1日目-5-

 蒼夜そうやが玄関に戻ってきた時、深空みそらは家の外を周って裏庭に出ていた。トイレから出ても中々蒼夜が戻ってこないので、外ならいいかと少しうろついていた。しかし、塀の中を通じて玄関の反対側に裏庭を見つけた時には少し呆れていた。これだけの広さがある家に住んでいるなんて。あの店も商売を考えていないようだったし趣味なのかもしれない。そして、実は親の残した財産を食い潰している下級高等遊民なのだ……

 適当な妄想にぐふふと笑う。

 裏庭は物置があるだけで雑草が少し伸びているくらいしか特徴がない。家屋に入れる扉はどこに繋がっているのか確かめたかったがさすがに不作法だ。面白いものは無いな、と玄関に戻ろうとした時、家屋に立てかけるように庭土から四角い石が飛び出ていることに気が付いた。

 ただ直方体に切られているだけの変哲もない石。何故か気になるそれをじっと見ていたが、玄関の扉が開く音がしたので戻る。戻った時には石のことなど忘れていた。

 蒼夜は裏庭の方から来た深空を咎めることなく言う。

「さてと、掃除はすぐじゃなくてもいい感じだったけど、どうする?」

「お寺か神社に案内してほしいんですが……いいですか?」

「大丈夫だよ。あと、水」

 蒼夜がコップを差し出した。ありがとうございます、と受け取って深空は中身を飲み干す。喉が乾いている自覚は無かったが染み渡るようで美味しかった。

「じゃ、行こうか。あ、自転車は置いていった方がいいよ」

「山に登るのでも大丈夫ですよ」

「えっと、階段があるから」

「あー、じゃあ置いていきます」

 コップを玄関に置き、深空はバイクも置いて2人は歩き出した。降ろし通りへ真っ直ぐ進み突っ切って本町へと向かう。

 本町は新町と比べて家々は小さく住宅街といった感じだ。昼時の町は静まっているが、家の中では人が動いている気配を感じる。

 道中、沈黙に堪えられなくなった深空は蒼夜に話しかける。訊きたいこともいくつかあったからだ。

「さっき祭りがあるって言ってましたけど、どんな祭りですか?」

「海から降ろし通りの上まで歩いていくんだ。年に1回、夏のこの時期にやる」

「その祭りの名前って、げんくうとか言っていましたけど、あの警察の人と関係があるんですか?」

「ああ……元はこの土地に伝わる名前で、苗字になっている人もいるからね。そんなに深い意味は無いよ」

「へぇ……伝承とかに残っていたり?」

「そういうことは知らないし……だったらお寺の人に訊いたらいいんじゃない。じいさんなら詳しいはずだから」

「爺さんってお寺の人ですか?」

「そうだね。僧侶とか住職とか言うんだっけ?」

「お坊さんでいいんじゃないんですか?」

 適当に話をしつつも2人の足取りはしっかりしている。蒼夜に深空がついて行っている形だが、ともすれば深空が彼を追い抜いてしまいそうだった。バイクを離した深空は、それが枷であったかのように活発に動いていく。少し蒼夜が目を離すと別の道に突進していきそうな雰囲気だ。

「そっちじゃないよ。──それで、お寺はじいさんとその孫娘が暮らしているんだ。多分、深空さんと同じくらいだったと思う」

「そういえば遠海さんって何歳なんですか?」

「25、だったと思う」

「思うってなんですか」

「そういう君こそ何歳なの」

「20です」

「じゃあ同じくらいだ」

 何が同じなんだと戸惑ったが、深空はすぐにその孫娘のことだと気がついた。じゃあ親しくなれるかな、と思った。夏休みなのに、この町に来てから同じくらいの歳の人を見かけない。過疎地域にはよくあることだが、若者がほとんどいないのだ。だが、遠隔技術が発達した現在なら人口流出は緩やかになっているだろう、と深空は思う。だったらある程度はいそうなものだが。

 暑いから家にいるのか夏休みだから旅行にでも行っているのかしら、と思いを巡らせる。

 そんな深空に、珍しく蒼夜から声をかけた。

「君は、いつまでこの町にいるつもりなんだい?」

 いつまで家にいるか、ということでもある。

 はっきりと深空は答えず、逆に質問をする。

「祭りっていつですか?」

「えっと……来週。6日後だね」

 ひいふうみいと指を折って数えた蒼夜は待ち遠しさの欠片も無い、事実を伝えるだけの口調でそれを伝えた。

「じゃあ、あと1週間はお世話になりますね」

 蒼夜の顔が少し緩んだ──と深空には見えた。受け入れてくれているのだな、と嬉しくなる。

 住宅街は降ろし通りから遠くなるにつれて道幅が狭くなり家も大きくなっていく。かと思えば公園があったりと不思議な感じだ。その公園にも人はいない。ただ、途中で学校の近くを通ったようで子供の声が聞こえてくる。

「部活でもやってるんですかね。遠海さんは何かしてました?」

「何もしてなかったよ」

「運動系じゃなくても入ってなかったんですか?」

「何も、やってなかった。高遠さんは──やっていたというか、今でもやっているみたいだね」

「バイクは趣味ですよ。ちょっと身体を鍛えているだけです。それに、そんな余裕は無くて……旅をしてるから結構使っちゃうし」

 残念そうに言う。おや、と蒼夜は胸の内で首をひねる。

「じゃあ、お金が無いってことはないよね」

「宿代は払います!」

「それはいいけど……いや、良くないけど……食費はどれだけ使うんだろう……うーん、後で至に相談してみるよ」

「自分で決められないんですか?」

「といっても、ぼくの家に決めたのは至だしなあ」

 妙なことになってきた、と深空は思った。何処か浮世離れしているとは思ったが自分に関することも自分で決められないのか。それとも玄空至が何でもやってあげているのか。後者だ、と深空は直感した。ある程度は自分でできるが、社会生活というものの枠に入っていない。

(やっぱり高等遊民か……)

 妙に納得して、深空は話題を変えた。

「お寺か神社に案内してほしいと言いましたけど、これはどっちですか?」

「ああ、両方とも途中までは道が一緒なんだ。でも、神社の方は……どうかな」

 言ってから蒼夜は微妙な顔になる。まるで秘密を漏らしてしまったかのようだ。

「? どういう意味です?」

「いや……じいさん……お寺の人に訊けば分かるよ」

 そう言って黙ってしまう。足も速くなり、背中はそれ以上の質問を拒んでいた。

 2人は町の奥に行くと同時に町を登っていた。しかも、蒼夜は適当に歩いているようで、目的地をはっきりと自覚している(その道順は、そんなに道を曲がらなくてもいいなじゃないかと深空が思うほどだった)。

 だが、最後に蒼夜が辿り着いたのは単純な場所だった。

「道が……」

 本町の端、家々のすぐ後ろに森が広がっている中、木々の間に道が伸びていた。

 散々歩いてはっきりしないが、体感で深空は町のそこそこ上の方だと感じていた。降ろし通りの一番上までは辿り着いていない、中途半端な場所。背後は道が折れていたり斜めになっていたり、降ろし通りからは見えないだろう。

「さてと、ここからは一本道だよ。道を外れなければお寺に着く」

「ってことは、遠海さんは?」

「案内も済んだし、帰って掃除をして、今晩の食事を準備して──ああそうだ、着替えとか日用品とか必要なものはある?」

「それは大丈夫です、自分でも買えますし」

「そう。じゃあ──また。あまり遅かったら迎えにいくから降ろし通りの下で待ってて」

 戻っていく背中を見送って、心配性だなと深空は笑う。確かに道は複雑(に動いていた)だったけど、下へ、右へと降りていけば海までは辿り着けるだろうしそこからなら迷わない。それに、深空にはスキャナーフォンという文明の利器がある。懐でナビシステムを起動していたから、経路はばっちり記録されている。

 時間を確認するとまだ14時前。だったら町を回る時間もできるかもしれない。買い物をしてもいい。

 深空はスキャホをしまわずに装着した。これから進む道は山の中。すなわち人がいない。町中では抵抗があったが、ここなら人目を気にしないでいい。

 道を進んで、すぐに左へと曲がる。それから右へとカーブし山へと上っていく道が続いている。一本道だ、迷う心配はない。道も踏み固められていて、森が侵食していることもない。

 だが、左右は木々が迫り人の侵入を許す気配は無い。唯一細い道だけが人の領分として認められているかのようだ。しかし背の高い木々は、緑の葉を広げ太陽を遮る天蓋でもある。近くに川でもあるのか涼しい空気も流れてくるし、夏でも快適な空気である。

 不意に視界が晴れた。道が右へ折れているが、その途中で広くなり、陽光が降り注いでいる。階段の中二階のようなものだ。深空は思わず手で顔に影を落とした。

 そうやって作った即席のバイザーで道を見ると、カドのところだけ木が枝を広げ影を作っている。その中にぽつりと木組みのベンチが置いてあった。ご丁寧に「疲れた人は座ってください」との看板もある。

 自分のように若ければいいが、老人が登るには確かに厳しい道だ──

 深空はちょっと笑って歩き出した。自分にはまだ必要の無いものだし、まだ疲れは出ていない。少し立ち止まってザックから水を出して飲み、また歩き始めた。

 道はすぐに左へ折れて登りに戻った。どうしてかというと、大きな木が張り出して迂回せざるを得ないようだ。そして、同じように岩や木によって進路が不安定になっていった。さっきまでは森が遠慮をしていたかのように、登るにつれて人を拒む自然のままの姿を現しつつある。

 しかし深空もさるもの、バイク乗りの常として鍛えられた下半身と持久力は湿気と暑さにも動じない。足元は石が転がるようになり、微妙な凹凸に足を取られそうになることも増えてきた。蝉の合唱に包まれ、足音すら定かでない中を黙々と登坂していく。

 これではバイクを持ってきていたら、荷物どころかそこら辺に置いていく羽目になっただろう。何が階段があるから、だ。それどころではない。

 それでも坂は急に角度を上げることもなく、一定のペースを保っていればすんなりと登ることができた。ただし、それは運動を日常とし、動きやすい服装をしていた深空だったからだ。仮に蒼夜が一緒に登ってきていれば倍の時間がかかっていただろう。

 再度道を曲がると水平な道だった。道の状態が良いのではない。重力に対して平坦な道なのだ。これまで登ってきた深空が体力が回復したと勘違いするほどで、思わずスキャホで精査してしまう。勿論、そこまで正確な水平ではない。

 右手側は上り坂、左手側は下り坂だ。安定した道を造るのに努力したのか最初からこういう地形だったのかは分からない。だが歩きやすいことに変わりはなく、非常に便利だ。

 深空は山の形に合わせて歩いていく。最初から歩きやすい分、足元の整備はおざなりで木の根が横切っていたりする。それでも道行きに問題は無く、無事に最後の登り道へと着いた。

 そこは階段だった。急峻な傾斜を登るには必要なもの。見上げれば、ひょう、と上から風が吹いて後ろの森が揺れる。左右は森だが、木々も階段の上にはあまり被らず、森の中には不自然な、空の上まで開け放たれた空間ができていた。

 ゆっくりと階段を上り始めた深空はすぐに手すりに掴まった。何かの拍子にバランスを崩したら、それだけで背後へ落ちていきそうなほど急斜面に作られている。

 できるだけ背中の向こうの虚空を意識せず前だけを見て登る。階段の上まで登りつくと鳥居があり、深空は焦るようにくぐって前に進んだ。気を抜いて落ちてしまってはいけない、と。

 そこは拍子抜けするくらいにただのお寺だった。石畳が敷かれ境内は広く閑散としており、左手には本堂が鎮座している。その周囲には別の建物が建っていて、家のようなものまである。

 深空は少し境内の中に入ってから振り返った。

 大きな石の鳥居の向こう、右手側に町が見える。正面から左手側にかけては一面の森が広がっていて、陽光を受けきらきらと光っているようだ。そして、森のさらに向こうには海が広がっている。緑と青の境界を風が揺らし、波打つように常に姿を変えている。

 スキャホを操作したのはほぼ無意識の動作だった。何百何千と繰り返した手順は身体に沁み込んでおり、写真を撮ってからその意味に深空自身が気づいたほど。はっとした時には、フォトフォルダに新規画像が10枚も追加されていた。

「もし、大丈夫ですか?」

 その様子を不審に思ったのだろう。もしくは力尽きて呆けていると見たのか。ともかく尋常ではない深空の背後から男が声をかけた。もう老年になるだろうに足腰はしっかりしており、背筋も曲がったところはない。顔光は柔和な表情の中でも鋭い光を放っている。

「ええ、大丈夫です」

 振り向いた深空が見たものは山だった。青の背景から切り取られた緑一色の絶景。間近に迫った原色のツートンカラーは思わず写真を撮るのに充分だった。

「もう少し視点を下げてくださらないかの」

 苦笑した老人の声に気づいて下を見ると、深空の胸の高さあたりに顔があった。

「これは失礼しました……!」

 スキャホを隠すようにしまい深空は慌てて挨拶をする。下半身を白い布でスカートのように覆い上半身は着物のような黒い服を着ている。ここの住職だろうか、と深空はあたりをつける。

「いやいや、最近の若い人はみな背が高いですからね。うちの孫も、あなたほどではないが背が高くて首が大変ですよ」

 にっこりと笑う。顔の皺が寄って目が細くなる。まるで歳を重ねた年輪のようだ。

「それで、当院へは観光ですか?」

「分かりますか?」

「ここいらの若い人は少ないですからな、自然と覚えますよ。それに、こんな場所まで来る若者はそうそういない」

「こんな場所、ですか」

「ええ。老体どころかそこいらの若い者にも登って来るのはきつい場所でしょう」

 そういう当人は涼しい顔で踏破しそうなのだが、深空は黙ってほほ笑むだけにとどめておいた。

「ですがよくここを見つけられましたね」

 そう言う顔は純粋な驚きを示していた。

「ええ。地元の人に下まで連れてきてもらったんです。ああ、祭りのことならお寺の人に訊くといいとか言ってました」

「うん? 祭りのことなら、この時期なら喜んで話しそうなもんですがなあ……」

「面倒くさかったんでしょうか。そんな雰囲気の人ですし」

 深空は改めて蒼夜の風貌を思い返す。ここまで来た瞬間に倒れてしまいそうな不健康な顔。着物の上からも想像できる細い身体。暑いところに放っておいたら顔を赤くして倒れていそうな白い肌。そういえば、髭は生えてなかったな──

「まあ暇じゃないですからの。そういうことはここで話をしている時間のあるこの老人の役目ということです。──ああ、申し遅れました。遠海とおみ羽潮うしおといいます」

「高遠深空です。──とおみ、とはもしかして遠い海と書くのですか?」

「ええ。遠くを見るという字が多いですが、お知り合いにもいらっしゃるのですか?」

「知り合いというか、まあさっき知り合ったばかりなんで知り合いと言ってもいいですか。遠海蒼夜って人と同じ苗字ですよね。親戚ですか?」

 その言葉、その名前を聞いて羽潮は一瞬口ごもった。ぬ、とも、ふ、ともつかない変な音が口から漏れる。まるで何かを喉が発そうとして、勢いよく口を閉じたにもかかわらず飛び出してきたような音だった。

「ええ、確かに同じ苗字です。ですが親戚ではないですよ」

「地名とかですか? 玄空も地名由来っていうことですし」

 その名を聞いた途端、羽潮は口ごもるどころではなくまん丸に目を見開いて何も言えなくなっていた。しかし蒼夜との会話を思い出そうと斜め上を見上げる深空は気づかない。

「町の土地はわたしのだ、って言ってたし……遠海も、海があるしお寺だし。偉いって言ったら変ですけど、立場のある人がその土地に由来する名前を持つのってよくあることですし」

 適当に話しているつもりの深空に対して羽潮は驚きの中にあった。外から来た観光客があの2人と会っているなんて。

「……いえ、地名でも無いと思います。どちらかというと伝承ですな。──どうです、こんな場所では干からびてしまうので、中に入りませんか。祭りのこともお話しすると、少し長くなりますし」

 ようやく振り絞った声は、なんとかいつものものと同じになっていた。その微妙な変化に気づかない深空は素直に頷く。

「いいんですか? じゃあ、お言葉に甘えます」

 まだまだ驚き冷めやらぬ羽潮は深空を本堂の裏手にある建物へと案内した。そこは多少古めかしいものの、きちんとした家屋の様相をしている。そんな建物が3つほどあった。

「どうぞ、こちらへ。──少々失礼します」

 羽潮は深空を一番大きな建物に招き入れる。それから1人表に残り、スマホを取り出して電話をかけた。

紗鈴されい、暇か? ああ、お客さんだ。手伝ってもらいたいが、いいかね。……え? 何処って、」

 ぴくり、とスマホを耳に当てていない方の耳が人の声を捉えた。羽潮は心の中で嘆息した。

 建物の中に入った深空は上には上がらず羽潮を待っていた。玄関は木の香りが充満し、上がり框も高く、格調の高さを窺わせられる。さらに、目の前は廊下かと思いきや、上がってすぐのところで引き戸が遮っており、中に入ることはできない。許可なしに開けるなんて到底できない雰囲気だ。

 が、その扉が内側から開かれた。兆候も無しにいきなり片側の扉が全開になって中から女性が出てくる。女性といっても、深空と同年代の若い娘だ。女の子、と人によっては呼ぶかもしれない。彼女はスマホを片手に耳に当て、ぽかんと深空を見ていた。

「えっと……?」

 お寺の関係者だろう、との推測はできるもののすぐに反応できない。しかし、深空は老人との会話を思い出していた。

「羽潮さんの、孫……?」

「お爺ちゃんから何か聞いたの?!」

 彼女は後ろ手に扉を閉める。開けた時と同じ勢いで、ばちんと音がした。

 と、同時に玄関が開く。こちらも勢いがあり、閉じた反動でばんと扉が反発して少し開くほど。

「紗鈴! ──ああ、すみません不作法な孫娘で」

「孫と同じくらいの女性を連れ込む祖父ですみません」

 2人の視線が交差する。挟まれた深空は頭を下げる。──途端に視線が柔らかくなって、2人が笑う。

「へ?」

 混乱する深空に構わず羽潮は紗鈴に指示を出す。

「紗鈴、お客さんにお茶菓子を出してやりなさい」

「了解」

 さっと扉を開けて中に戻る紗鈴の姿をぽかんと見ていた深空だが、羽潮の声で我に帰る。

「どうぞ上がってください」

 まだ言葉が出ない中、深空は促されるままに玄関を上がり、羽潮に先導されて開けられたままの扉へ入る。そこから廊下が続いており、少し行った部屋に入る。中は既に冷房が効いており、汗ばんだ肌が洗い流されるようだ。

「きっと紗鈴が涼んでおったのでしょう。ちょうどいいタイミングでしたな。さ、座ってください」

 案内された部屋には長方形の木造りの机が1つ、座布団がいくつか置いてある。見ればいくつか座布団が凹んでいる。できるだけ気づいた素振りを見せずに座布団の上に乗って、深空はようやく落ち着いた感じがした。予想以上に身体は疲れが溜まっていたらしく、楽になったと身体が訴えている。

「どうぞ、お茶と羊羹です」

 孫娘が戻って来て2人の前にそれぞれお茶と羊羹を並べる。そして流れるように自分の分も置いて、机の前に座った。

「さて、どうしますか。まずは祭りのことから話しましょうか?」

 はっとした深空だった。それを訊きに来たのに(お寺に来るのが半分、祭りの話を聞くのが半分くらいの目的だった)忘れるところだった。

「え、ええ。じゃあお願いします」

 だが、そこに紗鈴が待ったをかけた。

「お爺ちゃん、この人、誰?」

 失礼な、と目を剥いた羽潮だったが仕方ない。急に押し掛けたのは深空の方なのだ。それに、自己紹介もしていない。

「高遠深空です。高く遠く深い空、と書きます」

遠海とおみ紗鈴されいです。遠い海の、きぬすず──、は糸偏に少ない──と書きます」

 向かい合って、初めて深空は紗鈴の顔を見た。まず目に入ったのは眼鏡だ。視力低下は簡単な手術で調整できる昨今、眼鏡などファッションでしか使われることの無い小物。スキャホ内蔵式のように多機能のものもあるが、つるが細いしレンズも楕円形で小さいし、眼鏡以外の用途にも使えるとは思えない。逆説的にファッションなのだろうと深空は思った。

 顔は丸めで目も大きく、祖父の面影はあまりない。豊かな黒髪は後ろで束ねてポニーテールで流し、ゆったりとした半袖のシャツを着てだらけたそうに猫背でお茶をすすっている。

「あれ、抹茶駄目だったですか? お水持ってきましょうか」

 これは許可が出たってことでいいのかな、と深空は軽く羽潮を見る。羽潮も頷くが、その目は紗鈴に向けられている。

 お茶を一口飲むと、もっと早く渇きを癒やせと喉が主張する。要望に従って茶碗の半分ほどを一気に飲んでしまった。

 おかわりを要求してもいいのかなと顔を上げる。それを合図と思ったのか、羽潮が話し始めた。

「祭りですが、高遠さんはこの町の住人ではない。なので最初から話すとします。少し長くなりますので退屈になったらおっしゃってください。

 ──まず、祭りの正式な名前は玄空祭りと申します。高遠さんも知っている、玄空至さんの苗字と同じ字を書きます」

「はい」

「さて、まずは祭りが今の形になった切っ掛けから話しましょうか。

 この祭りは、元々は土着の祭りでした。今となっては玄空祭りに吸収され現存しておりません。今の祭りの形になったのは、戦争も終わって昭和に入り私が産まれる前の頃でしょうか。その頃この町は鉱山によって栄えていました。漁業が始まったのはその後です。まあ──あの頃の鉱山ですから人も死んだそうです。その弔いとして、かつてこの辺りにあった村の祭りから着想を得た祭りが始まりました。これが玄空祭りです」

「補足すると、お爺ちゃんはまだ67だから閉山の後に産まれてるのね。だから鉱山があった時のことは実際に見たわけじゃないよ」

 羊羹を食べ終わりスマホをいじっていた紗鈴が付け足す。羽潮はそんな孫娘を無視して話を続けた。

「昭和の頃はまだ鎮魂の意味が大きかったのですが、平成に入るころにはただの町祭りのようになっていました。祭りの形式もぐっと単純化され、鎮魂の部分は姿を消しました。それからは今に至るまで同じ形です。簡単に言ってしまえば、降ろし通りの両脇に火を灯し、海から人が練り歩く。本当はもう少し複雑な手順や道具があるのですが──今はいいでしょう」

「お寺はその複雑な部分にがっつり関係してるけど、あまり話すことでもないし」

「……もう一つ、土着の祭りについて少し。この町にはまれびと文化がありました。知っていますか?」

「外から来る神様を迎えるんでしたっけ」

「おおむねその認識で間違いはないです。この場合、異人という意味もありますが。

 この町が鉱山を開く前、江戸の頃には村があったそうです。そこでは海からまれびとが来るという伝承がありました。海から来た神々が繁栄をもたらした、と。が、実際には海を渡って来た移住者だったり別の国からの来訪者だったりと、諸説ありますが人であったことには間違いないでしょう。村の人は、そういった来訪者を海人うみびとと呼んでいました。

 問題はここからです。時として、人々は彼らから富を奪って殺した。外国の人々はむしろ鬼や悪霊が来たとされたかもしれません。その鎮魂の意味を込めて祭りをした。海から山へ上がるのはそういった意味を込めているのかもしれません。私たち遠海という名前も、遠い海から来た人、あるいはその子孫といった意味があるのかもしれませんな」

「──と、綺麗な感じにまとめているけど、結局鎮魂の意味は無くなっちゃっているのがおかしいよねー」

 合間合間、そして最後に雰囲気を壊してくる紗鈴に呆れと少しの苛立ちを見せながらも羽潮は話を終えた。そして深空に微笑んだ。

「どうです。訊きたいことはありますか?」

「いえ。貴重なお話ありがとうございました。本当なら話のお礼でもしなくちゃいけないんでしょうけど──」

「その気持ちだけでよろしいですよ。たまには人に話さないと記憶も鈍るというものです。孫娘がきちんと覚えているか確認もしたかったですがね」

「ちゃんとメモしてるから大丈夫」

「自分が住む町の伝承くらいそらで言えるべきなんですが……」

 ほとほと困ったという顔をする。当の紗鈴はどこ吹く風。スマホは置いたものの、寝転がって腕を伸ばしのびをする。

「これ、お客さんの前ではしたない」

「礼儀を気にする世代でもないでしょ。こういうのは臨機応変にいかなくっちゃ」

「……それは相手方が言うことだな」

「いえ、大丈夫ですよ」

 変な雰囲気にならないよう慌てて深空はフォローを入れる。深空自身も足を崩して姿勢を楽にする。蒸した空気の中を歩いているよりはずっと快適だが、同じ姿勢で動かないというのも存外きついものだ。

「高遠さん、他に訊きたいことはありますか?」

 こういう問いは、質問を促すのか帰れと暗に言っているのかパターンがあると深空は知っていた。2人の様子からそれを探ろうとするが、穏やかに笑う好々爺と腹を出して寝転がる少女からは読み取れない。だから、ここは好奇心を発揮することに決めた。

「じゃあお言葉に甘えて一つだけ。神社はどうやったら行けるんですか? これも遠海──蒼夜さんにお寺の人に訊けば分かるって言われたことなんですが」

 2人は変な顔をした。変としか言いようがない顔だった。珍獣を見つけたとかちんどん屋が目の前で踊っているとかではなく、海と空の境界に何があるかと訊かれた時のような顔だった。

 しかし、すぐに顔は戻る。深空が疑問を発する前に、それを妨害するように羽潮は答える。

「神社なら今は行けないのです。道が悪くてですね」

 紗鈴も続ける。

「蒼夜さんも知っているだろうに。忘れちゃったのかな」

 どうにも不自然を感じつつも、この話題は続けられないと深空は判断した。あまり突っ込んで気まずくなるのも悪い、と気がつかないふりをする。

「だったら大丈夫です。無理を言って申し訳ありません」

「こちらこそ管理が行き届いていておらずすみません。その代わり、別のものをお見せしましょう」

 おや。神社の代わりと聞いて深空が飛びつかないはずがない。

「ありがとうございます」

「では、ついてきてください」

 まず羽潮が立ち上がる。深空も後に続くが、紗鈴は寝転がったままだ。羽潮も特に言葉をかけずに部屋を出た。

 玄関へ戻り再び本堂の前へ。それから石畳に沿って鳥居へ向かうが、その手前で右へ折れる。前と後ろにばかり目が向いて深空が見逃していた道だ。石畳は塀の隙間を通って道となり、隣の土地へと続いていた。

 そこは墓地だった。境内以上に広いかもしれない。

 山から少し張り出した丘のような場所に数千にもなる墓石が整然と並んでいる。その間を歩いて羽潮は深空を最も見晴らしのいい場所──墓地の端へと案内した。

 そこには別の墓標が建っている。鉱山労働で亡くなった人々を鎮める石碑だ。海を臨む場所で日を受けて、ゆるやかな風の中で静かに佇んでいる。

「さきほど話した事故の犠牲者を弔う場所です。高遠さんの方は景色の方にも興味がおありかとも思いましてね」

 実際、非常にいい眺めの場所だった。階段の上から見た風景は山が中心だったが、ここからは町の下側半分が一望できる。降ろし通りを人が歩いている。学校は住宅地の中でも大きくて高く目立っている。港は船が揺れ、その横にある場所は変わらず空いたまま。

「もし霊魂というものが存在し、いつまでもここに留まっているのなら、彼らにはこの町の守り神になっていただきたい。もしくは、子孫が安らかに暮らしている場所を見て安心して旅立っていただきたい。そういう願いからこの場所が作られた」

 その言葉は、途中から深空の耳を右から左へ通り抜けるようになっていた。港を中心として、少し左側から見た町を中心に左右の山の緑、正面は海の青と空の青。絶景たる景色に目も耳も奪われていた。

 ポケットに手が伸びる。スキャホを出してカメラモードで起動し、両手で構え軽く腰を落として姿勢を安定させ脇を締めて身体を固定、指がシャッターをタップする。ここまでわずか5秒。

 小さくもシャッター音が響いてそれが深空を正気に戻す。慌ててスキャホをしまい直した。

「どうかされましたか?」

 幸いにも音は羽潮には聞こえなかったようで深空はほっとする。

「いえ、すごくいい景色で、慰められるんじゃないかと……」

 羽潮には「すごくいい景色」が本音だと分かっていたが、苦笑するにとどめておいた。

「写真を撮っていいですか?」

「どうぞ」

 なので、彼女が無我夢中で、しかし無我の境地にいるように静かにシャッター音を響かせまくるのをじっと見ていた。

 それから数分間を墓地での撮影に費やし気が済んだ深空は町へと戻って行った。

「また来てもよろしいでしょうか?」

「どうぞ、いつでも歓迎いたします。いつ孫がいるかは分かりませんが……」

「だったら連絡先を交換しておけばよかったですね。彼女にもまた会いたいですし」

 笑顔で階段を降りる深空の姿が山道へと入るまで階段の上で見送って、羽潮は手元に目を落とす。手の中にはスキャナーフォンが1つ、画面には建物の中で隠し撮りされた深空の姿が映っていた。

 深空が帰ってからしばらくして、お寺に新たな客人が来た。警官だ。彼はお寺の敷地内を歩いて羽潮を見つけると、その前に立つ。

「至さま……」

 玄空至は羽潮に小さな声で言う。

「あの娘、どう思った」

 思い当たる相手は1人しかいない。羽潮は少し渋い表情をする。

「分かりませぬ。悪いものではないでしょう。が……」

「判断がつかないならいい。わたしが知りたいのはネットワークに報告するかだ」

「それは、しないでよいでしょう。あれは人です」

 意外といったように老人は彼の半分にもならぬ姿の青年に疑問を発する。本当に疑問に思っている声、顔に至は満足したように頷いた。

「そうだよな。ならばよい」

「何かあったのですか?」

「いや、いや。これから歓迎会でな。蒼夜のところに泊まるんだ。だからおかしなことがあってはいけないと思ったまでのことよ」

 それだけ言って、何もせずに帰っていった。

 しかし、羽潮は至の態度に疑問を持ったようだった。

「紗鈴」

「はい」

 目付きを鋭くして羽潮は紗鈴を呼び出した。居間に入り、向かい合う。

 2人の様子は祖父と孫娘といったものではなかった。さっき深空の前で見せた親しさは冷徹さに、年齢差は上司と部下の関係を思わせるものになっていた。

「さっきの高遠深空という女性のことだが、少々見張ってくれはしないか」

「どうしてですか?」

 紗鈴は当然の如く疑問をぶつける。

「至さまには何か考えるところがあるようでな。それに、私も少々腑に落ちないものを感じている」

「お言葉ですが、あまりにも軽率な判断に過ぎないのではないですか? 何か根拠でもあるんですか」

 呆れたような口調は、紗鈴は何も感じなかったということ。それを受けて自分の印象が間違っていたのかと羽潮はますます歯切れが悪くなる。

「あれは……海人ではないが……ただの人でもなさそうでな……」

妖邪ようじゃということですか」

 紗鈴の顔が厳しくなる。

「いや、そうではない。だが、分からんのだ。海人も妖邪の1つと言える。しかし基本的には穏当だ。害があるか無いか、それが一番重要なことだよ。あの娘に害がないことは確かだ。だが……やはり引っかかるものがあってな……」

 はっきりとしない祖父に孫娘はため息をついた。しかし、ここまで優柔不断な祖父の姿も見たことがない。ほとんど感じ取れないほどの異常があったのでは、と少し考えを改める。

「それで、どうすればいいのでしょうか」

「とりあえず友達になっておくれ」

「友達、ですか?」

「隙を見せるという次元ではないからな。何か異常を引き起こしても、あれはきっと無意識だ。しかしこの町を破壊されてはかなわん。人が死ぬこともだ」

 人が死ぬと聞いて紗鈴の顔が硬くなる。

「だったら追い出すことはできないのですか」

「蒼夜どのも関わっているらしい。至さまも許可された。蔑ろにはできぬよ。──それに、彼女自身は無害なのだ。どうしてそんなことができようかね」

 ふ、と遠い目をして羽潮は紗鈴の後ろを透かすように見る。

「何かが起きると決まったわけでもない、貴重な同年代の女性として遊ぶくらいの感覚で構わない。何かが起きる前に止める、何かが起きても被害を最小限に食い止める。お前がやってくれる、お前ならできると思ったから頼むのだよ」

 一瞬、紗鈴の目が遠くを見た。魂が抜けたように身体から力が抜けていく。しかしそれもすぐに持ち直した。ふ、と紗鈴の顔が緩む。半泣きの笑い顔になって、

「それは反則ではありませんか、お爺さま。やらないわけにはいかなくなってしまいます」

 羽潮も笑う。

「だからお前に頼むのだ。それに、何も起きなければ友人が手に入るかもしれんぞ。私の見立てでは人としては上の部類だ」

「そうやって人に格をつけようとするのは悪い癖ですよ。でも、いい人そうでした。少し好奇心が強すぎるとは思いますが」

「だったらストッパーの役目もしてくれぬかね」

「いいですよ。ところでいつから接触しましょうか。早い方がいいですよね」

「だったら今夜だな。至さまによれば夜は歓迎会をするらしい。お土産を持っていってくれ」

「分かりました」

 2人して悪戯をするような顔になって、同時ににやりと笑った。

 しかし、2人ともその裏には自身だけにしか見せない顔を隠していた。

 羽潮は今後の波乱を憂う顔を。

 紗鈴は傷に刃物を刺されたような顔を。

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