第25話 彼女は輪廻の蛇を見る②


「アルベルトッ! ここで寝るんじゃあないッ!」


 同僚にひっぱたかれて、アルベルトは背筋を正す。不意な居眠りで垂れたよだれをしわしわの白衣で拭い、周りを見る。見たところ、ここは彼のオフィスのようだ。余裕なくばら撒かれた資料に体からは薬品めいた不思議な香り、なじみ深いはずなのにどこか他人のような、地面に足がついていない浮遊感があった。


「仕事熱心なのはありがたいけれどさ、もうちょっと加減ってもんを覚えてくれよ。何年研究職やってんだよ、お前」


 同僚がおしぼりと市販の脱臭スプレーを投げつけてきた。時間は午後の4時をまわる頃、詳しい退勤時間は思い出せないが、少なくとも今ではないことは分かっていた。

 おしぼりで顔を拭き、脱臭スプレーで加齢臭やもろもろの匂いを消しながら彼は聞いた。


「これから、人が来るんだったか?」


「は? 寝呆けてんのか? 娘さんのお迎えだろうよ。一緒に家まで帰って、晩飯食って、寝かしつけたらこっちに戻る、いつものルーティーンだろ」


「あぁ、そうだったな……」


「疲れてるってんなら、このまま帰っても良い。お前がぶっ倒れたら俺たちみんな無職なんだからな」


 暖かいおしぼりを両目に当て、彼の頭に冴えた思考が帰ってくる。


「いや、平気だ。7時には戻る」


「おう、また後でな」


 車のキーをカラカラと回しながら、彼はオフィスを出る。そこから彼の自宅、娘を預けた保育所まではそう遠くはない。車で行けば10分かそこら、歩くとなれば少し億劫に感じる丁度良い距離間。故郷ドイツが生み出した愛車のエンジンを唸らせば、彼の疲れはたちまち癒えてゆく。多忙な彼にとっては数少ない至福の時間だった。それに勝るものは一つしかない。

 それが、娘・薺との時間だった。

 朝9時から午後の4時まで、一般的な長さとは言え彼にとっては愛する娘と離れるには長すぎる時間だった。保育所の前まで行くと、もう娘は待っている。独特ともいえる愛車のエンジン音が近くなると遊びをやめ、律義に変える支度を始めるのだ。


「パパッ、お帰りッ!」


 車が止まるや否や自分でドアをかけて飛び込んでくる。

 乗っている間、スーパーに寄って夕飯を買っている間、自宅のエレベーターがやってくるのを待っている間、その全てが今日薺が体験した冒険譚を聞く時間だった。

 6時にもなると、夕食、風呂、歯磨きも終えた薺は力尽きて眠ってしまう。わがままも言わず、彼を引き留めようともしない、賢い娘だった。

 オフィスに戻る前に、彼は軽くコーヒーを淹れて眠気を覚ます。軽くストレッチと家事を済ませて、再び出勤。マンションの駐車場に向かうと、人影が愛車に腰を掛けている。


「久しぶりだな、アルベルト」


 人影は懐かしい声でそう言った。

 その瞬間、人影の姿は明らかになる。細身長身にスキンヘッド、白いひげを蓄えた中年の紳士となった人影。服装は時代の区別のつかない背広、にじみ出る雰囲気は映画スターのようだった。


「その姿はまた未来に出会う人物の姿とやらか?」


「そう、と言いたいところだが違う。これは本来の姿だよ、アルベルト。ところで再会の挨拶はないのかね?」


「する必要がない。私はこれから仕事だ、そこを退いてくれないか」


「乗せてくれるというのなら、退いてやっても良い」


「……。なら早く退け」


 キーのボタンを押して、車を起動させる。ボンネットが揺れたことで、紳士は急いで腰を上げ、助手席に座る。


「オフィスまでそう遠くはない。話なら手短に頼む」


「善処しよう」


 二人を乗せた車は走り出した。




「娘は元気かね、アルベルト?」


 マンションの駐車場を出て早速、紳士が問うた。


「普通の子供と変わらない、健康そのものだ」


「まぁそうだろう。娘の健康こそが親の宝、とりわけ今回は自分の生命線となるからな。無事に育ってくれなくては困る」


「本題を言ってくれ。何も独身の親戚のおじさんみたいに薺の様子を聞きに来たわけじゃあないのだろう?」


「いいや、本題は娘についてだとも、アルベルト。今後彼女がどうなるかは知っているが、親本人の口から聞いてみたいものでね。構わないかね?」


「減るものではないし、そもそも薺が生まれてこれたのは君のおかげだからな。別に構わない」


「では、話してくれ」


 運転する中で、彼は過去の記憶の棚を開ける。

 2011年の5月。絶望の中死ぬべく放浪していた彼は望み通り行倒れたが、目を覚ましたのは夢の世界ではなく地元の病院だった。彼自身の事情も相まって精神科病棟に隔離されることになった彼だったが、もう死のうとはしなかった。ただひたすらに夢で渡された資料を思い出し、その手が許す限りメモを取った。瞳を閉じ、記憶から映し出された資料の内容は、遥か未来に確立するはずだった『人造人間』の設計図であった。

 『人造人間』。それは男の理想である。ピグマリオンやエディソンをはじめとする天才たちが理想の女性を追い求める先に誕生した、人によって作られた人。それが『人造人間』。だが、それを現実に行うことは不可能だった。男の手によって作られた『人造人間』にはその人が歩むべき運命を示す『記憶』がなかったからである。文学的に『魂』と言われるそれを有することができなかった男たちの作った『人造人間』は『人間に似た何か』に過ぎない。ただのロボットだったのである。

 だが、彼は夢の中で、『魂』の付け方を手に入れた。

 彼はそれを現代にある技術でなせるように簡略化モダナイズし、友人の研究者に送り付けた。その文面の一部がこれである。




『友よ、君の善意からの申し出を散々断っておいて突然私から身勝手な頼みをすることを許して欲しい。私はこの震災で妻と生まれたばかりの娘を亡くし、生きる意味を失っていた。そして、絶望のあまり自ら命を絶とうとしてしまった。善良なる誰かの助けを借りて蘇生された今となっては恥ずかしいばかりだ。だが、同時に。私は自殺した際に走馬灯を見たのだ。神からの天啓を授かったような素晴らしいアイデアだ。だが、これを完成させるためには君の力が必要だ。ここにその理論を送付する。どうか、私を助けてはくれないか』




 返事はすぐに返ってきて、彼はさっそく東京で研究を始めたが、それはあくまでパフォーマンスでしかなかった。彼は『人造人間』を作る設備を確保するために、東京にある友人の研究所とコネを手に入れる必要があったのだ。だが、そうするにはまだ実績が足りない。彼は心血を注いで友人に送ったアイデアの完成を急いぎ、異例ともいえる速さで形にした。その年の11月のことである。

 それが、『夢心地』というシステム。亡くなった人物に関する記憶、遺したもの全てをラーニングさせたAIによって故人を再現する。それは人間だけでなく、ペットにも適応可能であり、倫理的な問題も相まって、専らペット専用のシステムとサービスになってしまうも、世界を騒がせるベストセラー商品となった。

 彼の名前は天才として同業者に広まってゆき、『人造人間』の製造に十分な地位と時間を手に入れた。

 そして、2012年の1月17日。奇しくも娘の1歳の誕生日に、それは完成した。彼と彼の妻のDNAを持った、女の子の赤ん坊。それもただの赤ん坊ではない。彼が夢の中で手に入れた『記憶』の概念。定められた運命に進むのに必要な過去と未来の『記憶』を全て兼ね備えた、人から生まれた人、男による人為的な出産を成し遂げた。

 因数分解していけば、それはただの『高度なAIを搭載したロボット』に過ぎないだろうが、それに備わった『記憶』はまごうことなき人間の持ち合わせる運命を示している。

 そうして生まれた『人造人間』の女の子を、いや娘を、彼は御形薺と名付けた。




「あとは普通のシングルファーザーと同じだ。娘を育てながら、仕事をする。毎日大変だが、充実した時間だ」


「ふむ、感動的な話だったよ、アルベルト」


 ハンカチでわざとらしく涙を拭く紳士を横目に、ウィンカーをつける。


「それで、娘のルーツを聞いてどうするつもりなんだ? 方法を教えてくれた礼なら、いくらでもしてやる」


「いや、何もする必要はない。何かするのは娘の方だ」


「どういうことだ?」


「どうもこうもない、アルベルト。何もする必要はないと言ったんだ。言い換えるなら、『何かする未来はもうない』」


「未来が、ない……?」


 瞬間、彼は紳士の言葉の意味を察した。

 『記憶』とは運命。人が持ち合わせている未来と過去の記憶は増えも減りもしない不変のもの。それがないとなれば、自ずと答えは決まっている。


「私の、寿命か」


「頭が良いな、アルベルト。お前がここで死ぬことで、未来の技術を手にした事実は白紙になる。世界には何も影響は無くなる」


「私のことなどどうでも良い。娘は、薺はどうなる?」


「心配はいらない。薺は運命に従って順調に成長する。20歳まで隠れて訓練を積んで、然るべき時に空へはばたく」


「あの子を何に仕立て上げる気だ」


「『タイムキーパー』だ、アルベルト。お前にしてきたようなことを、薺は同時多発的にそして大規模に行うことになる。そうする必要があるのだ」


「『タイムキーパー』? 何だそれは?」


「時間の概念を理解したお前のことだ、簡単に分かることだろう、アルベルト」

 紳士曰く、人間の歩むべき運命は『記憶』によって確定されている。だが、その集合体である社会や世界はそれほど確かではない。個人の些細な行動の違いや関わり合い方のズレによって、世界は無数に分岐する可能性があるというのだ。


「97万4387。それが、判明している『分岐世界パラレルワールド』の数だ。日進月歩の技術によってその数はなお増え続けている。それほど膨大な数の分岐世界があれば、その管理にかかる労力も膨大なものになる」


「何故管理する必要がある? そのまま流れるままに任せれば良いじゃあないか」


「そう物事は簡単ではないんだよ、アルベルト。世界が増えれば、当然悪人が多く出ることになる。その対処や無駄な世界の分岐を防ぐために、我々タイムキーパーがいる。それも誰もがなれるモノではない。個人だけでも複雑怪奇な『未来』を同時多数的に理解してその行動の連なりを調節しなければならない。並の人間では無理な上、適応できる人間すら少ない……。要するにだ、アルベルト。薺を優れたタイムキーパーにするために、お前に作らせたのだ。長い間吟味し、その動機と実力のある人間として選ばれたのが、お前だ」


 唐突な話に、彼は唖然とする。

 だが、これからどうなるかは分かった。


「つまり私は、そのタイムキーパーとやらにするために薺を作り、育て、邪魔になったから殺されるというのか?」


「何も邪魔になったからではない、アルベルト。元々、お前は死ぬことになっていたのだ。お前の未来に介入して、結果的にそうなってしまっただけだ」


 普通の親ならば、娘の未来を奪われることに憤慨するとことだろうが、彼はそうできなかった。

 人の運命は決まっている。元々娘は4年前の2011年に死んでいる。自分は娘と過ごしたいばかりに勝手に命を作り、『記憶』という運命を敷いた。どうして「娘の未来を奪うな」と言える資格があると思うのだろうか。


「一つだけ、聞いてい良いか」


「良いとも」


「娘の未来は、明るいものなのか?」


 彼は弱弱しく問うた。

 神の慈悲を請うような瞳に、紳士は答える。


「辛く厳しい道だが、暗くはない。多くの友人と出会い、支えられ、別れを経験して、成長していく。そして成長した彼女は多くの人を、世界を救うだろう。自慢の娘だと胸を張ると良い」


「そうか―――」


 彼が満足そうな顔をした瞬間、愛車にトラックが激突した。


 死者は一名、即死。2015年の2月のことである。

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