1日目-6-
買い物を済ませた
「上がってちょっと待ってて。いま夕食の準備してるから」
家の奥から美味しい匂いが漂ってくる。まさかこの男、料理ができるのか。深空が軽く絶句してると玄関に立っているままの彼女を不思議がって蒼夜が首を傾げる。
「ほら、どうぞ。入って入って」
促されて足を動かした深空は、カドの書斎を通り小部屋のように机が置いてある広い廊下を抜けて居間に通された。十畳ほどの空間には中央に長いコタツ机が布団無しで置かれ、座布団がいくつも並んでいる。
匂いの源は部屋の奥に開いた通路の向こうからだ。引き戸が開いていて、その先は台所になっているらしい。たまらず深空はそのまま部屋を通り過ぎる蒼夜の後を追った。
台所は、台所と呼ぶのが申し訳ないほどの空間だった。例えて言うなら、現代風の土間かダイニングキッチンか。
広々とした空間は元は正方形に近い形だったのだろう。しかし居間の裏側に戸棚と冷蔵庫が置かれ、引き戸から台所までを短い通路のようにしている。戸棚の前には横に長いテーブル。出来上がった料理や調味料、箸やまだ空のお皿が置いてある。一番奥、裏庭に接した壁にコンロや流しといった調理スペースが設置されている。
蒼夜はそのスペースを行ったり来たりしていた。包丁を握ったかと思えば野菜と魚をまとめて鍋にぶちこみ隣のコンロの火を調整と味見、調味料で味を調えてさっと火から降ろし今度は足元に準備してあったフライパンを置く。油を引いたら輪切りにした長芋をばら撒いて軽く塩を振り、中火にしたと思ったら魚を捌いている。
「手慣れてる……」
「育ててくれた人から仕込まれたんだ」
触れちゃいけない部分なんだろうか、と逡巡するが深空はやめておいた。高校に通っていなかったことといい親ではなく育ててくれた人といった言葉といい、気軽に訊ねられない雰囲気が漂っている。本人はぼんやりした顔で答えてくれるかもしれないけど、深空にはそれが一番怖かった。
そして、見ているだけということもできなかった。太陽がオレンジ色になろうとして家に入る中、深空は座っていてはおれんと蒼夜の手伝いを申し出る。
「何かやることないですか!」
「お客さまは座ってていいんだよ」
「人を働かせてるのは木が進まないというか、ズルしてるというか、落ち着かないんです」
「うーんと、じゃあその机のものをあっちに並べちゃって。箸とかは適当でいいよ。ぼくの分は自分で確保してるし、至は場所が気に入らなければ自分で動かすし」
ということは、最低3人。だけど箸は十膳はある。数えると十二膳。そんなに人が来るのか、人が来てもいいように多めにあるのか。分からないから箸立てごと持っていく。
あっという間にテーブルの上のものはコタツ机に移送されていくが、運ぶ間にも料理はテーブルを埋めていく。いずれテーブルの上から溢れること必至の量だったし、深空がコタツ机にも乗らないと危惧したほどでもある。
「冷蔵庫の中のも出しちゃって」
既に作ってあった料理だけでも充分なはずなのにまだあるという。言われた通り冷蔵庫を開けると、深空が思ってもみなかったほどのお皿が並んでいた。そもそも冷蔵庫自体がデカい。一人暮らしに必要な容量の、軽く倍はある。
タッパやラップがかかっているものを除いて取り出した。多くは刺身だが、サラダやお新香といった野菜類、イカゲソとワタの和え物といった酒の肴も用意している。本当に料理ができるんだなと思った。温まってしまったらいけない、と、それらを一部を残して冷蔵庫から出していく。
それでもパズルのように皿を並べ、コンロの上の鍋が2つになった頃には全ての料理がコタツ机に勢揃いしていた。作りも作ったり、20を超すお皿の数々である。箸は置くスペースが取れなかったので箸立てのままでカドに置いてある。
「遠海さん、これ、どれだけの人が来るんですか?」
「分からない……けど、至が人を呼ぶことは多いから」
何人来る想定で作ったのだろうか。深空はそれも訊こうとしたが、チャイムが鳴って機会を逸した。
「よう、来てやったぞ」
家人も待たず偉そうに
「あーれ高遠さんいたのー?」
「俺らはタダで酒のツマミが食えるからって話じゃなかったのか?」
「嬢ちゃんの歓迎会つってただろ」
三者三様で入ってきたのは深空が朝出会った漁師たち。どうして、と彼女が思う間もなく勝手に箸を取りバッグの中から出した缶ビールを開けて料理をつまんでいく。
「これなら食堂行くよりいいんじゃねえのか?」
「おいおいわたしの箸は使ってないだろうな?」
「宗さんに言うよー?」
「俺は言ってねえからな!」
至が奥の窓際に座り、漁師たち3人が彼を囲むように腰を下ろす。所在なげな深空は台所に背を向ける壁に座った。
「どうしてあの人たちが……」
「お前の知り合いだろう? 市場で見つけたから連れてきたのだよ」
あっという間に空き缶が3つ。至は自分専用と決めている箸を確保し、台所からおちょこを持ってこさせる。
「お酒出しますか?」
蒼夜が台所から戻ってくる。
「高遠さんは動かなくていいよ。それに、この家に酒は無いし」
じゃあどうして至は、と思ったらまたチャイムが鳴る。座ろうとしていた蒼夜がまた立ち上がって出ていく。
「もう飲んでいるんですか」
入ってきたのは
「これは至さんに、……こっちは蒼夜さんに」
至は右手の包みを受け取ってすぐに中身を出す。保冷剤を残して出てきたのは一升瓶だ。
「これを待っていたよ」
至はとっとと蓋を開けて中身をおちょこに注ぐ。薄い琥珀の色をした液体が芳醇な米の香りとともに揺れる。すっと杯を傾けて液体を口に注ぐ。こくりと喉が鳴って、ふぅっと吐息が漏れた。
「うむ、旨い」
杯の半分を飲み、さらに半分を飲む。箸を手に持ち換えて最初に取ったのはイカの刺身。ワタと醤油を絡めて食べていく。つるりと飲み込むように口の中に消えて、噛み応えのある弾力を歯で楽しんでいる。
「いただきます」
蒼夜も受け取った荷物を台所に移して居間に戻り、台所への引き戸のすぐ側の座布団に座って食事を始める。両の手の平を合わせ軽くお辞儀をしてから箸を取り、まずは野菜からとサラダに手を伸ばした。
紗鈴も荷物を両方渡してすぐに食事を始めていた。至の反対側、隣の部屋を仕切る襖を背にもたれに、缶ビールを開けてぐっと飲み干しつつ息を吐く間もなくあじのなめろうをすくっている。
「おや、手が止まっているではないか。ほら飲みたまえ。蒼夜も一杯ならいいだろう」
至が立ち上がった。余分に持ってきていたおちょこに日本酒を注ぎ、押し付けるように深空に渡す。断り切れるものでもなく深空は口をつける。琥珀の液体が舌に触れた瞬間、強烈な甘さが口全体に広がる。まるで鼻が口に直接接続されたかのように香りが広がって行く。喉を通ればふわりとして消えてしまうが、最後に辛さを残していく。
口の中が残り香で溢れ、深空は近くにあった皿から適当に箸をつけた。オクラと長芋の細切りに梅と海苔で風味をつけたもの、ちりめんじゃこと大根おろしを乗せた玉子焼き、ごまをまぶしたきんぴらごぼう、おかかがかかったおひたし。口の中が洗われていく。
「こっちも美味しいよ」
蒼夜が深空の前に皿を動かす。おろし生姜が乗ったアジの刺身だ。あまり脂がのっていないがその分すっきりとした味わいが楽しめる。おちょこに残っていた日本酒を飲むと、芳醇さがまた口を潤していく。
「美味しいです」
「それはよかった」
そう言う蒼夜の顔も楽しそうだった。口元にはうっすらと微笑が浮かんでいる。
(なんだ……ちゃんと笑えるじゃん)
あの物置みたいな店にいた時には見られなかった表情に、なんだか深空も嬉しくなっていく。
ふ、と気を抜いた。一日中動いて身体が疲れていたせいか、酔いが回るのが早い気がする。まだ眠っちゃいけないぞ、と思い箸を動かす──手が別の手とぶつかった。
「あ、ごめんなさい!」
「あら」
ぶつかった相手である紗鈴はうっすらと笑った。軽く手を引いてから別の方向に手をやる深空と対照的に、面白そうな顔で旅人を見つめる。
「ねえ、高遠さん」
「なんでしょうか、──えっと、」
「紗鈴でいいわよ。私も深空って呼んでいい?」
「はい。それで、なんですか」
「──飲まないのかしら~?」
「ひゃぅっ!」
深空の背に冷たいものが触れた。深空の目が覚める。身体が硬くなり、その機を逃さずそれはうにうにと動きながら服の中に侵入──
「この服どうなってんのよ」
できずに終わった。
「何ですか!」
深空が叫んだのも無理はない。ビールを持った手が深空の背中をくすぐっていたのだ。その持ち主は顔を赤くしてはしゃいでいる。
「いいねえその意気その意気! ほら飲んで!」
突然の声に顔を上げた4人も、悪戯だと分かると囃し立てる。
「そうだそうだ飲め飲め!」
「いーいお酒だよこれー」
「こっちにも刺身を寄越せ」
「そうだぞ。歓迎会なのだから大いに歓迎されねばというもの。もっと歓迎されてやれ」
1人だけアルコールが入っていない蒼夜は黙々と料理に手を伸ばし、酔っ払いとは関わり合いになりたくないと自分だけの世界を作っている。その中から出る気配もない。
「ほらほら」
「お前にやるのは少し惜しいがこれもいいぞ」
興奮したようにビールを開ける紗鈴とあくまで冷静に日本酒を強要してくる至と、どちらにも耐えかねた深空はぐっと腹を決めた。
まずはビールを左手で受け取り一気に半分ほど空ける。その間に右手は箸を使って味の濃いもの──イカゲソや焼きサバを空いた皿に集め、口の中のビールの苦味を胃の中へ押し流す。残りのビールも同じようにする。その間、至はおちょこを持ちながら「わたしの方が先じゃないかね」と紗鈴に文句を言っている。
すっと蒼夜が立ち上がった。空いた皿を集め料理が残っている皿を一点から離し、机の上に空きを作る。皿を持って台所へ行った蒼夜は、今度は深い大皿を抱えてやってきた。どん、と空いた場所に置かれたそれは、醤油ベースのつゆで白い根菜と白身魚を茶色に染め上げた匂いが立ち上る煮物──ブリ大根だった。
「おお、メインの登場だ!」
飢えた獣が獲物に喰らいつくように五組みの箸が殺到した。汁が飛び散るが誰も気にしない。各々近くの空き皿を自分の持ち皿にして手元にキープし、至に至っては杯を押し付けながら熱い大根を冷ましつつ食べるという器用なことをしている。
手が空いた深空は日本酒を受け取って、やんややんやの掛け声の中、今度は一気に飲み干した。ばんばんと紗鈴が彼女の背中を叩く。熱い息を吐いて大根を口に入れる。口の中で崩れる大根を、味がよく染みていると思いながら飲むように喉へ送る。今度は直三と威男が焼酎に氷を浮かべて持ってくる。ぐっと半分ほど飲んでこれはダメだと舌を外気で冷やしながらブリを食べ熱と脂で口の中を上書きする。
「ねえねえ何でこの町に来たの?」
「適当に海沿いの道路を走ってたら着いただけです……」
深空の目はまだ前を見ていたが、口はへにゃりとした笑みの形で固定され、声にも力が入っていなかった。杯が空けば何かしらのアルコールを注がれ、その倍以上のアルコールが入っている当人たちは騒ぐだけ。合間合間につまむ料理で腹を満たし酒を飲む速度を抑え、時折手元に置いてある水を飲んでアルコール濃度を薄め、何を言っても笑うだけの大人には適当な返事で相手して。最後の手段として物静かに食事をしている青年に手を伸ばしたが、ふらりと視界が揺らいで後ろに倒れていた。
深空の意識が残ってたのはそこまでだった。
***
町の夜は早い。人々は20時を過ぎれば順次布団に入り、翌朝の漁に向けて休息を取る。早ければ朝3時には動き出し、海の上で戦うためだ。
21時にして既に遠海蒼夜の家は主と居候の2人だけになっている。漁師たちは早いうちに引き上げ、至は足元が覚束ない紗鈴を送ると言って出て行った。
深空が倒れてからも騒ぎを止めなかった5人は当然の如く深空を放置していたし、彼らに巻き込まれまいと気配を消していた蒼夜も彼女を動かすことができなかった。結局、最後まで起きていた蒼夜と至で深空を布団の上に運んだのだ。
蒼夜は片づけをしてすぐに布団に入った。珍しく酒を飲んで酔いが回っていたし、濃い一日に頭が熱にうかされたように熱かった。
(でも、楽しい日だった)
ほんのりとした笑みを口に浮かべ、熟睡の淵を落ちていった。
そして、寝落ちた深空は布団の上で目を覚ました。誰かが自分を運んでくれたらしいと考えると少し恥ずかしい。途中までの記憶は大体覚えているが、倒れた時から意識が途切れている。
(仕方ないか……)
身体を起こすと頭痛がした。飲みすぎだ。顔をしかめる。
喉が乾いた、と立ち上がって台所に行く。もう酔いは醒めていて、水を飲むと頭痛も少しは和らぐようだ。それでも、目が冴えてしまったこともあってまた眠れそうにない。
こうなれば散歩だ、と深空は即座に決める。窓から外を見れば晴れ。月は下弦よりも細く、その代わり星の明かりが満点の空に広がっている。
深空は普段着に着替えて家を出た(荷物は枕元に置いてあった)。誰かが起きてくる気配は無い。知らない土地で1人きりの散歩。少し心細いけど冒険心が湧き上がる。
外は意外にも明るかった。数メートルおきに常夜灯が佇んでいて、星が見えるほどの薄暗い灯りで夜を照らしている。澄んだ大気は星々の明かりだけで蒼く暗く、目が鳴れてくれば人工の明かりが無くとも問題ない。月は眼を閉じようとしていて、数日で夜は彼の視線を忘れるだろう。
深空は町を降りていく。夜の海を見たくなった。月と星を反射する海面はどれほど綺麗だろうか。真っすぐ前には暗く揺蕩う闇ともつかない海が夜から溢れ出ている。それを切り裂いて光が走った。灯台のライトだ。船を誘導し迷わないようにしている。だけど、深空は無粋だなと思った。
護岸壁まで来た。昼と同じく上に乗る。壁の上から見た海は、光の少ない砂浜に満ちる闇と同化して境界線が分からない。近寄ると危険かな、と深空は思うが、海を見に来たのだ。もっと近寄ろうと決めた。
しゃああと風が吹いた。木が、葉が揺れる。草むらから虫の合唱が響きだす。蝉の声より高く儚げで、夏の夜らしい風情に満ちている。
深空は壁の切れ目まで歩いていき砂浜に降りた。さりさりと砂が波に擦れる音が心地よい。
その中に異音が混じった。ざざっ、とノイズが走ったような砂を踏む音。深空ではない。他に誰かがいる。
立ち止まった深空は周囲の音を聞く。ざく……ざく……ざ……、止まる。
スキャホをカメラモードで起動し夜間撮影モードに切り替えた。頭に装着して音がした方を見ていって……
「ひいっ!」
「え、あ、わっ!?」
突然の大光量が深空の目を焼いた。同時に謎の人物も人がいると思っていなかったのか悲鳴を上げる。その拍子につまづいたようで、どさりと重い音がした。
スキャホを装着していた片目をつぶってなんとか深空は視界を確保する。音のした方向に向かってゆっくりと目をやる。闇の中に動く気配。焦っているのか中々立ち上がれないようで、砂を掻き分ける音が続く。
再び夜に目が慣れてきた深空は目を開く。スキャホは無事だ。夜間撮影モードはそのまま。そこに倒れている人の姿がはっきりと見えた。
「大丈夫?」
軽く腰を落とし上半身を曲げ、手を伸ばす。意外な言葉にきょとんとしたのか、砂を掻く音が止まった。
「いえ……大丈夫です」
その声が若いことに深空は驚いた。落ち着いたところのある高い声だが、少年のものだ。しかしなんとなく納得した。こんな時間に海にいるのは若者──それも十代だと相場が決まっている。そして、大体の場合は事情がある。
驚きの連続で逆に落ち着いたのか、少年はあっさりと立ち上がった。手についた砂を払い落とす。
「あなたは、どうしてここに?」
「散歩。そっちこそどうして」
「散歩、ですかね。眠れなくて」
じっと互いを探るように見つめ合う──少年の方から目を逸らす。少年は海を見て、
「お姉さん、この町に旅に来た人でしょう」
「やっぱり噂になってるの?」
「父が話していたんです。朝、食堂で知らない若い女性を見かけたって」
そう言うからには少年には暗闇でも深空の姿が見えているようだ。もしくは声で判断したのか。
「──一人旅、ですよね」
「そうだけど」
その答えから、深空には少年が悩みを抱えていることを確信する。シチュエーション的にそんな気がしていた、というのが正確だが。
「訊きたいことでもあれば答えるよ。散歩といっても眠れなくなっただけだし。──ほら、この町だと話しづらいことでも」
深空は少年が首を曲げた方に回り込んで顔を見る。今度は薄っすらと闇に浮かぶ顔を見つめ、そんな少女の姿にしばらく沈黙していたが、少年は喋り出した。
「僕は
生粋の地元民。しかし、地方ではそういう人はいくらでもいるだろう。
「流浪の旅人高遠深空。東京に住んでるけどしょっちゅう旅をしているから色んな場所に行ってます」
深空も少しおどけたように自己紹介を返す。その様子に緊張がほぐれたのか、訥々と、だけど躊躇を残して話し始めた。
「僕の母は、外の人です。どうやって知り合ったとか馴れ初めとかは知らないです。ただ、結婚したことは事実です。僕も産まれましたしね。でも、僕が7歳の時にいなくなりました。こんな町にいられない、あなたとは暮らせない、息子は好きにして、って。僕と父は捨てられたんですよ」
「そんなことを見ず知らずの人に喋って大丈夫なの?」
「誰でも知っていることですよ。こんな狭い町での縁事は一番お手頃な娯楽なんです。誰と誰がどんな雰囲気で、相手の人柄は、向こうの親族との関係は、って。商売敵の子供同士なんかだとお祭り騒ぎですよ」
背中に風が吹いた。灯は砂の上に腰を下ろす。深空はその隣に同じように座る。
「特に家族仲が悪かったとか、そんなことは無かったと思います。突然でした。離婚届と『我慢の限界』って書かれた紙だけ残して。僕はあの頃の記憶はあまり覚えてないんですけど、父からは愚痴で何度も聞かされましたよ。それで、最後に言うんです。──『あんな風になるな』って。
正直、成長すれば色んなものが見えてきますよ。馬鹿らしいって。未だに父を女に逃げられた可哀想な人、僕も可哀想な子供って話してくる人がいます。憐憫か嘲笑か『人に親切にする自分はいい人だ!』という自賛に浸るのか、まあ面倒くさいだけですけど。でも、きっと父は母がいることを当たり前に思っていたし、母も何も言わずに色々と溜め込んでいた。どっちもどっちだって」
「……それで、君はどっちのことも嫌いなの?」
「そうですね。いえ、好きじゃないって言った方が正しいですか。あの人たちから自由に──逃げ出したいというのが本音です。だけど、母には憧れていますよ。こんな場所から去っていけたのだから、あれは羨ましいです」
陳腐と言えば陳腐。誰でも抱く思いと言えばそれまで。だが、少年にとっては自分の世界を構成する重大な事案。微笑ましい気持ちになって深空は質問する。
「逃げるって、別の町とか?」
「はい。どうせなら都会に……東京にでも行ってみたいです」
「あそこもあそこで大変だけどねー……学生が言っても説得力無いかー……。というか何歳なの?」
「16歳、高校生です」
「この町から出たことないってことは通信高校?」
「はい。だけど、大学の講義も受講してますし、受験勉強だって進めてます」
「それ、お金かかるんじゃないの」
「バイトしてるから大丈夫です。最近はネット上だけでもバイト代がいい仕事あるんですよ。──高遠さんなら知ってますよね」
(おやおや)
てっきり親のお金を使って親から逃げようとしていると思っていた深空はこの少年に対しての評価を変えた。微笑ましいのは変わらないが、自分の力だけで外に出ようとしている努力家でもある。
「まあ知ってるかな。旅行するにもお金かかるし。──それで? 東京に出て、どうしたいの。母親でも探す?」
「何のためにですか。──でも、それ以上は考えてませんね。……好きなことだけして生きていければいいですけど……」
夜の海の遠くに目を向ける灯には、きっと闇以外の何かが見えているのだろう。灯台が投げかける光が周期的に海面を切り裂く。2人はしばらくそれを黙って見ていた。
沈黙を破ったのは灯だ。
「この町に来て、何をしたいんですか」
言外に、こんな場所に来なくても何でもできるんじゃないのかと含ませている。視覚の体験ならば仮想実質現実で可能だしバイクに乗るなら実際の道路を走らなくても遊技場でいい。事故の危険がある道を走り、何もない田舎に来て、都会の住人が一体何をするというのだ。
呆れているような少し非難が混じっているような雰囲気を察したが、深空はあまりはっきりとしたことは言わない。自分でも分かってないのかもしれない。
「特に決まってないよ。面白いものを見つけられればいいし、大抵の場合は見つかるから」
「そんなもの……答えになってないと思いますが」
「そうだね──何かあるというのなら、空かな」
「空、ですか? 見上げれば……」
「違うよ。どんな場所、どの時間、何かが少しでもズレれば空は形を変える。一つとして同じ空は存在しない。大気の流れ、海水の温度、太陽の黒点。全部が地球に影響を与えて空を作っている。だから、その瞬間だけは必ず1度しか訪れない。──うん、それを見たいだけなのかもね」
なんと雑で曖昧なもので、突き抜けた返答だろう。だけど、なぜか灯には否定できない。彼が求めているものもそれくらいに不確かなものかもしれないのだから。
「この町は面白いよ。海と山があるからいい景色も多いし海は空が綺麗に見えるし。あと、お寺もいいところだし──でも神社には行けないみたいなんだよね」
「神社ですか? 確かに道は厳しいかもですが、お寺にまで行けたのなら体力的には問題無いと思いますけど」
「道が悪いって言ってたけど」
「そんな筈は……そんなことがあったら噂になりますし」
「お寺の人が言ってたことだけど」
「むしろ人を呼んで道を直すことですよ。基本的に、そういう話は広がるものです。新聞や掲示板にも載るでしょうし。……するとおかしいな」
「じゃあ、行って確かめられないの?」
「それが最適解でしょう。でも、明日は僕は案内できないですね……場所を教えるだけで大丈夫ですか?」
「? どうして案内できないって?」
むしろ案内する気だったのか、と深空は少年の考えが少し分からなくなる。
「眠いからです。最近、昼夜を逆転しているので」
「逆転している? しちゃったじゃなくて?」
驚いた。自分で生活を逆転させているなんて。何故、疑問が深空の頭を埋める。
「単純な家庭環境ってやつです。父は僕に漁師を継いで欲しいんですけど、僕はやりたくない。でもそのままだと無理矢理船に乗せられるんで、夜は起きて朝には眠くなるようにしているんです。夜遅くまで起きていれば朝は体力も無いし眠いから、とてもじゃないけど船には乗せられない。そうやって抵抗しているんです」
聞いてみると微笑ましい理由だった。ただ、それが成功しているなら効果的なんだろう。
「明後日なら調整できますけど……場所を教えた方がよさそうですね」
深空から我慢できない雰囲気を感じたのだろう。暗闇の中、見えないと知りつつも深空は頷いた。
「道は簡単なんですよ。お寺へ行く途中の道に分岐があるんです。でも隠されている」
「隠されている?」
「そうとしか思えないんですけど、親から教えて貰えるんであまり気にしたこと無いですね。場所は少し注意したら分かります。階段を登る途中、左側の森に入る場所があるんです。そこだけ妙に手入れがされているので分かると思いますよ。大体の位置? うーん……確か下の方だったと思います。入れば一本道になっているので、道なりに行けば辿り着きます」
そこまで言われれば充分だ。頭の中にメモをして、深空は神社について訊いてみる。
「行ったことはあるの?」
「小さい頃に友人と遊んで、町のあちこちに行ったので。その時に。あまり覚えていないですけど」
「それでいいよ。詳しいこと話されたら楽しみが減るし」
「じゃあ何も言わないでおきます。他に知りたいことはありますか?」
深空から始まって、今度は灯の方から誘っている。2人とも、それを疑問に思わない。
「変な場所見つけたんだよね。新町で、お屋敷の壁の間に道があってさ。奥に行くための道だったけど、そこに空き地があって。使われてないけど何だったんだろうね」
「さあ……」
言葉を濁した灯だったが、ここが常夜灯の下でもあれば非常に驚いた彼の顔が見られただろう。
(偶然であの場所を見つけるだって……? 何だこの女……!)
そこは灯にとって秘密の場所だった。町の人でもほとんど知る人はいないだろうし、知っていても新町には行かない人ばかり。それをこの町に来たばかりの人が見つけるなんて──偶然と呼ぶにはあまりにもできすぎていると、柄にもないことを考えてしまうほど。
何も言わない灯に、知らないこともあるだろうと深空は話題を戻す。
「すっきりした?」
「まあ。それなりには」
心の内に秘めていたことを口に出せて灯は少しほっとしていた。誰かに話したいと思ってもネットに書き込むわけにはいかないし(一度書き込んでしまったら半永久的に残ってしまうのが嫌だった)、町の人──それが同級生でも──に話せば何かの拍子に変なことに繋がってしまうかもしれない。
話を聞いた深空も満足だった。こんな面白いシチュエーションを用意してくれた状況に感謝したいほどだった。当人の不幸には申し訳ないが、ある程度の闇が無いと話というのは面白くない。それを晴らす光があれば尚更だし、その光が当人の努力ならばなお良い。
夜の闇が地平線の向こうからの光に晴らされていく。2人の顔に近くの星の光が直接届いた。
何時間も話していたくせにようやく互いの顔を見た。
深空は驚いた。灯の顔は、想像を遥かに越えたものだった。すらりと通った鼻筋は薄い唇に続いている。憂うような細い目は長いまつ毛に囲まれてくっきりと浮き上がっている。逆三角形の顔は蒼夜ほど細くもなく、至ほど肉質でもなく。さらりと流れる髪を伸ばせば女性と言っても通じるほどで、化粧をしてしまえば類を見ない美少女になるだろう。
(男にしておくには勿体ない──)
灯も驚いていた。言葉の端々からは彼が知っている女性の枠を超えた感じはしていた。しかし実際に見てみると、短髪に鋭い目に顔のラインに、むしろ女性というより少年じみたものを感じさせる。そしてその身長。男子高校生の平均的な身長の灯と同じ高さに目線がある。
(男より女の子にモテそうだ──)
互いに考えていることは分からない。それでも互いの驚きは伝わった。だが、灯の驚きはすぐに別のものに移った。深空の顔、右半分上側を見て、
「それ! スキャナーフォン!」
「そうだけど……」
深空にとっては日常的に使用するし周囲の人も持っている当たり前のものだ。しかし灯にとっては違った。こんな田舎ではお目にかかれない先端機器。ネットで見てからずっと憧れの存在。型落ちのスマートフォンで我慢しているけど、実物を目の前にしたら止まれない。
「ちょっと触らせてくれませんか!? いや、お礼します! 何でもしますよ!」
「えーっと……」
自分の状況を話している時よりも熱が入りより深刻そうに見える。どうにも困ってしまった深空だが、簡単には首を縦に振らない。個人情報の塊、人の個体識別にまでなっている情報機器を軽々しく他人に扱わせるわけにはいかないのだ。
「少しだけでもいいです!」
そこまで言われては深空も断りづらい。それに、一部の機能をロックすれば他人が使っても問題ないようにはできるのだ。しかし、今ここで判断しろと言われてもできるものではない。
「──分かった分かった。じゃあ、明日。同じ時間──だとちょっと都合悪いかも。もう少し早いといいかな」
「時間なら調整できるし、夕方には起きてるし、いつ頃か分かればいいんですど」
「連絡するよ。──アドレスは?」
スキャナーフォンとアドレスを交換できると聞いて灯の顔がぱあっと明るくなる。スキャホを操作している姿を見て興奮しているところを見ると、ただのギークのように思えてならない。
「はい、読み取って」
「──できた。メッセージ送っていいですか?」
キラキラした目で訊いてくる灯に深空は苦笑を隠せない。
「いいよ」
灯が発信して深空が受け取る。それだけのことなのに、灯の興奮は上がっていく。深空が返信すると踊り出さんばかりにはしゃいでしまった。
「ありがとうございます! それで、僕は何をすればいいんですか!?」
苦笑したまま、あとで決めるから、と言って深空は帰ることにした。抜け出したことが気づかれて余計な心配をかけると面倒なことになりそうだ。笑顔で手を振る灯に手を振り返す。
(今日は寝坊かな)
港と市場が静かに動き始める頃、深空は居候先の家へ戻っていった。
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