2日目-4-

 さて新しいアクセサリーでも紗鈴に見せびらかしに行こうかと店を出て、深空は空を見る。夕焼けが段々と町を朱に染める準備をしている。山の緑は闇の中に沈み、白い家は薄っすらとオレンジがかっている。

 速足になって歩き出す。深空の脚でもゆっくりだとお寺はここからだと30分はかかってしまう。急がないと山から降りる頃には真っ暗だ。

 軽く走りつつ町を横切って本町へ移動。ちらほら人の姿が見える。上りはペースを保った大股に。本町は子供の声が聞こえる。逆に山道は暗がりを意識しつつ足元に注意してゆっくりと。こんな時間だ、誰も山には行かないのだろう。

 そうして辿り着いて17時。鳥居から見る上空は蒼い暗がりを抱き、水平線では真っ赤な夕陽が雲の下を燃やしている。

「おや、こんな時間にどうしました?」

 写真を撮って深空は振り向いた。言葉は耳に入っていたが、風景をカメラの枠に収めるのに集中していて脳が処理しなかったのである。

「ちょっと紗鈴……さんに用があって」

「おやおや、もう名前で呼び合う仲になりましたか。娘も同じ年頃の友人がいるといいのですが同年代の子は皆外に出てしまいましてね。ああ、でもお寺が鎖になっているのかもしれません。そこはあの子にも強いてしまっている部分があるのですが──ああ、すみません。少し思うところもありまして」

 穏やかな顔の羽潮うしおは箒を持っている。掃除の邪魔をしてしまったかしらと深空は話を戻す。

「いえいえ大丈夫ですよ。それで、紗鈴さんはどこにおりますか?」

「紗鈴で構いませんよ。──帰ってきてゲームでもしているんじゃないでしょうか。まあ、いつものことです。案内しましょう」

「いえ、場所を教えてもらえば」

「昨日とは別の場所です。案内した方が早いですよ」

 そう言って先導する。方向は昨日と同じ本堂の裏、だが建物が違った。奥の一番小さな建物だ。3つの中でも最近建てられたような新しさがあって、平屋だが見慣れた形に近い。

「こちらです。住居ですので、少々散らかってますが」

 玄関はカードキーとテンキーの二重錠。開ければ一般的な住居だ。確かに紗鈴が履いていた靴もある。

「お邪魔します」

 玄関の正面は行き止まりで左手に廊下が伸びている。廊下の先にはドア。羽潮はその先には行かず手前の扉の前で止まった。

「紗鈴、高遠さんが来ているよ」

 ばさばさと音。それから一瞬の静寂が空き、扉が横に開いて顔が出る。

「えっと……何か用かな?」

 首から上だけを出した紗鈴は困ったような笑い顔で深空を見た。

「そんな用ってほどじゃないんだけど」

「えーっと……部屋はダメだし……外でいい?」

「部屋くらい片付けておかないかね」

「見せたくないものくらいあるの!」

 ばん、と勢いよく扉が閉まった。紗鈴の姿は昼間と同じままで、寝っ転がっていたのかところどころシワになっている。焦りが見える表情は上気していて少し赤い。

「さ、行こっか」

 紗鈴が深空の手を引っ張って外に連れて行く。そんな2人の姿を羽潮は見送って動かない。

「──で、何の用」

 玄関で靴を履くのもそこそこに、左のかかとを潰したままの深空を紗鈴は引っ張っていく。赤く染まった本堂の前まで来て、ようやく立ち止まった。

 外に出ると一転、紗鈴の顔は苛立ちを多分に含んだものへと変わる。焦りも多いが深空へ向けられる視線は猜疑のものだ。

「いや、そんな大したことじゃなくて、これ」

 天球時計を見せる。

「雨夜月で買ったんだけど、どうかな。大きくてストラップにはできなかったけど」

 どうして言い訳がましいことを口にしているのだ──。深空の内心を読んだかのように、ふいと紗鈴の表情が和らいだ。

「ま、じーさんに告げ口しに来たんじゃないならいいけど」

「告げ口って」

「倒れたことよ。蒼夜には行っておいたけどあなたにはタイミングが無かったから」

「それだけ?」

 今度は深空が驚く番だった。それくらいでここまで警戒するだろうか。

「深空はじーさんのことを知らないから。あれでも昭和産まれよ、お客さまに不作法をしたって知られたらどうなるか」

 大袈裟に肩をすくめて怖がって見せる。ただ、コミカルな仕草とは裏腹に口調は本当に怖がっているように思えた。

「そんなに怖いの」

「怖いわよ。多分この町で一番強い。漁師よりもね。あ、至さんは除いてだけど」

 どうにも胡散臭い優男のことを頭から排除しながら深空は昼間の会話を思いだす。

「道場ってのに関係ある?」

「そうそれ。じーさん古武術とか空手とかそこらへんの技術持っててさ、町の若い人に道場で稽古つけてるの。私も週に何回か通ってるけどまあ敵わないわ。そりゃ若い男は私にいい所見せたいと思うわけ、でもじーさんに向かっていった瞬間に投げられて地面にひっくり返ってるの。足元に落ちてるゴミを拾ってゴミ箱に投げるみたいに簡単によ」

「変な言葉は無視するけど、武道家ならそれくらいできるんじゃない? 武術に身長は関係ないっていうし」

「そうじゃないんだよね。何もさせてもらえないの。何人でかかっても、一瞬ってわけじゃないけどじーさんが一方的に叩きのめしてるしさ。逸話もあって、酔っ払いの漁師に絡まれた時、立ったまま気絶させて運んでいったって話もあるって」

 どんな話だ。ただ、あの柔和な態度や表情と武道家としての姿が結びつかないのも確か。だけどそれだけならそこまで怖くないんじゃないかと深空は思う。

「でも手を上げはしないでしょ」

「手は出さないよ。でも、いつでも手を出せるって雰囲気は出してる。威圧感ってか圧だよあれは。素人が出せないやつ」

 苦々しげな顔を見ると本当のことらしい。

「まあまあ。ところで、それ見られる?」

「道場に来れば見られるよ。毎日じゃないけど……次は明後日かな」

「それ以外は?」

「夏休みだから大体やってるけど祭前だからどうだったっけ……あ、じゃあ連絡先交換しない? 後で教えるから。私のはタブレットだけど大丈夫?」

「スキャホの方は問題無いよ」

「えーっと……ちょっと待ってて、持ってくる」

 小走りに家に戻る紗鈴の後ろ姿を目で追う。風が吹いて胸の時計が揺れ、深空はここに来た本来の目的を思い出す。

「そういえば答えもらってないな……」

 ひと言でいいから何かないかな、と空を見ていると紗鈴が戻ってきた。

「はい、これ」

 アプリの通信画面を開くと即座に連絡先が飛んできた。登録してスタンプを投げると向こうからも返ってくる。アイコンは、デフォルメされた笑顔のネコ。

「タブレットなんだ」

「ゲームしやすいからね。それに」

「それに?」

「……まだ秘密。そこまでの仲じゃない」

 はっと口を閉じる紗鈴。その様子に深空は心の中で訊ねる。

(イラストでも描いてるのかな)

 もう少し仲良くなれば教えてもらえるだろうか。それともこの町にいる間は無理だろうか。

 2人の間を太陽が落ちていく。夜の蒼が星の赤を覆っていく。道は刻一刻と闇に消え、町の明かりが蛍のようにはっきりとしていく。

「あ、もうこんな時間! 下まで送って行くよ」

「大丈夫だよ」

「だーめ。山道は危ないから、慣れないうちは1人で歩かせちゃいけないの。今度こそじーさんに叱られる」

 それなら仕方ないと深空は納得する。でも、夜の空き地で寝たこともあるんだけどな、と何となく対抗心。

「分かった。じゃ行こう」

 階段はまだ夕陽の残り火で光を持っているが、木の下は既に闇が湧きだしている。確かに1人で歩いて遭難したらいけないな、と紗鈴の背中を見ながら深空は歩いていく。

「おっと」

 木の根にぶつかってよろける。何事かと振り返った紗鈴に深空は大丈夫と笑いかける。木の根だけでなく、石を踏んで止まったり坂によろけて止まったり、覚束ない足元の中、来るときの倍くらいの時間をかけて町まで降りる頃にはすっかり暗くなっていた。その代わり、うだるような暑さは残り火くらいに消えている。

「今日はありがとね。色々引っ張り回しちゃったけど」

 紗鈴が手を振った。薄暗がりの中、少し離れた常夜灯の光に照らされた顔は満足そうに笑っている。

「そうそう、そのアクセ、似合ってるよ」

「覚えてたんだ」

「さっき思い出した。降りてる時」

 この暗がりでは見えないだろうに、と深空は胸元に目を落とす。そこに光があった。

「えっ、これ、光ってるの」

 深空が見たものはぼうっと光を保持する球体だ。天球時計の地球2つが黄昏の中で明るく見える。オレンジと白の光。

 それは自ら光を放っているのではない。蓄光した塗料が闇の中で光を放出し、さらに常夜灯の灯が球体面に反射して、あたかも月が陽光を受けて夜闇に輝くかの如く光っているのだ。例えば月から地球を見上げれば、そんな光景が見られるかもしれない。

「光ってるねえ」

 しみじみと紗鈴が頷く。

 その様子がなんとなくおかしくて深空は小さく噴き出した。笑いは止まらず腹からこみ上げていく。

「何が可笑しいのよ」

「いや、そんな深みがあるように言われたら、笑うよ」

 どうにも止まらない。ただ、紗鈴も怒っているわけではない。笑顔のままからかうような視線で深空を見ている。だから深空も腹を抱えて笑う。紗鈴もくつくつと小さく笑う。声は山の木々に吸い込まれて消えていく。陽が落ちて闇の帳が降り笑う影だけが残っている。

 ひとしきり笑って気が済んだのか。深空は天球時計を揺らして立ち上がった。

「それじゃ、また明後日かな?」

「連絡くれたら私はいつでもいいわよ」

「ん」

 まだまだ中身のない会話でいくらでも笑っていられそうだった。名残惜しくもあり、これ以上は無理だという思いもあり。別れるのは当然のことのように思えた。

 深空は町を下る道を歩き出した。目的地は町の一番下、海沿いの道路である。

 常夜灯が照らす道を、家の明かりが漏れる道を、薄暗い町を深空は歩く。まだ18時半なのに人をほとんど見かけない。娯楽施設も無い田舎では夜は家にいるのだろう。娯楽もネットがあれば済んでしまう。だが、そのおかげで人のいない世界を堪能できる。

 鼻歌混じりに深空は歩く。すぐ上を向けば視界は広がり空を遮るものは無く、常夜灯の弱い灯りでは星をかき消すことなど不可能。月が痩せているこの瞬間にこそ、蒼々とした夜の姿が浮かび上がる。

 上空を見ながら深空は道なりに歩みを進める。身体が重力に引かれる方へ、坂を下る方へ、なるべく覚えている道を進む。とはいっても薄暗闇の中で判別する手段はあまりない。ほとんど適当に進んでいた。

 それでも道に迷ってしまうほどには町は入り組んでいた。

 本来なら入ることの無い道だったろう。明るい場所で見たら行き止まりに見えたはずである。ただ、道が下りで常夜灯が立っていたというだけで、深空はそこに入り込んだ。

 下りて、曲がって、エアコンの室外機が並ぶ家の隙間を通り抜け、上空から微かに見える明かりを頼りに薄っすらと漏れる行く先の光を目印にして進んでいく。通路のように区切られた家と家の隙間は分かれ道も無く不思議と塀にも当たらなかった。何者かの意図が絡んだ設計のような正確さで迷子を先へ先へと進ませていく。

 それでも深空が引き返さなかったのは道が下っていたからだ。

 既にスキャホを装着しルートは記録中。何かがあっても周囲の家に助けを求めればいい。それに自衛の道具もある──。

 いくらか不安でも、それを思えば深空の脚は止まらない。いくらか足が遅くなっていても進み続けて、そろそろ太い道に出てもいいんじゃないかなと思った瞬間、視界が開けた。

 そこは空き地だった。だだっ広い場所。上空は夜が覆い周辺の建物からは明かりが消えている。常夜灯の灯も建物に囲まれているせいで届かない。星々だけが照らす暗闇の空間だ。

「何だろここ……」

 口に出していた。それは恐怖を誤魔化すためか。静寂に吸収された声は平静になるどころか不安を増幅させる。

 そんな感情を無視して深空はその空間を見渡した。使われなくなった空き地だろうか。それにしては風に草が揺れておらず、土が剥き出しになっている。周囲は背の高い建物で光も無ければ穴の中にいるようで。

 うすら寒いものを感じた深空は戻ろうとした。場所は分かっているんだ、また昼間に確認に行けばいい。何か立て札があったとしても見えないし……

 それでも向こう側に何があるのか好奇心が抑えきれなくて。スキャホを夜間撮影モードにして周囲を探る。目立つようなものは、無し。特に看板があったり立ち入り禁止の札があったりは無い。そういう意味ではあの草むらと同じ──

 そう思った瞬間、風が後ろから吹いた。通路の中で圧縮された空気が深空を押すように勢いよく抜けていく。その場から動きはしないものの、よろけた深空は右足を前に出す。その爪先に当たる物。

「石?」

 手のひらに収まるくらいの小さなもの。スキャホのライトを点けて確認してもただの石にしか見えない。ただ、しゃがんで地面に顔を近づけてみると、似たような石がごろごろ転がっていた。

「何も無い、よね……」

 こういう空き地に石があってもおかしくない。多分。そう深空は心に刻んで立ち上がる。背を向けるように振り向いて通路へ突入。綱渡りでもするかの如く足跡の形までルートから離れないように細心の注意を払いつつ、それでいて可能な限り速足で元の道まで駆け抜けた。

 常夜灯が見えた時、深空の息は若干荒くなっていた。どうにも背後から何かが追ってきているような感覚が消えなかった。誰もいないからか余計に人の影を感じてしまうのだろう、と無視するようにしても違和感は拭えない。

「えっと、どっちに行けばいいかな」

 ここまで来たら自分の力だけでは難しい。時間も惜しいということで深空は昨日今日と貯めたルートを見る。そこから道を逆算すれば下へ降りる道を見つけることなどわけ無いことであった。

「こっちで、それで曲がって……」

 独り言が多くなるのは仕方ない。人の気配はあれども外には深空一人。心細くなるには充分だった。

 ただ、空を見上げれば星がある。青空と違い夜は雲が無くても空虚ではない。満天の星の下、独りぼっちで歩いている少女がいる。彼女は独りで、それでも空によって満たされている。空を見よ。それだけを心に刻まれて。

 ようやく波に揺れる船が薄っすらと影になっているのが見えた頃。深空は穏やかな気持ちを取り戻していた。そうなると、今度はお腹が空いているのを否が応でも自覚する。そして、晩御飯の場所は決まっていた。

「えっと、こっちだったっけ」

 昼間、山から降りてきた時に見かけたのだ。本町の海沿い、港の正面。そこに『もてぎ』はある。扉の隙間から明かりが漏れ、鍋の煮える音、魚を焼く音が聞こえてくる。

 店に入ると人はまばらで、活気は既に通り過ぎた後の雰囲気が漂っていた。時間はまだ19時半。深空が入って来ても注目するような客はいない。

「ひとり、大丈夫ですか」

「21時までならな」

 不愛想な男の声が奥から響いた。席は全てカウンターで厨房はその中。数人で回しているが1人だけ目付きの鋭い男がいる。それが深空に声をかけた男だ。まだ30そこそこに見えるが、そこらの漁師にも感じないほどの迫力がある。

「おやおや店主どの、そんなにつれない態度を取ることもあるまい。ほら、お嬢さんもこちらに来たまえ」

 そしてもう一人深空に声をかけた男がいる。玄空げんくういたるだ。

「えっと……」

「注文を先にしてくれないか」

 ぎろりと睨む店主に深空は店を見回す。表にメニューがあったのかもしれないが見ていない。だが店内にはメニューの代わりに品物と値段が大きく書かれた木札が下がっている。それを見て、

「オススメは雑魚丼だよ」

 そう雑魚丼。どこにあるのだろう。

「玄空さん!」

 ひと通り木札を見て、律儀にそんなものどこにも無いのを確認した深空は声の主に文句を言う。

「変なこと言わないでください」

「失敬。だが、これは頼まなければ出てこないのだよ。な、店主」

 話を振られた男は目付きをやや柔らかくした。だが口調は苦いものが混じっている。

「そうですけどね。余所の者に出すものじゃないと思うのですが。わざわざ言うことでも無いでしょう」

「そう邪険にすることもないじゃないか。大事なお客さまだぞ?」

「だったら余計雑魚丼なんて出さない方がいいじゃないですか」

 口調は丁寧だが不満げな顔は崩さない。至への態度は敬意と気味悪さが同居しているようだ。そんな2人の様子に周囲の客は何もしない。──いや、わざと見ないようにしている。気配を伺い何が起きているのかは把握するが、決して顔を上げようとはしない。間違っても目が合うことが無いように。

「えっと、雑魚丼って何ですか?」

 そうやって敬遠されている2人の間に深空は割って入った。妙な雰囲気はかき消され、話を続けるタイミングを崩された店主はさっと言葉が出てこない。代わりに至が答える。

「雑魚の名の通り、傷んでいたり形が悪かったり小さかったりする魚だけを使った丼物さ。ああ、きちんと食べられる部分だけを使っているぞ。そういうものは加工することが多いのだが、この町は工場が多くないのでな、少しは残ってしまう。廃棄するのも忍びないしこうして出しているのだよ」

「海鮮丼じゃないんですか?」

「ちゃんとしたものとして出せるわけ無いだろ」

 お返しとばかりに店主が割って入る。

「店主、言葉が足りないぞ。──高遠さん、かけるはこう言っているのだよ。『綺麗な素材でないもので作った料理を自分の全力と勘違いされては困る。料理人としてのプライドにかけて三流の材料で作った料理は商品として認めない』、とね」

「至さん!」

「ははは、親父殿がいたらなんと言っただろうかね? 変な自尊心は捨てろ、自分の腕が食材を輝かせるのだ、とかかね? わたしも同意見だ。雑魚丼と言っても君の腕によるものに変わりはない。プライドもいいが自信も持ってくれていいのだよ」

 謎に自信満々な雰囲気を湛えている至が言うと説得力がある。が、

「俺は自分の料理を作っているだけです。親父は関係ありません」

 言われる当人としてはうざったいだけだろう。

「それで、何を注文したらいいんですか」

 いい加減面倒くさくなってきた深空はまた木札を見ていく。案外安い。今日は1つ、明日はまた別のものを頼んでもいいかもしれない。

「じゃあ雑魚丼を1つ」

「……いいんですか?」

「大丈夫です。それに、また食べに来るから、その時は正式なメニューから選びます」

 疑わし気な視線を深空に向けたままだったが、至の視線を無視できない。

「雑魚丼入ります」

 ひと声かけて店主は動きだす。冷蔵庫から下処理済みの魚を出し、厚めの切り身にしていく。小さなアジを数匹出して薄く2枚におろしてから骨を抜く。その間に別の人がどんぶりにご飯を持っていく。

「量はどうしますか? 少なめにします?」

「いえ、できれば大盛りで」

 しゃもじを持ったおばちゃんに深空は答える。量の設定で値段が変わる様子は無いが、少しくらい増えても問題ない。

 ご飯が盛られている間にも店主の手は止まらない。開いてあったイカを薄く削いでさっと塩を振り、サバを薄く切ったらよく光に透かして見ている。ひと息、サバを軽く炙って焦げ目をつけ、ゴマを乗せる。

 少し山ができているご飯にそれらを置いていき大葉を刻んで乗せれば完成だ。

「雑魚丼お待たせしました」

 白いご飯に白い魚と緑の大葉。微かにお酢の匂いが漂ってくる。とりどりの魚に彩りは無いが、量は充分だ。

「いただきます」

 空腹に任せるまま深空は箸を取った。白米に箸を突き刺し掬う。同時に上の魚の切り身を持ち上げて口へ運んだ。

 口腔いっぱいのご飯の香りと魚の脂は甘み。醤油などかけなくても最初から味付けがされている。塩のしょっぱさが鼻に残る臭みを溶かしてご飯の熱に混ぜていく。大葉はサバに巻いて脂のクセを抑え、時折歯に当たるゴマの感触が楽しい。

 深空は勢いを殺さず最後まで食べ終えた。大盛りだったからか最後はご飯だけになっていたが、至が投げ込んだブリの炙りの欠片と共に胃の中に消える。

「どうだったかな?」

「美味しかったです」

「それは良かった」

 深空は食後のお茶で口の中をニュートラルに戻していた。店主を差し置いて深空と至だけで会話が進んでいる。しかし当の本人は気にしない──というよりも関わりたくない様子で黙々と魚の処理を続けている。

 他の客は既に出て行って、深空と至しか残っていない。20時を過ぎて閉める時間にはまだ早いが厨房は半分ほど閉店作業や明日の仕込みに移っている。

 だが、深空と至はそれを無視した。

「ところで、この町はどうかね。2日もあれば回ってしまえるだろう」

「そうですね。小さいですけど道が入り組んでいて、迷ったりしていれば時間は過ぎていきますし、そんなに退屈じゃないですよ」

「小さい、か。まあそうなんだが……面と向かって言われると少々嫌味に聞こえるね。都会と比べるものでもないだろうし」

「あ、ごめんなさい。でも大きさで何が悪くなるとか無いですし」

「それはそうだ。僻みっぽくなってすまないね」

 2人はカウンターで席1つを隔てて座っている。その距離が縮まることは無い。しかし言葉を交わすには充分な距離。

「でもスーパーには驚きましたよ。あんなものまで──いえ、何でもないです」

「まあ、あそこはこの町を下支えしていると言っていいからね。何でもとは言わないが、魚以外のものならスーパーは便利さ。頭の固い組合の説得がどれだけ大変だったか」

 語り始めそうな至はいつの間にかおちょこを手にしている。熱燗でブリの脂を流しているのだ。

「説得って……」

「いいや、必要なことだったのだよ。無理矢理復興させたところで凋落していくのは目に見えている。だったら新しく作り直すべきなのさ。いかに田舎といえど通販は既に侵食していたし近代化もしなければいけなかった。ならば、都会には遅れても新しいものを迎える必要がある。だからその象徴としてスーパーは必要だったのさ」

 深空が訊きたいのは田舎の町の運営術ではなかったが、それはそれとして話は面白い。

「とはいえいくら近代化を目指したところで、田舎は物も事も足りない。文化の収束点たる都会には勝てぬのよ。わたしにできるのはこの町を維持し、滅びぬようにするだけさ」

「まあ確かに、図書館も無いですからね。でもネットはありますし」

「そうだな。世代交代も順調だから、まだ他の田舎よりはマシだろう」

 ほんのり頬を朱に染めた至は饒舌になっているのかいつもと変わらないのか深空には判別がつかない。ただ、店の人たちが聞いてないふりをしているのは分かった。そして、至は彼らに聞かせているのだとも。

「お嬢さんのような観光客が、たまにでも来るのは実はいいことなんだ。観光地としての産業は考えていなかったがお金を落としてくれる人はいつでも歓迎だ。VRでも実際の空気はまだ再現できないからね。こんな田舎も仮想空間になるのはまだまだ先のことだろう。だから、ほどほどの田舎具合を保っている町として売り出すのもいいかもしれない。──どうだろうか」

「そんなこと言われてもですね、ただの観光客には過分な扱いを受けていると思うんですが。追い出そうとしたことは置いておきますけど」

「あの時はああ答えるしかないだろう。──まあ、それはあるな。蒼夜があそこまで執着するとは思わなかった。それに遠海の爺さんと孫娘とも親しくなったろう。あれは大きい。何だかんだお寺は威光がある。それにわたしと出会ったこともだ。ただの観光客ならそうはいかないだろうし、本格的に事業にするなら解決すべきことは山積みだろうがね」

「そう、ですよね。何だかんだ宿も用意してくれましたし」

 しかしただの警官にしては采配の範囲が広すぎやしないかとも思う。それに、語っている内容と年齢が一致しないのは思い過ごしだろうか。最初から胡散臭いと思っていた深空の人物評がさらに疑いの色眼鏡を濃くして至に向けられていく。

 深空の内心を知ってか知らずか至は熱燗をするすると身体に納めていく。ただの仕事終わりの警官のようであり、掴みどころのない仙人のようでもあり。住人はそんな人物をどう見ているのだろうか、と深空の疑問は尽きない。

「ふぅ……」

 ゆるりと息を吐く青年の姿をした男は、深空の方を向いた。そういえばこっちを見てなかったな、と思いながら深空は身体を固くする。何か重大なことを告げられるのではないか。そう思うと緊張で強張る。

 だが至が目を付けたのはもっと簡単なことだった。

「ところでその胸にあるものは?」

「天球時計っていうものらしいです。雨夜月で買ったんですけどいいアクセサリーですよね。時計には使えないですけど」

「ほう。ちょいと失礼」

 そう言って至は天球時計に手を伸ばす。深空は球体を指で挟み胸から少し離す。

「ふむ……このような品、見たことはないな」

「倉庫から出てきたもので、何なのかとかどこから来たのかとか分からなくって」

「前の店主は放浪癖があるからどこぞから運んできたものかもしれないな。それにあの店も案外前からやっているし、わたしが知らない物があってもおかしくない──が、ふうむ」

 何やら気になる様子の至は指を伸ばして天球時計に触れる。右手の人差し指で表面をなぞり、地球の奥、砂の1粒1粒まで見透かすような視線を向けている。鑑定するかの如く鋭くあまりにも真剣な眼差しは普段とは違って人が変わったように見えた。

「何か、分かりますか」

 今の彼には自分たちが見つけられなかったものが見えるかもしれない、と期待を込めて訊いた。

「いや。全く駄目だね」

 即座に期待が外れたがそうそう分かるものではない。自分が調べて無理だったのだ。深空は特に気を落とすこともない。

「しかし似合っているぞ。いい買い物をしたな」

「はい。ありがとうございます」

 こっちの言葉は純粋な褒め言葉だ。上から目線の皮肉に聞こえてしまうのが玉に瑕ではあるが、声の問題なので仕方ない。

 ふう、とひと息。深空はスキャホを見た。もう21時が近い。閉店の準備をしているし、何よりこんな会話を続けていたらいつまでもここにいてしまいそうだ。深空は立ち上がる。

「そろそろお会計いいですか?」

「はーい。レジまでお願いします」

 名残惜しそうに話し相手の背中を見つめる至と、ほっとした様子の店主と。他の従業員だけが何事もないように動いていた。

「それじゃあわたしも行こうかね」

「……まだあの子にちょっかいかける気ですか」

「いやいや流石にそこまではしないよ。わたし自身を逮捕したくはないさ。しかし、どうしてそんなことを言うのかな? 余所者は歓迎しないんじゃなかったのかね」

「至さんが変なことを言わなければただの店員と客です。余所者とか関係ないです」

 営業をする上で線引きは守る。彼の本心は外に出さないが、至にはからかえるくらいのものでしかない。

 だが、それ以上はせずに至も会計を済ませて店を出る。外は常夜灯の淡い灯りが道を照らしている。道の側だとまだ明るいが、町の中は暗くて家々の明かりもまばら。空には段々と雲が集まってきて、雨こそ降らないものの灰色が影を落とす。

 暗い空の下、深空の姿は既に無い。

 店から離れた至は使われていない漁港の隣、港跡まで歩いていった。コンクリートの縁ぎりぎりまで寄って海を見る。山から背中に吹き降ろしてくる風にシャツの袖とズボンの裾がはためいて。至は小さく笑みをこぼした。

「面白いことになりそうだ。祭の日が楽しみよな」

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