」


 さすがに機嫌を損ねたのか翡翠ちゃんは黙り込んでしまう。

 まさかこの数秒の間に寝ちゃったわけじゃないよね?


「おーい。翡翠ちゃーん。寝てる間におっぱい揉んじゃうよー」


 冗談半分、本気半分。そんなテンションで声を掛けると一瞬で返事がきた。


「そんなわけないでしょ。呆れて物を言えなかったの。あと、寝込みを襲うのは禁止」

「起きてる間だったら?」

「バカなことを言ってると通報するわよ?」

「ごめんなさい。もうしません」


 床に敷かれた高級布団の上でわたしは土下座した。

 場所が場所だけにあまり反省しているように思えないのはわたしだけ?

 土下座ってもっとこう劣悪な環境でした方が反省してる感が出る気がする。


「まったく、本題を忘れてないでしょうね」

「ちょっと現実逃避してました」

「元々はお兄さんと使うはずだったとしても、残しておくよりは使った方がスッキリするんじゃないかしら」

「……うん。そうだよね。うん」


 自分の中で翡翠ちゃんの言葉を何度も咀嚼して、この判断で後悔しないかをしっかり考える。

 釜瀬くんと付き合うかどうかの前に、お兄ちゃんを恋愛対象として見るのをやめる。

 そういうデートにしよう。


「お兄ちゃんを忘れるためのデート」

「いや、お兄さんを忘れてはダメでしょう」

「お兄ちゃんを恋愛対象として見ていたことを忘れるためのデート」

「はい。よくできました」


 いきなり新しい恋を見つけるって意気込むとハードルが高いけど、まずはお兄ちゃんとのことをしっかり終わらせる。

 本当は告白して玉砕するのが一番だと思いつつ、それは今後の兄妹関係を考えるとリスクが大きすぎるので却下。


「もし件の釜瀬くんが良い人だと思ったらそのまま付き合えばいいと思うわ」

「まあ、良い人だとは思う。人気もあるし」

「それだけで人を好きになれたら恋愛なんて楽なのにね」

「本当に」


 翡翠ちゃんの声は少し鼻声になっている。わたしはそれに気付いていて、あえてそのことには触れない。

 だってわたしの声もぐしゅぐしゅなのに翡翠ちゃんは何も言わないから。

 こういう時こそ毒づいてイジってほしいのに、本当に翡翠ちゃんはいい性格をしている。


「さっさとLINE送ってあげなさいよ。釜瀬くん、モヤモヤして眠れないわよ」

「わかってる。……なんて送ればいいかな?」

「さすがにここから先は自分で考えなさい。デートするのは夜夏なんだから」

「うぅ……そうだけどぉ」


 翡翠ちゃんに背中を押してもらわないと前に進めそうもない。

 友達になってまだ数時間なのにわたしはすっかり翡翠ちゃん頼りの体にされてしまった。

 やっぱりおっぱいには不思議な力が詰まっている。


「映画を見に行かない? とか、そんな感じで送ってみたら? ああ、もうっ! 結局私が考えてるし」

「えへへ。イライラした翡翠ちゃんならそうしてくれると思ったよ」

「なんだか夜夏の手の平で踊らされたみたいで釈然としないわ」

「おっぱいを触らせてくれたお礼に踊らせてあげのよ」

「それ、お礼になってないわよ」


 翡翠ちゃんは相変わらず壁の方を向いたままで表情は見えない。

 それでもなんとなく、ほんの少しだけ笑顔なんじゃないかと思う。

 想像というより願望に近いかな。

 だってわたしが今、翡翠ちゃんとお喋りして楽しいって思っているから。

 

 そんなたわいもない会話をしているうちに釜瀬くんから返事が届いた。


「今度の日曜日、十一時に駅前で待ち合わせはどうですか? だって」

「だって、と言われても。都合が良いならそれでいいんじゃないかしら」

「うん。そうする!」

「証人になってほしいって頼まれけど、こういうことなの?」

「自分でもよく分からない。でも、翡翠ちゃんが側にいてくれて良かったって思ってる」

「ならいいけど」


 翡翠ちゃんは多くを語らなかった。

 このあと釜瀬くんから何件か連続でLINEが届いて、わたしが前売り券を持ってることを伝えて、当日見る映画や上映までの時間の過ごし方が決まっていった。

 もしこんな風に予定を決めるのがお兄ちゃんとだったらもっと楽しかったのかな。

 事務連絡のように状況を伝える文字を入力していると、ふとそんな考えが頭に浮かんでしまう。


 こんなことではいけないと振り払っても、一瞬思考が途切れた隙を突いてまた浮かんでくる。

 助けを求めるべく翡翠ちゃんに視線を移すと背中が一定のリズムで動いている。

 耳を澄ますとスース―と可愛い寝息も聞こえてきた。


「本当に寝ちゃったんだ」


 ずいぶんと顔が壁に近いのでわたしからはその寝顔を確認することはできない。

 この隙に胸を鷲掴みにしてやろうかなんて思ったりもした。

 でも寝込みを襲わないと約束したし、失恋した夜に穏やかな寝息を立てているのに起こすのは申し訳ない。

  

 わたしは一人、友達の部屋で男子とLINEで事務連絡を繰り返す。

 中にはプライベートな質問だったり部活のことなんかも混ざっているけど、わたしには全て事務的な内容に感じられた。

 

「わたし、釜瀬くんとデートしてお兄ちゃんのことを忘れられるのかな」


 むしろ不安の方が大きくなってきて、思わず布団にくるまってしまう。

 ふかふかでありながらも涼しく感じるのはきっと良い布団だからだ。

 顔をうずめるとお風呂場での出来事が思い出される。


「あれの方がずっとドキドキしたよ……」


 お互いに裸で性的な部分をさらけけ出しているのも一因だとは思う。

 でもそれを抜きにしたって、わたしは釜瀬くんよりも翡翠ちゃんにドキドキした。

 

「これから釜瀬くんのこと、好きになれるのかな」


 体育座りで布団にくるまり、顔をうずめたまま寝落ちしてしまった。

 釜瀬くんから最後に送られたLINEには既読だけが付く。


 

 俺のことはこれから好きになってくれればいいから

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