不思議の国でおやすみ
あの日から、私と彼女の関係は大きく変わった。まるで小さな子みたいにパニックになって涙ぐむ彼女を見ているうちに、ふと私のなかをよぎった誘惑。それは……今まで彼女を一方的に意識して、そのたびに受け流されるだけだった関係を、変えられるかもしれないという、悪魔の囁き。
もしも彼女の心が、壊れてしまいそうなほど不安定にされているなら。それは防いであげなきゃいけないでしょう? ……立派な口実まで、できてしまった。
「私よ、私がアリスよ」
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、私は病的なまでにアリスを探す彼女に囁きかけた。いくらなんでも、明らかに年下である私のことすら「お姉さん」と呼ぶくらい、ある種幼児退行じみた状態に陥っている彼女とはいえ、そんなのは通じないだろうと思いながら。
でも、もしかしたら? ひょっとしたら……そんな醜い期待を帯びた私の言葉に、彼女はとても澄んだ瞳で「どうして喋れるの?」と尋ねてきた。
私がそこにどんな理由をつけたのかはもう覚えていないし、覚えていたとしても自分が恥ずかしくなるくらいな絵空事を並べ立てただけだろうから、覚えている必要もきっとない。
ただ、確かに言えることは。
彼女はその日を境に、私に依存しているということだけだった――。
. * * * * * * *
体調が安定して退院しても、まだ彼女は戻ってこない。彼女の実家ではもう、年老いたお婆さんの介護が始まっていて、もう彼女にまで手を回せる状態ではなかった。もちろん彼女の家族はそんなこと言わなかったけど、私が説得したし、何より彼女が
もう私も働いていて、オートロック式のマンションに部屋を借りられるくらいの収入はあった。私と彼女、ふたりだけの城――それは、幼い頃から夢にまで見た光景だった。
その、はずだった。
「可愛いね、可愛いね、アリス……」
私のことをわからない彼女が、今日も私を求めてくる。苦しくて、悲しくて、悔しくて仕方がないのに、必死になって私を求めてくる彼女の姿が愛おしくてたまらない。
あれだけ好意を打ち明けても受け流されてばかりだったのに、今ではこんなに……っ、彼女の指使いから、舌先から、絡まされる脚の温もりから、その真剣さが伝わってくる。
「ちゅっ……はっ、どこにも行かないで、わたしの傍にいて、ずっと一緒、一緒だから、もう離れないで、守って、怖くないようにぎゅっとして、可愛いアリス、アリス、お願い、アリス……っ、ちゅぅ、」
私に自分の痕跡を刻み付けようとするように唇を這わせる姿も、時々勢い余って立てられる歯も、彼女のものなら全部許せた。ただひとつ、私のことを『アリス』と呼び続けること以外は。
ご飯を食べてても、お風呂に入れていても、トイレの世話をしていても、こうやって身体を重ね合わせていても、どんなときでも、彼女のなかで私は『アリス』だ。どんなに私が昔のように接しても、名前で呼んでも、昔と同じことをしても、昔と同じことをさせても、昔と同じものを食べさせても、昔と同じ歌を聞かせても、昔と同じテレビを見せても、昔と同じ遊びをさせても、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、彼女は私を『アリス』と呼ぶ。
「アリスは物知りだね」
「アリスは優しいね」
「アリスは可愛いね」
「アリス楽しそうだね」
「アリス大丈夫?」
「アリス、どうしたの?」
「アリス何してるの?」
「アリス、次のお話聞かせて?」
「アリス、このテレビ面白いよ!」
やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて! こんなのあんまりだよ、気がおかしくなる! どうして、どうして私の方がずっと長く彼女と一緒にいたのに、あんな1年も一緒にいなかったような男に全部ぶち壊されなきゃいけないの!?
嫌だ、アリスなんてもう嫌だ、私は私なの、あなたとずっと一緒にいて、ずっと妹扱いされてて、お姉さんなんて1度も呼ばれなくて、どんなに好きだと言っても相手にされなくて、それでその埋め合わせに好きでもない人とも最低なことをしちゃうような、そんな子なの、私はあなたのアリスなんかじゃない! ……何度、そう叫びそうになっただろう。
だって、馬鹿みたいだ……自己嫌悪に陥るようなことをしながら忘れようとしていた彼女が、私のことを忘れて戻ってくるなんて、悪い夢でも見てるみたい。全然私のことなんて思い出さなくて、それでも私は彼女から「アリス」と呼ばれて求められて、それに抗えなくて……こんなの、あのニュースの男がしていたことと同じじゃない!!!
だから、ある日。
私は彼女の指と舌を受け入れながら、耳元で囁いた。アリスの夢は、もうおしまい。穴から出て、夢から覚めなきゃ。
「私はね、アリスじゃないの。私の名前は……」
耳元で囁いたとき。
彼女の口から、え、と吐息混じりの声が漏れて。大きく見開かれて、涙の溜まった目で、私を見つめてきた。その目は紛れもなく私を見ていて、間違いなく、私の恋した“お姉さん”のものに見えた。
でも。
「あ……、あ、あぁぁ…………」
彼女は私を見るなり、「……ほんと、に?」と小さく呟いてから、腰砕けになって動けないだろうに、ベッドの上で後ずさりを始めた。
「いや、いや……やだ、やだ、よ……」
「え?」
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!
耳をつんざくような悲鳴。
途端に、部屋に嵐が起きたようになった。手近にあった枕をぶんぶん振り回しながら何かを追い払うような動作をして、それから自分の頭を強く叩いて、その途中からベッドに胃の中身を吐き出し始めた。
その瞬間、何が起きたかわからなかった。呆然と見つめている私に、彼女はまた「あぁぁっ、」と声をあげながら、近付いてきて、吐瀉物まみれの胸を隠すこともせずに「ごめんなさい」と謝り始めた。
「アリス、じゃなかった、ごめんなさい。汚くて、ううん、酷いことした、アリスだなんて呼んで、好き勝手した、ごめんなさい、違う人なのに、妹みたいだって、本気だったんだよ、大事で、傷付けたくなくて、う゛、きっと誰かいい人、いるから、だから、ごめんなさい、騙されないようにっていってたのに、ごめん、ごめんなさい、アリスなんかじゃないよね、だって、ごめん、アリスは人形だもん、頭しかないのに、ごめんなさい、あなたとは違うのに、なんで、ごめんなさい、わかんなかった、おかしいよね、あの部屋でずっと、ここには戻らないで、ずっと、ごめんね、見つからなきゃよかったのに、ごめん、迷惑だよね、汚いよね、酷いよね、ごめんなさい、わたしなんかあのまま、あそこで、もう、……もうやだ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、うっ、う……っ゛、」
びちゃびちゃと白い胃液を撒き散らしながら、彼女はずっと謝り続けている。胃液まみれのシーツを替えようとしたり、あたふたと動き回ろうとしている。でも、きっとあの部屋では不用意に動くことも怒られる原因だったのか、うまく動くことなんてできずにいた。
しかも、精神的なショックのせいなのか、彼女の身体の変調はそれだけじゃなかった。
「う゛ぇ、ごめ、ごめんなさ、え、や、やだ、やだ、や……っ!」
ぐるぐるとお腹が鳴ったように聞こえて、彼女が慌てて屈み込んだけど、もう遅かった。彼女の身体には、出てこようとするものを抑える機能なんて、残されていなかったのだから。
寝室には、異臭が立ち込めていた。駅前の公衆トイレだってこんなことになってないんじゃないかと思うくらいの有り様に呆然としている私の前で、まだ彼女は泣きながら謝っている。
泣きながら、更に部屋を汚しながら、謝り続けている。もう誰に何を謝っているのかもわからないくらいに、ただ惰性なんじゃないかと思えるくらいに……ただただ謝っている。
そんな彼女に、ひどく苛立った。
違うでしょ、昔の私が好きだったあなたは、そんな小さい子みたいに泣いたりしないでしょ? そんなに泣き叫んで、トイレみたいに寝室を汚して、更にみっともなく泣き喚いたりするような人じゃなかったでしょ? あぁ……もう。
――――――っ
一瞬、自分が何をしているのかわからなかった。ただ、目の前で彼女が片方だけ赤みの走った頬を押さえて私を見ていて、私の手のひらがじんじんと熱くて。
また涙を滲ませる彼女の目を見て、もう我慢の限界に達してしまっていた。もう一度、彼女の頬を打った。
「――――、え、」
「もう、いいから」
「あ、ぁ、あぁ、ご、ごめ、」
「もういいから。泣かないで、謝らないで。私はそんなの望んでないの。あなたは今まで通り、私と一緒にいたらいいの、たったそれだけ。私があなたに望むのは、たったそれだけだから」
呆然と私を見つめる彼女が、たまらなく愛おしかった。今、本当の彼女の世界も、私が埋め尽くしたのだと、その目付きで確信できたから。
たとえ明日には『アリス』に依存する女の子に戻ったとしても、明日からもずっとこの卑屈に歪められてしまった彼女がいたとしても、もうどちらでもよかった。
ねぇ、もしもこれが夢なんだとしたら。
こんなに素敵な夢はないと思わない?
覚めないでほしいと願いながら、私はすっかり汚れきって放心した彼女を、優しく抱き締めた。
どうせ夢なら覚めなければいい 遊月奈喩多 @vAN1-SHing
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