第26話 彼女は輪廻の蛇を見る③
父親の死から11年が経った2026年、御形薺は中学2年生になっていた。
品行方正、成績優秀、完全無欠……。この世の全てのポジティブな四字熟語を制覇した彼女のことを、人はまず悪くは言わない。学内ひってのひねくれ者や良い人が嫌いな天邪鬼も、散々文句を言った後に遠回しの誉め言葉を言うくらい、彼女は完璧だった。同性の女子をおろか男子たちにもある一定の距離の近さを置き、「初恋の相手が彼女だ」という生徒は男女問わず少なくはない。
しかし、その誰もが薺のプライベート、家族構成や親の職業などは一切知られていなかった。いや、彼女が努めてそれが漏れないように徹底した生活や秘密主義を貫いてくれた結果であった。
とある生徒が薺を尾行してそのベールを剥がそうと躍起になっていた時期があったが、分かった事実はこれだけ。彼女は放課後まっすぐ家に帰り、私服に着替えカフェに行って勉強するか、絶滅危惧種となった本屋に足を運ぶのだという。つまり、学校での御形薺の人物像以上のものは暴かれなかったのだ。
そのせいで薺の周りには眉唾もの怪談めいた噂話がいくつもついて回るようになったが、それが一層彼女の人気を高める結果で終わった。
そんな周囲の想いはいざ知らず。薺は今日も今日とて真っすぐ家路につく。
友人たちと楽しく談笑しながら歩き、自宅のあるマンションが近づけば「また明日ね」と愛想良く手を振って別れる。決して彼ら彼女らを家に招き入れることはない。
マンションのエントランスにいる管理人や掃除係と目が合えば元気よく挨拶をするが、乗るエレベーターは決まって一人きりで乗る。そこで一息ついて、2分もすれば自宅のフロアに到着。誰もいなくても、彼女は態度を変えることなく威風堂々と廊下をゆき、扉を開けるのである。
「お帰り、薺。中学校はどうだったかね?」
誰もいるはずないリビングから声がする。
不審者ではない。父親の友人(らしい)であり、彼女の身元保証人である男が久しぶりに家にやって来ていたのだ。
「いつも通りです。っていうか、来るなら来るって言ってよ。何も用意してないからね」
「いやいや、新しく買った茶葉がもうすぐ届く頃だ」
瞬間、呼び鈴が来訪者を告げる。玄関モニターには配達用のドローン。
「ほんとに、それ悪趣味。人に嫌われるよ」
「はははッ、確かにアルベルトも会う時は嫌な顔をしていたな」
茶菓子も入っているだろう、と男は笑いながら開封を急かす。
薺は認証を済ませて箱を開け、さっそく茶葉を茶こしに入れ湯を注ぐ。茶葉をうしている間に茶菓子を適当な皿に乗せて男の待つテーブルへ。
「今日やってきたってことは、ようやく訓練を始めるの?」
「そうだ、と言ってやりたいのも山々だが、まだだ。訓練を始めるのは15歳から、再来年に高校生になってからだぞ、薺。今日やるのは訓練の仕込みだ」
「それ、私がやらなきゃダメ?」
「訓練とはいえ、最初に本番というわけにもいかないだろう。『歩く前にまず走れ』という格言には理解を示すが、走るにも立てなくては意味がない。タイムキーパーとしてのお前はまだ生まれたての赤ん坊、
「はいはい、そうですか」
男は頃合いと見て紅茶を注ぎ、
「うん、美味い。ウェイターとしてはもう一人前だな。これならタイムキーパーとしても『パパママ』は言えるだろうな。試してみるかね?」
舌鼓と一緒の冗談に彼女は呆れる。
紅茶を飲み、茶菓子も一通り食べ終わった後、男は本題に入った。
「さて、今日のメインは何もティータイムではない。再来年に控えたお前の訓練の仕込みだ、薺。先日買った本があるね、見せなさい」
「これ? 『若きウェルテルの悩み』」
「読み始めてみての感想は?」
「難しい、でも不思議と退屈じゃない。
「よろしい。では今日、それを読み切るんだ」
「そんな、まだ50ページも読めてないんだよ。それを今日中なんて、明日になっちゃうじゃない」
「大丈夫だ。街のカフェで砂糖をたっぷり入れたラテを買って3、4時間お前の集中力をもって本と向き合えば読破できるはずだ」
「無理だ」
「いいや、無理ではない。」
「ムーリーでーすー」
そう舌を出す薺だったが30分後、彼女は言いつて通りカフェの窓際の席に座っていた。
砂糖をたっぷり入れたラテを飲みながらページをめくってゆく薺。このご時世珍しい紙の本、それも中学生には到底対象ではない小説を黙々と読み進める美少女に周囲の注目を浴びても、薺はそれを意に返さず読み進める。
梃子でも動かない様子の彼女だったが、終わりが見えかけたころに集中が切れた。
目でも疲れたのだろうか、とふと顔をあげると同じ年頃の少年と目が合った。いや、少年ではない。少女だった。彼女が着ていた制服のスカートとわずかながら見える胸のふくらみで美少年と見間違えるほど整った凛々しい顔立ちを持った少女だと分かったのだ。
少女は薺に見とれているようだった。クラスメイトらしき女子生徒も一緒に居るというのに、少女の瞳にはもう薺しか映っていなかった。
『今日やるのは訓練の仕込みだ』
言われたことを思い出して、薺は少女に笑いかける。あまりにも少女の顔立ちが良かったもので照れ隠しに口元に本を当てて題名が見えるようにした。
指示されたわけではない。そうするべきだと思ったので、行動に移しただけである。
そうして少女は友人に手を引かれて去っていった。その背中を見送って、読書に戻ろうとした薺だったが、電源を切っていたはずの携帯電話がけたたましく着信を告げる。
『やぁ、今途轍もなく顔の良い女の子と目が合っただろう?』
声の主はもちろんあの男からだった。
「なに、見てたの?」
『いいや、ただ知っていただけだ。彼女は今お前の存在を認知した、その時間を知っていただけだよ』
「じゃあ、今日の課題はこれで終わりだね。帰っていい?」
『ダメだ。帰るまでが遠足、それを読み切るまでが仕込みだぞ、薺。お前が読み切る時間まで家の鍵は開けないからな』
「……分かった」
『よろしい。では頑張りたまえ』
通話が電源と共に落ちる。
薺は不本意ながら本に目を落とすが、先ほどの少女の顔がちらついて文章がうまく脳みそに入ってこない。
彼女が課題を終えて家に帰れたのは、夕飯の時間をとうに超えた午後の10時のことだった。
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