2日目-1-

 予想通り深空みそらは寝坊した。それはもう盛大に、11時まで布団の中にいるという具合だった。二日酔いや頭痛は治まっている。だが、粘りつくような暑さの中では怠さが溜まることは避けられない。

「れいぼう~」

 居間にはエアコンがかかっているが、襖1つを隔てただけの部屋でも恩恵は半減している。熱気の籠る中で喉が渇き、さらには体温も上昇している。

「水、いる?」

 居間に這い出てきた深空の前にコップが差し出された。両手でひったくって飲み干してようやく人心地ついて、深空は顔を赤くする。自分の姿に気をやる余裕ができたからだ。

 普段着のままのはずが暑くて寝ているうちに脱いでしまったのだろう。肌着一枚の上半身に下半身はショートパンツが腰まで下がっている。髪も湿気を吸収して寝ぐせで逆立ち、疲労にも似た怠さでまぶたも頬も顎も力なく重力に引かれている。

「あ、の、洗面所は……」

「お風呂の隣、台所の」

 それだけを聞いて深空は居間を飛び出していた。台所は昨日入ったから構造は分かる。冷蔵庫があった方にスペースは無かった。だったら反対側だ。

 駆け込むと予想通り扉があって、開ければ正面に洗面所。脱衣所と同じ空間で鏡の中の深空がお出迎えする。

 ひどい顔だ、と深空は思った。日焼け防止のクリームを落としていなかったせいで表面が崩れたように皮膚が歪んで見える。髪は跳ねまわり、想像よりもさらに強い寝ぐせ。焦ったような恥ずかしげな表情が間抜け面を加速させている。

 こんな状態にはしておけないと深空は顔を洗う。顔の表面についているものを全て落とす勢いで、水を流し顔をこすり洗う。汗と混じって固まったクリームを、アスファルトにへばりついたガムを剥がすように落とす。洗顔料を軽くつけては流しつけては流し、肌を削ってしまわないように洗い落とす。

 やっとのことで自分の顔を取り戻した深空は寝室に戻り、ザックの中から化粧水と保湿クリームと日焼け止めクリームを持ってくる。肌に多重のバリアを張るようにそれらを塗り重ね、外に出ても問題ないように仕上げる。

 ようやく落ち着いた深空はお腹が空いていることに気づいた。ぐぅ、と腹が鳴ると止まらない。昨日は充分に食べられたとは言えないし夜の散歩……は微妙だが、朝は抜いている。ぎゅるるという音は台所に響き渡るほどだ。

「ちょっと早いけど昼ごはんにしようか?」

 顔を出した蒼夜そうやは苦笑気味。深空の顔は日焼けでも無いのに赤くなっている。

 蒼夜が並べたものは昨日の余りと素麵。冷たい野菜が多いからこの気温でも食べやすい。お腹も落ち着いてきたし、入るだろう。

 オクラと長芋を乗せて麵をすする。粘りがつゆを包んで引っ張っていく。喉の熱を胃の中にさらって冷やし、心地いい。

「そういえば、お店は大丈夫なんですか?」

「寝ている人を置いていけないよ」

「それはご迷惑をおかけいたしました……」

「別に人も来ないし、いいんだ」

 蒼夜もずずずと素麵をすすっている。

「じゃああのお店はどうして?」

 収入が無くても充分に暮らせると確信している深空には、蒼夜の行動は道楽にしか思えない。それでも訊いたのはあまり好きでやっている様子では無かったからだ。

「……義理と義務、かな」

 なんだそれは、と深空が顔を上げる。両方とも人を縛る要素の中でも拘束力は上位に位置するものだ。深空にとっては不自由の象徴にしか思えない。

 だが、それゆえ踏み込んではいけない領域でもある。相手が自分から話すまでは深入りしない理性は深空にもあった。素麵をすする手を速める。ずぞぞぞという音とともに、みるみるうちにざるに乗った麺は減っていく。互いに手を止めず、ものの数分で味の薄い細長い物体は2人の腹の中に消えていった。

「ところで、午後はどうするの」

「外に出るよ。お店の邪魔しちゃ悪いし」

 神社にも行ってみたいし。それは口にしない。

 蒼夜とお寺の人で神社の認識が違うことについて深空は特に問いただすことはしなかった。何か秘密があるなら言わないだろうし、自分で解き明かしたい。祭の日までの課題にして、この町を楽しもうという算段だった。

「夜はどうする?」

「うーん……今日はどこか外で食べてもいいし……連絡手段、ある?」

「スマートフォンならあるけど」

「じゃあアドレス交換しようか」

 そういえば昨日(というか今朝)もアドレスを交換したっけと思いながら深空はアドレス帳を1つ埋める。

「いつまでに連絡すればいい?」

「食事は昨日のが余ってるから、戻ってくる30分前くらいでいいよ。外で食べるならそれでいいし」

「了解」

 居候と主人の会話とは思えないゆるさだが、早くもそれが馴染んでいる2人だった。

 身支度を整えた深空は外に出る。今日はバイクに乗らないから(バイクは裏庭に置かせてもらっている)薄手で風通しのいい長袖長ズボン、必要なものだけを詰めたザックを背負い、日光を避けるために帽子を被っている。そうしていると本当に少年のようにしか見えない。

 颯爽と蒼夜の家を出て深空は本町へと向かった。お寺──神社へ行くためだ。

 道をはっきりと覚えているわけではないが、降ろし通りと比した時の大体の高さは分かる。まずは新町を少し上の方へ横切って、降ろし通りを抜けて本町に入る。昨日はできなかった本町の散策も兼ね、お寺への道へ直接向かうことはせずに深空は多少横の道へも入っていく。

 通りに近いところはまだ道が整然としている。しかし、2、3本奥へ入るとカーヴやカドが増えていき、迷路のような風情を醸し出す。だけど地元の人はここを通っているのだろうし、目的地にもきちんと辿り着けているに違いない。

 昨日少し奥へと行った上の方とは違って、本町の下の方は住宅地ばかりだった。海の近くだからか農地も小さいものしかなく、ビニールハウスに覆われている。何の野菜を栽培しているのだろう、と突撃したい気持ちを抑えて深空は段々と上に向かっていく。

 子供のはしゃぐ声がする。最近は都会でも大通りの前、つまり最初から騒がしい立地に学校が建っているのに、ここでは人が住む生活の一部として子供の声が受け入れられているのだろう。なんとなく微笑ましい気分になった。

 気が乗った深空は声のする方向へと歩いていく。夏休みでも子供がいるとなればプールだろうか。部活だろうか。補習なら騒いでないだろう。

 少し歩くと、長く続いている塀に当たった。塀一枚を隔てて子供の声がことさら大きく聞こえてくる。塀に沿って(町の端の方向へ)行くと切れ目が見えた。校門ではなく裏門のような場所。その先はすぐ曲がり角で道が分かれている。

 道を曲がり塀に沿って進めば校門まで行けるかもしれなかったが、深空はそうしなかった。とりあえず学校を見られたことだけで満足し、それ以上は進まなかった。目的があったし、女性だが──場合によってはそっちの方が──不審者に間違えられるかもしれないから。

 熱されたアスファルトが足元を焼き、生ぬるい風が蒸し暑い空気を滞留させる中を突っ切って、深空は進む。一見変わりばえしない景色のようでいて住宅の形も古さも違っている。太陽光発電パネルが屋根にあったり小さな畑にトマトやナスが生っていたり、昭和や平成はこんなものだったのだろうかと思いをはせるような、体験したこともないのにどこか懐かしさが胸にこみあげてくる。

 こっちでいいはず、と進んでいくと、知った顔に出会った。

「あーらこんなところで、散歩?」

「ええ、お寺まで」

 陽花ようかは肩から大きな袋を下げて急いでいるようだった。それでも深空を見ると立ち止まり挨拶をする。

「そうー大丈夫? 疲れてないー?」

 登り道を知っているのだろう。しかし、深空は昨日も行った道だ。

「大丈夫ですよ。体力には自信もあるんです」

「だーったらいいけどー、あ」

 声が大きくなった。子供たちが騒いでいる。何かいいことでもあったのだろう、喜色満面の顔が想像できるはしゃぎっぷりだ。

「ほーんっと嫌な声よねー。こーうも大きいと蝉より厄介ーだわ」

「……」

 渋面の陽花に何も言えなくなった深空は言葉を作る間もない。そんなことは気にせず時計を見た陽花は、

「じゃーあ、急いでるから、まーた」

 荷物を揺らしてさっさと行ってしまった。

 田舎の人にも色々あるんだな、と思った深空は先へ進む。昨日とは違う道、違う道程を辿り山へと入る道に着く。ここまで来れば学校からの声も届かず、人もいないしただ蝉だけが鳴きたてている音が響くのみ。蒸し暑い熱気の中に山を通ってきた風が穴を穿つ。その中へと深空は入っていく。

 山道を歩く深空は意外と暑さを感じないことに気づいた。背中はじんわりと熱がこもっているが、木々の葉が太陽を遮る足元の土は熱を反射しない。町中よりも森の中で過ごしていた方が心地いいのではと思ったが、いくら暑さの感じ方が違うからって気温は変わらないのだ。40度にもなる夏の暴力の前にはクーラーのついた家の中にいるのが一番いい。

 心もち速足になる深空は休まず登って行き、じりじりと日光が差し込む階段に出る。

(階段を上る途中、下の方、か)

 立地の関係でそんな場所に作られたとしても、踊り場や横道くらい用意して繋げるだろう。

(昨日は背後が怖くて気づけなかった──というのは無さそう)

 階段の左側を見上げても、一目でそれと分かるような場所は無い。木が生えて、背の高い草が階段側に伸びて、自然の壁のようになっている。確かに横道を隠すには最適だ。

 深空は階段の下から攻めることにした。森に入るには坂が急すぎる。登れないかもしれないし滑り落ちるかもしれない。それに、木々が密集していれば上がる場所さえないかもしれない。

 ゆっくりと草木の中に身体を突っ込んで確認する。木が複数ある場所も、すり抜けさえすれば通れるのではないかと身体を滑り込ませるように確認する。こういう時に起伏の無い身体だと便利だ、と心の中で小さく思う。

 下から四分の一まで見終わって、深空は階段の上で額の汗を手で拭った。道など全く見つからない。密集するように木や草が生えていて近くに人が通れるような空間があるのかさえ不明だ。もしかしたら獣道というやつかもしれない、と焦りの冷たい汗が背中を流れる。そんなものを見分ける技能は無いし歩けるかどうか。

 ふう、と空を見上げる。青空はどこまでも広く、白い雲がどこからか湧いては通り過ぎていく。道を探しているけど、その先はこの空と繋がっているのになあ、何を必死になっているのだろうなあと妙に現実逃避をして、いや駄目だと深空は顔を下げた。その視線が鳥居と交差した。

「何か失くした? 探すの手伝おっか?」

 階段に足を踏み出したのは軽装の紗鈴されい。半袖半ズボンと浅黒く日に焼けた肌を見せ、眼鏡が日光を反射した。

「あ、ええと」

 神社への道を探している──それを伝えるのは簡単だが、深空の口は「じ」の形に動かなかった。代わりに出たのは当たり障りのない言葉。

「写真撮ってたらアクセ落としちゃって」

 こんなに簡単に嘘をつけたっけ、と深空自身も疑問に思うが、その不思議さを考える間もない。

 階段を2段飛ばしで降りてきた紗鈴は深空が顔を突っ込んでいた草むらを見て改めて言う。

「一緒に探そうか?」

「いや、いいよ。そこまで高価なものじゃないし諦めかけてたとこだし。遠海──蒼夜さんのお店で新しいの買えばいいから」

 神社について訊いてはいけない、という思いが胸に浮かぶ。無意識のうちに芽生えていた違和感が実を結び、脳の表層に浮かび上がる。

(神社に行かせたくないのだろうか──?)

 ただの推測。だが、深空の脳内では半分ほど確信に変わっていた。どうにかして彼女の追跡を振り切ってこの先へ行けないだろうかと思案する深空だが、そんな時間は残されていない。黙っているのも不自然、さりとてここにいつまでいるわけにもいかない。

「それで、今日はお寺に何の用?」

「昨日は午後だったから、今日は午前中の空を見たくて」

 趣向の向くものがあると言い訳もさらりと出るのだな、と自分の口のうまさに深空は他人事のように感心する。

「そんなに違うものなの?」

「高度によっては空気の流れが違うし、ここは海のすぐ側だから、そういうこともあるかもって」

「ふーん」

 勿論口から出任せだ。実際には、大気は常に流れ続け千変万化の空は一度たりと同じ顔を見せない。だからこそいつも空を見上げるのだし、その瞬間を切り取って写真に収め続けるのだ。

 紗鈴が上を見上げた。つられて深空も空を見る。青々と空はどこまでも抜けるように高く深く、白々と雲はひと時も留まらずに流れ、海の向こうには雲塊がゆるゆると、すぐ上では解けたような薄絹がさらさらと、風の形をしてどこかへと去っていく。水と気圧の協奏曲は決して終わらない楽譜のように空を彩り駆け抜ける。

 ひょう、と風が通り抜けた。地上を流れる風を身に受けて2人は頭を降ろす。その目がぶつかって、どちらからともなく笑い出していた。石の階段の上、少女2人の笑い声が空まで響き渡るように広がって行く。

「ああ、ごめんなさい。おかしかったんじゃなくて、何か笑いたくなって」

 紗鈴が目に涙を浮かべながら言う。

「笑ったのはお互い様でしょ。それに、そういうことはよくあるって」

 目が合えば自然と口が笑みの形になった。

「ねえ深空、今日暇?」

 紗鈴が誘う。

「暇、というか用事はないけど」

「町の案内するわ。どう?」

「じゃあ、お願いしようかな」

 昨日の時点で適当に見回っていたが、案内があるのと無いのとは大違いだろう。どんな場所があるのかと深空は楽しみになった。

 支度するから、と紗鈴が家に戻って準備をしている間、深空はまた森に頭を突っ込んでいた。この先にあるのかどうか、まずそこから疑った方がいいのかもしれない。余所者をからかったということも考えられる──最初に考えるべきことだ。だが、深空には砂浜の少年の言葉は嘘をついているようには思えなかったし、仮に彼が俳優顔負けの演技者でも騙されていいかと思っていた。

 道を隠す理由──余所者にだけ。村の秘密とか、伝統とか、慣習とか、そういったものがあることが面白いのだ。それを体験できるなら少しくらい騙されてもいい、と(かといって身の危険があるのは嫌だが)。

 そろそろか、と深空は鳥居へと首を上げて紗鈴を待つ。その部分だけ切り取られた空は、どこか別の世界に繋がる門のよう。昔の人はそんなことを思って鳥居を作ったのだろうか。ひょっこりと顔を出した紗鈴はとてもそんなありがたい存在には思えないけれど、と深空は心の中で思う。頭に乗った麦わら帽子からして腕白小僧と言った風情で、もしくは珍しい動物といった印象だ。

 彼女は深空の隣まで段飛ばしで降りてくる。

「どこ行きたい……って言っても分からないよね。適当に回るのでいい?」

「いいよ」

 山を降りていく。蝉が合唱する木々の下を通り、風が上がっていく陽の当たる坂を下る。この町はどう、いい町だよ空が綺麗、それ以外は、えーっと……。適当な会話をしていると、道が開けた。陽光が燦々と注ぐ場所は、やはり昼日中だと光がのしかかってくるように熱い。だが、木々がそれを隠している場所もある。

「あのベンチ、何なの?」

「書いてあるじゃん休憩用。お父さんとお母さんが作ったって」

「へえ」

 そういえば、あのお寺にいたのは紗鈴と祖父だけだったな、と深空は思う。

「お寺に来る人はお年寄りが多いからねー、ああいうのがあると便利だって。評判いいんだよ。若い人はむしろ使いたくないだろうけど」

「……体力無いって思われたくない、意地?」

「そういうこと」

 山を降りていく。さあっと冷たい風が吹いて、深空は気になっていたことを思い出す。

「この近くに川とかあるの?」

「あるよー。でも山の中だし行かないでね。捜索隊出す羽目になるから」

 そう言う紗鈴の顔が真剣なもので、深空は返しに困ってしまう。

「分かった。山の中には行かないよ」

 もしかすると神社もそういう危険があるのか、いやいや神社だぞ道はきちんとあるはず。神社への道はそう簡単に諦められない。少しの切っ掛けがあれば深空の脳内には神社に繋がる思考が生み出される。まるで取り憑かれたように好奇心が疼く様子は、火中の虫を捕まえようと飛び込む猫のように危なっかしい印象すら生み出す。

 しかし、深空本人がその様子を見せないので外部には伝わらず。よって、紗鈴もとりたてて怪しむことはない。

 町へと降りた2人は道を歩く。太陽を真上に頂いた平日の炎天下、道を行くものは虫ですら見かけない。時折帽子をうちわ代わりに扇ぐ紗鈴は早くもクーラー恋しさに溶けそうな顔で汗をかいている。

「まずは涼しいところ行きたいね……市場の中なら、この時間なら人も少ないか」

 町を降りる道を選んだ紗鈴はさっさと歩き出した。とはいっても後を追う深空が追い抜けるほどの足取りだ。

 しかし、道の選択は深空が知らないものばかり。昨日お寺からの帰り道では少し迷ったし関係の無い道にも入っていた。今日はそのどれとも違って、真っ直ぐに海へと下りていく感覚がある。流石は地元民と感心する。

 紗鈴の先導でものの十数分で海に出た。最初の交差点と信号、町の入り口に突き当たる。キラキラと海面に反射する光が眩しく、その向こうをのったりと進む雲塊は雄大。海に出向く船は、しかし意外なほどに小さく見える。

「市場は分かる? あの建物。海の側の、白いの」

「あの端のね。……昨日は暗かったからよく分からなかったけど、あんなに大きかったんだ」

「昨日?」

「ん、昨日、一瞬だけ入ったから」

 潮風が鼻をくすぐる。生き物の生と死が積み重ねられてできた匂いだ。青く広がる水の下には幾億幾兆もの生命が蠢いている。そう思うと、凪の海面の方が異様に感じてくる。まるで蓋だ。空から海の中を隠す天蓋。果たして誰に見せないようにしているのか。

「こっちこっち」

 海の方に目をやって動かない深空の手を紗鈴が引いた。ひょいっとバランスを崩しながらも深空はついていく。身体を捻って、その拍子に目が山を見た。

「あれ──」

 昨日は何かの建物にしか見えていなかったが、今ならお寺だと分かる。緑を押し分けて鳥居と本堂が頭を出しているのだ。だが、それだけではない。さらに上、降ろし通りの方に近づいて、緑に混じって赤い色がちらりと光った──ような気がした。

「どしたの?」

 あれこそ神社か、と深空はどことなく見当がついた。根拠も確証も無い。だが、人工物があると判断する分には充分だ。だから紗鈴には言わない。代わりに、

「急に引っ張らないでよ」

「ごめんごめん。でも動きそうになかったからさ」

「言ってくれればいいのに」

「そう? 空見てるとずっと止まったままかと思ったんだけど」

 否定できない深空である。

 ここは素直に従おう、と歩き始めた彼女の後について行く。開放されている入り口からは既に人の声が聞こえてくる。

 昼間の場内は朝とはまた違う熱気の中にあった。魚介が傷まないよう空気は冷やされているのに、人が出す熱がビシビシと伝わってくる。

 何といっても品物が違う。朝は水揚げされたばかりの魚介類が多く素のままの魚が並んでいたが、今は身を開いたものや、鮮魚でも片手で持てるくらいの大きさの魚が多い。とはいえ鮮魚は店頭に並んでいてもパッケ詰めされていない生のままだけど。

 進んでいくと、通路を適当に歩く2人、というよりも紗鈴に声がかけられる。

「久しぶりに山から下りてきたのかい」

「やだなあ野生動物みたいじゃない」

「食べるもの無くなった? 魚持ってく?」

「大丈夫だよ、今度買いに来るし、タダで持ってったのバレたらじーさんに怒られる」

「そっちの子は昨日来たって子かい?」

「そそ。この町案内してるの」

「こンなひなびた町なんざ楽しいもンねえだろ。紗鈴ちゃんだって一日中ネットだかゲームだかやってんだろ?」

「そんなこと無いです。海も空も綺麗ですし食べ物も美味しいですし……」

「ほぉら。そんなの田舎に行けばどこでもあるよ。ま、ここの魚だきゃあ格別だけどな」

 様々な声が投げかけられるが、みんな紗鈴には親し気に声をかけている。

「愛されてるんだね」

「私じゃなくてじーさんだよ。一応は住職だし年も食ってるし。んで、孫娘の私だから」

「マスコット?」

「……否定できないねー」

 きひひと笑う。

 その隣にいる深空も年若い女性だからか好奇の目は親し気で、嫌悪や排他的なものは感じられない。

 歩いているうちに、市場から直売所のような場所へと入り込む。中年の女性が居並ぶ中を押しのけ切り開くように入っていくと商品が見えてくる。

「これ、昨日食べたでしょ」

 紗鈴が指さしたのは赤文字で大きく磯漬けと書かれた薄暗い緑色のわかめが詰まったパック。

「えっと……どうだったっけ」

 そう言われても、深空の昨夜の記憶は蒼夜の料理とお酒しか残っていない。あとは夜の浜辺の少年と──

「あー、あれだけ酔ってたら気づかないかー。口もガードも硬いし大変だったんだよ」

「ちょっと待って。何したの」

「何もできなかったよ。だから安心していいよ」

 知らないところで危険があったとは。安心できる要素が何もない、と深空は彼女の前でアルコールは飲まないことを深く心に刻む。どうしようかなーと言いながら商品を見ている紗鈴の姿を見ていると危機感が高まるばかりだが。

「何か買わない?」

「うーん……こういうのはいいかな」

 加工品よりもお店に入って何かを食べて、とやる方が深空は好きだ。それに紗鈴が見ているのはどう見てもお酒のツマミばかりだったし。

 直売所は狭くふらふらと歩く隙間もない。ふと顔を上げると窓の外に海が見えた。深空の目には波に揺れる船と、船体に止まる鳥が見える。大きな鳥だ。人が来て、翼を広げてぱっと飛んで行く姿は何か晴れ晴れしい。

「どこ見てるのー。ほら、行くよ」

 買い物を終えた紗鈴が深空の腕を引っ張って直売所から連れ出していく。入った方では無く直売所の出入口から出ると、正面は海だった。

 熱気に包まれる。一瞬にして湿度が倍以上になって、苦悶の表情を浮かべるように毛穴が開いていく。噴き出した汗をさらうように風が吹いた。深空の身体が幾分かマシになる。しかし紗鈴は最初から気にしていないようで、さっぱりとした顔で海を見ている。

「いやー、たまには潮風も浴びないとね。山の空気もいいんだけど、この生臭いじめっとした風じゃないと生きた心地がしないっていうか、物足りないっていうか」

「それ、変な薬でもやってない?」

「ないない。山の中も獣とか植物とかで臭いに包まれてるけど、海のはもっとこう、押し寄せてくるっていうか、吹き抜けていくっていうか。サウナと温泉の違い的な?」

 そう言われても深空には全く分からない。ただ、海からの風が気持ちいいのは確かだ。ひゅうひゅうと過ぎていく細い風、ごおうと押し付ける塊のような風、柔らかくそよぐ風、どれも海が生んだ旋律である。それを身体で感じるのは心地いい。

「ところで訊きたいことがあるんだけど」

「なに?」

 深空は港の隣、使われていない船着き場か港のような場所を指す。放置されているわけでもなく、かといって何かに使うとしても用途も不明な空間。

「あそこ、どうして閉まってるの」

 深空の質問に、はたして紗鈴は変わった様子もなくさらりと答える。

「大きな船が入る用の港だけどほとんど使わないね。あ、でも祭の時は、あそこから降ろし通りをぐっと登っていくんだ。ほら、ちょっと来てみて」

 市場の建物をまわって閉じられた港の方へ。すると市場の裏側に、通りまでの細い道ができている。そこを抜ければ海沿いの道路に出る。

「ほら、一直線に繋がってるでしょ」

 確かに通りを延長すれば閉じられた港にぶつかる。それは町の構造からあつらえたような造りだ。そして、この町にそういう構造が必要だったのは知っている中では一つ。鉱山だ。それに慰霊碑もあった。ここから導けるものは、と想像を巡らした深空は答え合わせに入る。

「降ろし通りって何を降ろしてたの?」

「ああ、鉱山があったって話はしたでしょ。山から出たもの──金を港に降ろす通り、だから降ろし通りなんじゃないの」

「じゃあ、昔はそこの港を使ってたってこと」

「そだね」

「じゃあ祭も関係ある?」

「じーさんから話は聞いてるし、まあ分かるかあ。うん、ここは採掘した金を船に乗せて運ぶ場所。でも事故があったこともあって、縁起が悪いからって使われてないの。あまりこういう話は外の人にはしないもんだから私が言ったってことは秘密にね」

「それはいいけど」

 実際、深空の推測も当たっているのだ。下手に別の場所で放言してしまうよりもここで彼女の口から知った方が無駄な軋轢も生まれなくて済んでいる。

「それで事故があった場所を祭の終わりにしてるのね」

 納得の表情で頷いた深空に、微妙な顔になった紗鈴が訂正を入れた。

「あー、ちゃうちゃう。海から山までよ」

「え? 鉱山から港なら逆じゃないの?」

「土着の祭と混ざってるって言ってたでしょ。その名残じゃない?」

 そこのところは彼女の祖父が知っているだろうかと、深空は今度会ったら訊いてみようと心に留めておく。大して意味は無いのかもしれないが、道の最初と最後が逆になっているのはかなり大きなことだ、と思う。この土地の死生観は分からない。だが、昇天とか地獄とか生死のイメージに上下の概念は大きく関わっているのだ。

(もしくは慰霊碑があるお寺とか鉱山跡、もしくは神社に関係があったり?)

 町の上の方にある施設が何らかの形で祭と関わっているのは、お寺は確かだ。ただし儀式的なことかもしれなくて、場所という意味は無いのかもしれない。それに、そういった事々を素直に答えてくれるかは分からない。深い意味があったとしても神社と同じようにはぐらかされる可能性の方が高い。

 諸々の事情を鑑みる、という雑な推測をして深空は話を逸らした。

「お祭ってどんなことをするの? 海から山まで歩くだけ?」

「そんな単純なことじゃないよ。出店もあるし、提灯吊るしたりで準備も大掛かりだし。それに歩くのも結構手順があって大変なんだ。じーさんと若衆が変な恰好して並んで、儀式をしながらゆっくり降ろし通りを上がってくの」

 大振りに手を動かし表現する紗鈴の姿が小動物のように見えて深空は笑いを堪える。そんなことは知らず紗鈴はテンションを変えずに説明を続ける。

「祭は基本的に降ろし通りとひとつ入った通りくらいだけなんだけど、この町の半分以上の人は来るからね、それは盛大になるのよ。出店も一杯並んでさ、組合が管理してるからボッタくりやヤーさんみたいなのはいないし。ってかこんな田舎にそんなものないし」

「その組合って?」

「組合は組合……って言っても分からないよね。商店街の寄合みたいな感じ。分かる?」

「んーギルドみたいなもの?」

「あっはは、そこまで厳しくないと思うけど、そんな感じ。商業ギルドだね」

 どこかロクなものではない雰囲気を感じた深空だが、深入りする空気でもなく話を変える。

「その儀式っていうのはどんなものなの?」

「えー……説明するの面倒くさいなあ。うーん、簡単に言うとお祈りかな。魂を拾い上げて彼らが安寧の中にいられますように、って祈るの。上る最中にもいくつか手順があってね、別のものを連れてきてないか祓って、魂に付いた穢れを祓って、空の上に辿り着けるように祈るの。──まあ恒例の儀式だし、何十年もやってるから例え本物の魂があったとしても全部祓い終わってると思うんだけどね」

 最後で色々と台無しである。それでも大まかには伝わった。

「それで降ろし通りの一番上……行き止まりまで行くんだよね」

「そ。ってか一番上まで行ったんだ」

「山に登れないかと思って」

「あー、それは無理かな。鉱山の跡が残ってるから変なところに穴が開いてることもあるし、落盤でも起きたら大変だからね。特に夏は雨が多いから、そこに土砂崩れまで加わったらもう無理っすよー。お寺までの道はしっかり造ってあるからあそこだけは定期的に整備すればいいんだけど」

「他はダメ、と」

「そゆこと。山狩りとかしたくないから気を付けてね」

 遭難したとして、救助には一体いくらかかるのか。思い浮かべただけで身震いがする深空である。

 車両の往来が無いことを確認し、2人は道路を渡る。

「祭の日はここも一時的だけど封鎖するんだ」

「随分大がかりだね」

「それくらい気合入ってるからね。──ほら、海に顔を向けてるお店あるじゃない、あそこからずっと露店が並ぶし、人がいっぱいになるから。車が通ると危ないし」

 そう言う紗鈴の気合が入っている場所は胃腸らしい。

「じゃあ降ろし通りの店は?」

「お店を出すところもあれば閉めてるところもある、かな。お店を出すのも一本奥に入った道だし。降ろし通りはじーさんたちが歩くために空けておかなきゃいけないしね」

「紗鈴は歩かないの」

「まだまだだよ。じーさんが歩けるうちは出番なんて来ない来ない。何かするにしても儀式の手伝いくらいだから、当日は結構遊べるんだ。──そうだ。一緒にお祭回ろうよ。祭の日まではいるんでしょ?」

「うん、いいよ」

「やった! じゃあ着物貸すよ!」

「え、そんなにしなくても」

「似合うと思うの! ね、ちょっと見せてみると思って着てみて! 何なら試しに前の日くらいにお寺に来てみない? 着付けの練習もいるだろうしさ!」

 鼻息荒く紗鈴が深空の肩を掴まんばかりの勢いで振り返った。目は爛々と輝き口からはよだれを垂らさんばかりの相貌である。

「えっと……じゃあ、お言葉に甘えて……」

 勢いに押されて深空は頷いてしまう。OKを貰った紗鈴はエンジン音にも負けないガッツポーズを決めて全身が喜びの波動に包まれているようだ。深空が熱気を感じたのは、きっと車の排気ガスだけではない。

「それじゃ案内に戻るね。こっちのデカい建物は町の役場で……」

 ツヤツヤとした顔でテンション高く紗鈴は動き始めた。深空を置いてけぼりにするような勢いである。だが、深空もまあいいかと付いて行く。当人の挙動は不審だが、何だかんだでこういう雰囲気は嫌いではない。元気の無い案内よりはよっぽどマシである。

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