彼女は輪廻の蛇を見る
第24話 彼女は輪廻の蛇を見る①
2011年1月17日。一人の女の子が産声を上げた。
ドイツ人の父親と日本人の母親の特徴をよく受け継いだ可愛らしい見てくれで、元気という言葉をそのまま赤ん坊にしたような溌剌とした健康児だった。
そんな娘にどんな名前が相応しいか。随分と前から考えていただろうに両親は迷っていた。目の前にいる見目麗しい我が娘には、事前に決めていた自信満々の名前など薄っぺらいと思えてきたからだ。
父親は故郷ドイツにいる実の両親や大学で医学を共に学んだ学友たちに聞いて回り、母親は学生時代の恩師や学のある同僚の知恵を借りたが、二ヶ月経とうとしてもまだ娘の名前は決まらなかった。
幸せの中にいた彼ら。だが、悲劇は唐突にやってくる。
3月に起きた、とある自然災害。
家にいた母親と娘は、流されて消えていった。父親が大学に特別講義のために東京にいたので無事であったが、それこそが悲劇であった。
急いで帰るが、そこには何もない。幸せの詰まった我が家は欠片も残さずに消えてなくなり、誰のか分からない車や船、何かだった残骸で溢れている。運よく二人の遺体を確認できたのは、5月の中頃のこと。娘が生きていた時間よりも長かった。
仕事場もなくなり、父親は何もできずに避難所に身を寄せる。東京にいる知人やドイツにいる友人・家族が助けになると持ち掛けるも、彼は動こうとはしなかった。体は抜け殻、心は空虚になって、何もする気が起きない。
ただ人の流れに乗っかるだけの毎日。同じような人が避難所には多くいたが、彼を気遣う人間は誰もいない。逆に何も語ろうとしない彼を厄介にまで思っていた。
そんな空気に耐えきれず、彼は避難所を飛び出した。
着の身着のまま、靴もないはだしの脚で荒れた街を歩いてゆく。
どれくらい歩いただろうか。
彼がそう思ったころには足は限界を迎え、言うことを聞かずにその場に倒れ込んでしまった。栄養失調、睡眠不足に脱水症状。もう彼が生きていることすら不思議な状態であった。
そのまま意識は遠くなる。
それで良い、と彼は思った。彼にとって、生きているのは苦しいだけだった。もういっそう死んでしまえば、この苦しみから救い出される。無神論者の彼は神の存在を信じてはいなかったが、瞳を閉じれば現れる幸せな過去と出会えるのならば、それは神が与えたもうた慈悲であると確信していた。
そうして、彼の呼吸は静かになってゆく。
◇ ◇ ◇
彼は目を覚ます。
彼が今いるのはもうなくなったはずの我が家。幸せの陽が差し込むリビングにある食卓に座っていた。
「おはよう。気分はどうかね?」
前に座っていた妻が問いかけてくる。だが、妻ではないことはすぐに分かった。彼女が発した言葉は流ちょうなドイツ語。それに大男のように雄大な低音だったからだ。
「ここはどこだ?」
「それは君が一番知っているはずだ、アルベルト」
質問に、妻は彼の名前を付け足して答えた。
「これは夢か」
「または死に際に見るらしい走馬灯だ」
「走馬灯ではない。私は少なくとも生きながらえようとは思っていない。死という救済を受け入れるだけだ」
「同じことだよ、アルベルト。人間という生き物は覚えたいものしか覚えない。夢はそうするために行う脳の整理作業だ。言うなれば、どんな記憶を脳みその棚にしまったのか確認する行為が夢、死ぬ間際に見る走馬灯とはその脳みその棚を洗いざらい取り去る行為というわけだ」
妻の、いや妻の身体を借りた存在は淡々と語る。
「君が聡明なのは良く分かった。だが、その見た目で話されると少し混乱する……」
「姿を変えて欲しいのかね?」
「もしできるのなら、してくれると助かる」
「お安い御用だとも」
妻はニヤリと笑った。妻がするはずもない顔に、彼は少し苛立つ。
そして、妻から変わった顔は彼には身に覚えのない少女のものになった。
「これでどうだね?」
彼女はまた笑う。
その笑い方や瞳に漆黒の髪。いくつかの人種が混じり合った彼女の見てくれは万人に受け入れられる美少女そのものだったが、彼の記憶にそのような少女はない。
「それは、若い頃の妻の姿か?」
「いいや、違う。似ているかね?」
「似ている。どこかで見たような顔だ。夢が記憶の整理とするならば、君のその姿は私の記憶にある人々を適当に合わせたものだろう。それに一番記憶に刷り込まれた妻や母親が混ざってしまうのは納得がいく。ドイツと日本のハーフのような顔つきをしているのはそのせいだ」
「アルベルト。もしかしなくても、お前は頭が固いな」
「察しが悪いとはよく言われる」
ふむ、と彼を見つめる彼女。そして、
「これは、お前の娘の姿だよ」
と。仕方なくネタ晴らしをするマジシャンのように言った。
「君は先ほど、夢は『どんな記憶を脳みその棚にしまったのか確認する行為』と言っていたはずだが?」
「もちろんだとも、アルベルト。だが同時に、記憶に関する時間軸には言及していない」
「どういうことだ?」
「デジャヴ、というものを知っているかね。見たことのないものだというのに既視感を抱いてしまうことだ。それが何なのか、未だにはっきりとしていない。ただの錯覚というのが一般的だ」
「どうやら君にはそのデジャヴに対する確固たる答えがあるようだな。その姿が『私の娘の姿』と言うくらいだ、大方『デジャヴとは未来の記憶』とでも言うのだろう」
「正解だ、アルベルト」
彼女は立ち上がった。
差し込む日差しで曖昧に霞むリビングをてくてくと歩きながら続ける。
「人の未来とは、往々にして決まっているものだ。運命、宿命、定め、エトセトラエトセトラ。よくこの話をすると『未来は自分の手で変えられる』とほざく者がいるが、時間はそれほど柔軟じゃあない。考えてもみたまえ。時間はどう流れているのか、を。日めくりカレンダーのように過去から未来へ流れているのか? それともマラソンのように未来が過去に向かってきているのか?」
「それは、時間の中にいる私たちには答えられない。どちらも正しいと言わざる負えない」
「そう、両方正しい。時間は『過去から未来へ流れている』し『未来が過去へ向かってきている』。鶏と卵は同時に存在していたわけだ。記憶にしたって同じだ、アルベルト。人間の記憶にはあらかじめ一生分の記憶が詰まっている」
彼女は衣装棚に触れる。錠に鍵を差し込み、回す。
「だが、おいそれと未来の記憶は見せられない。この鍵は、人間の行動だ。人間は行動することで時間を過ごし過去を、記憶の棚を開ける鍵を手に入れる。鍵が開けられれば、当然棚は開けられる。これが一般的に用いられる『記憶』の概念だ」
「未来の記憶はあらかじめ私たちは持ってはいるものの、固く閉ざされていて見ることはできないわけか」
「そうだ。と言っても、錠というものは壊れやすい。ごくまれに、未来の記憶が見えることもある」
錠が壊れかけていた棚を開ける。
「来たまえ、アルベルト。ここに、これからの人生を変える記憶があるぞ」
恐る恐る、彼は近づいてみる。
眩く光り続ける棚の奥に、年老いた自分の姿があった。白衣を纏い、多くの同僚たちと共に喜びを分かち合っているようにも見えた。いつの間にか、彼の手元に分厚い資料の束が握られる。
「これは?」
「未来だ、アルベルト。これから歩んでゆく道、たどり着くべき先だ。そして、その手に握りしめられたものが、その未来に行くための鍵になる」
「言っている意味が分からん、もっとわかりやすく説明してくれッ!」
「心配ない。ただ歩くだけで良い。問題は、時間が解決してくれる」
差し込む陽が段々と濃くなってゆき、彼の立つリビングの存在は希釈されていって、次第に意識もあいまいになる。
「待て、待ってッ、行かないでくれッ!」
自分がどこにいるかもわからない靄の中を、彼は走る。もう何を追いかけていたのかも分からない。が、誰を追いかけているのかは分かっていた。
「待ってくれッ、『薺』ッ‼」
まだ知らない少女の背中。
名を、薺。母親の家名を御形。
まだ見ぬ娘、御形薺の背中を彼は追っていた。
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