1日目-4-

 いきなり降り出した雨に深空みそらは駆け出した。だがバイクを押していることもあって速度は出ない。雲は足を速めて空を塗りつぶし、雨は強くなっていく。すぐにやむとしてもびしょ濡れで気持ち悪いのは変わらないだろう。どこか――こういう時にお店の一つでもあれば――せめて軒下でも――あった!

 彼女がその店を見つけたのは偶然だったのだろうか。赤い提灯のようなものが一つ、昼間なのに火が入った状態で下がっている。まるで何かの目印のようだ。

 しかも、そのドアはガラス戸で、少し開いている。

「お邪魔します!」

 緊急事態だ。意を決して中に入ると、そこは意外にもきちんとした店だった。暗くてよく分からなかったのは、店内の光源が小さな電灯一つだけで、商品もほとんどなかったからだ。そもそも店だと分かったのもレジがあるからで、なかったら物置と言ってもいい。

「すみませーん」

 深空は声をかけた。雨に濡れなくなったら途端に好奇心がうずいてくる。なんだろうという思いが、店の中を見回すたびに大きくなっていく。

 クジラの骨格標本、茶色い天球儀、四つ並んだ砂時計、羽を広げた小鳥の置物。一見したらガラクタのようなものばかりだ。古物というのか、お土産というには年季が入りすぎている。だが、商品が置かれていたような空白もある。扉の近くの棚は太陽に焼けたのか変色している。しかし埃っぽいことは無く、掃除や手入れはされているようだ。

「なんですか」

 突然の声。後ろから気配もなく、かすれた風のように聞こえてきた。ゆっくりと動く影も頼りなげでこの建物にはよく合っている。

「えっと、雨が降って来たんで、雨宿りしたいなー、って思って」

「それなら大丈夫ですよ」

 乾いて擦れたような声。覇気が全く見えない淀んだ空気のようだ。彼は、それだけ言って口を閉じてしまう。レジのところの灯りをつけたおかげで、その姿がよく見えるようになった。

 甚平というのだろう、着物のような和服を着た男の人だ。ただでさえ細身なのに縦縞が入っているせいか余計に細く見える。柳でももっと青々として生気があるだろうし、枯れ木も彼に比べればしっかりと大地に根ざして立っている。

 顔も細い。全体的に痩せて頬は薄いので目が大きく見えるし、髪の毛は少し強い風に吹かれれば千切れてしまいそうなほど細い。明治時代の売れない文筆家の生き残り、と紹介されても人によっては信じてしまうだろう。

 ただ、それほど歳をとっているようには見えない。不健康な顔立ちだが居ずまいは老成しておらず、年相応の落ち着きの無さが感じられる。きちんとした生活をすれば実はみてくれは悪くないんじゃないのか。意外と若いのかもしれない、と深空は彼が何歳だろうかと考えつつ店の中を見て歩く。

「あの……ここって何を売っているんですか?」

 好奇心のまま店の中を見ている内に深空は気づいた。値札がないのだ。どの物品も素のままで置かれている。では売り物じゃないのかとも思ったがレジの存在と矛盾する。

「そこにあるもの、全部」

 端的すぎる答えが返ってくる。

「値段は?」

「小さいのは五百円くらい、大きいのは千円くらい。適当に」

 ざっくりとし過ぎだし値段に釣り合わないものばかり。いや、そもそもの価値が分からない。思い出を売る~なんて言っている土産物屋ならそれでもいいのだろうけど、これではとても商売になるとは思えない。

 それでも何かが売れた痕跡はある。どんなものが売れたのか気になる、と深空は声をかけた。

「あそこ、何があったんですか」

 深空の質問に、彼女のいる方を見て、空白の棚を見て、さらにやや時間を置いて彼は答えた。

「大きな鳩時計」

 意外にも返事があった。しかし端的に過ぎるし、大きなとつけるところは冗長。変な言い回しはやはり文筆家が本業なのかもしれない。

 だが、こんな雰囲気の店は他にはなかった。店主も滅多にいない感じで面白そうだ。気に入った、と深空はスキャホに位置を登録する。

 それから止めていた足を再び動かして店内を歩き回る。模様の彫られた壺に木彫りの熊(大)に銅色の仏像に、改めて見てみるとやけに古そうなものばかり。これでは土産物と言うより骨董品。この店も骨董屋なのかもしれない。

「ここ、何屋なんですか?」

 ぼうっと暇そうにしている店主は深空の声にびくっと身体を固まらせて、

「──あまよづき」

「あまよづき?」

 訊き返した深空に、首を傾げ、ああ、と言った。

「雨がふる夜の月、が店名。何を売っているかという意味なら──ぼくにも分からない」

 当人にも店について分からないということがあるだろうか。深空は思案する。確かに売っているものは押し入れの奥や蔵の中にしまわれ忘れられているようなものばかり。さりとて古物や骨董品と一括りにするほど価値のあるものは無さそうだ。特定の名前をつけるのは難しい。

 ただ、店名はいいセンスだと深空は思う。

「店の名前ってあなたがつけたんですか?」

「違う。誰か──は分からない。自分がこの店を継いだ時にはこの名前でした」

「前の人はお父さんとか?」

「さあ……物置みたいになっていたから、長い間使ってなかったんじゃないんですか」

 面倒くさそうな姿勢を崩さない。客商売をやる気がないんじゃないのかと思うほどぶっきらぼうでつっけんどんで、人を遠ざける言い方だ。それでも深空は怯まなかった。他の人だったら雨の中でも構わず外に出ていただろう。しかし、面白いと感じたものには突進するのが深空の常だった。店に入る前から気になっていたことを口に出そうとする。

「あの──」

「何?」

 鬱陶しい、と初めてその顔が深空を見た。その顔が驚きに見開かれた。

 深空も同じだった。彼の顔に目を見開いて、離せなくなった。

 両者が見たのは同じもの。瞳だ。そして、その中に別のものを見た。

 深空は海を見た。太陽が降り注ぐ大海の碧色の瞳。この陰気を丸めて固めたような男が持つには眩しすぎる眼だった。

 店主は宙を見た。遠い宇宙の彼方色の瞳。明るくどこにでもいるような少女には似つかわしくない、どこまでも深く沈んでいきそうな眼だった。

 見つめ合っていたのは一瞬。互いにはっとして顔を背ける。

「──それで、なんですか」

 互いの心音にかき消されそうな声で青年が言う。自分の心音が声よりも大きく聞こえるし、拍動が全身を揺らして立っているのもやっとのことだ。返事ができたことが奇跡みたいだった。

「えっと、表の提灯? は、」

 深空も収まらない鼓動に驚いていた。バイクを乗っている時にはこんなことは無い。走り続けるために一定のペースを保つし、身体に異変があってはいけないから無理はしない。それでも長い距離を走った後は心臓が大きく動くものだ。その鼓動とは違った。暴れるように、胸の中から飛び出たいと叫ぶように、爆発の前のように動きまわる。今にも血管を千切って勝手に何処かに行ってしまいそうなほど苦しい。

 それでも、彼女は言葉を言い切った。

「外の、提灯は、どうして灯が、ついているんですか」

それは、と言いながら彼が顔を上げた。その瞬間、見計らったようなタイミングで勢いよくドアが開いた。


   ***


「やあやあ、いきなりの雨で参ったよ。蒼夜、雨宿りさせてもらうぞ。──ああ、そこにいるお嬢さんは表のクロスバイクの主かな? ようこそ海来町へ」

 雨夜月の中に入ってきたのは警官だった。水色の半袖シャツに紺色のズボンに同色のベスト、腕章と帽子を着けている。だが、屋内に入った途端に帽子を脱いで空いている棚に置いた。

「こう暑いと頭が蒸れて仕方ないよ。羽潮うしおのじいさんみたいにハゲたらどうするかね」

 現れた顔はかなりの色男だった。店主──蒼夜そうやと同じ細面だが、こちらは血色も良く髪も黒々としている。顔も笑顔で常に口角が上がり、微笑みとはにかみと中間のような感じだ。目は大きいが、時折り絞られるように細くなる。鼻筋も通っており、雑誌のモデルになっていてもおかしくない。貴公子とまでは言わないが、白皙の美青年であることに違いはない。

 ただ、圧倒的なまでに周囲を自分のペースに巻き込むタイプだった。自分の言動で周囲が変わることを知っており、それを使って物事を動かしていく、演技をしているような周囲を芝居の脚本に乗せるような、そんなタイプだ。

 しかし、どことなく胡散臭い雰囲気が漂っているのは気のせいだろうか、と深空は思う。

いたる

 眠たげというよりも胡乱に戻った蒼夜は彼に顔を向けた。深空から無理矢理目を逸らしたように見えたが、当人たちは気づいてない。

「なんだい蒼夜。君が接客などしていない──できていないことは分かっている。だから君や彼女に声をかけたところで営業妨害にはならない。むしろ積極的に」

「そうじゃなくて──ほら、タオル」

「おお、ありがたい。さすが持つべきものは気の利く友人だ」

 友人、と言われて蒼夜が露骨に嫌な顔をした。常の彼の顔からは想像もつかないほど感情を見せている。

「友人、なんですか?」

「ありがたくないことに。一応、友人ということになっている」

 深空の疑問にも渋い顔は崩さない。そんな様子に、服を拭きながら至が声を上げて笑った。

「いやいや、もっと素直に、友よ、と言ってくれても構わないのだぞ。わたしはいつでも待っている」

「そう呼ばせたのはお前だろう」

「だが、そう呼んでくれるのはお前くらいなものだよ。そんな貴重な相手は正しく友人と呼ぶにふさわしい」

 だろう? とほほ笑んだ至に諦めてため息をついた蒼夜は、はっと思い出した。

「そうだ。提灯は、誰でも入れるようにと。目印」

 至には意味不明の言葉だが、深空には返答だ。

「ああ、看板みたいな。床屋のサインポールみたいな」

 何とも言えない評価に微妙な顔をしたあと、蒼夜は改めて自己紹介をする。

「ぼくは遠海とおみ蒼夜そうや。遠い海の蒼い夜と書く。こっちが玄空至。見ての通り警察官だけど、そこまで厳しくないし犯罪をしなければただのお調子者だ」

玄空げんくういたる、警官だ。くろい空に至ると書く。お調子者と言われたが、納得はできないが否定できる材料も持っていないので一応そういうことにしておこう。個人的にはクール系と言われたいのだが……」

「無関心の間違いだろう」

「失敬な。わたしは色々なことに関心があるぞ」

「食うことだけはな」

 漫才のようなやり取りは、深空には年季の入った幼馴染のように見えた。友人というのも本当で蒼夜が照れ隠しで否定しているだけで。

 だが、げんくうの名前が深空にやるべき事を思い出させる。

「あの、玄空という方に会えたら相談してみろと言われたんですが」

「何かな?」

 髪を拭っていた至が深空に視線を向ける。どこにでもあるような黒い瞳に、なぜか深空の胸がびくりと動く。

「えぇと……宿、泊まるところを決めてないで来たから、できれば都合していただけないかと……駄目なら野宿ができる土地があれば紹介していただければ……」

 言葉の奥で深空は考える。この玄空至という男には何か違和感がある。素直に手を借りたり提案に乗ったりできない胡散臭さ。

「それは災難だ、と言いたいが、こちらも災難ではあるね。確かに今は夏。学校も夏休みに入っているし観光客が来るシーズンだ。しかし場所と時期が悪い。こんな場所には最初から別荘を持つ金持ち連中くらいしか来ないし、それも今の時期は町がうるさいともっと遅い。一般的でない観光客ならば少しは来るが、民宿は予約制だし今は忙しい時期だから余程の物好きか貧乏か暇人でもない限りは受け付けていない。簡単に言えば、受け入れる体制が整っていないのだよ」

 そう言った至の目にからかうような光があるのを深空は見た。そして、長く言葉を聞いている内に違和感の正体にも気がついた。

 声が胡散臭いのだ。掠れたテノールの心地いい声だが、人をからかうような抑揚といい、感情を煽るような物言いといい、(ぶっちゃけ櫻井○宏と鳥○浩輔を合わせたくらい)胡散臭いし信用ならない。さらに、それを自覚しているような素振りがあるのが圧倒的に不信感を出している。

 まるで悪魔との契約だと思った。条件を正しく出さなければ魂を取られるし望み通りの契約は結ばれない。しかし、その力は本物。危険を冒す価値はある。

「はい……それは申し訳なく思ってます。陽花さんにも言われましたし、でも玄空さんを探せとも言われたんで」

「だからといって、必ずしも手を貸すってわけにもいかないね」

「あの……イタリア料理店の人も手を貸したそうですが」

「あれはご飯が美味しそうだったからさ」

「美味しそうだった?」

「いや、美味しそうな料理を作ると思ったからさ。だがね、君にそんな特技があったりするのかな。ええと……」

「高遠深空です」

「高遠さん、確かにわたしはある程度の権力と言っていいものがある。まあ、少しくらいなら融通を利かせることもできる。だが、その相手は選んでいるのだよ。依怙贔屓と言ってもらって構わない。しかし変な人をこの町に入れるつもりは無いからね」

 穏やかな表情と落ち着いた声、それでいて確固たる自信を持っている。生半可なことでは動きそうにない。そして、深空に特別なものは無い、と言ってよかった。少なくとも当人には自身に何か特殊技能があるようには思えない。

 だが、諦めたくは無かった。面白そうな町だ、きっと1日では回り切れないものがあるに違いない。だから、何とか抵抗する。

「町のことを外に伝えることはできます。外の目から見たこの町のことを、広報みたいに」

「それを町でやっていないと思うかい? ただ、この町は観光産業に力を入れなくても大丈夫だ。大勢に知られずゆっくりと過ごしていくことを望んでいる──とまでは言わないが、何もしなくても数十年このままでも大丈夫だ。それに、別荘地もあるしあまり騒がしくなっても困るんだよ」

 そう言う至の声は平常だ。困る、と口では言っているがどうでもいいと思っていそうなくらいに。大丈夫との口ぶりも、町が変わらないことを知っているかのようでもある。

 そして、そこまで断言されてしまえば深空がつけ入る隙は無い。他の手を探すしかない。

「じゃあ、お金を落とすことは」

「確かに外から来た君なら普段は店を開くだけ損をする土産物店やちょっと小じゃれた飲食店にも行くかもしれない。だが、そういった店は副業として経営しているところがほとんどで、普段は本業で充分生きていく分は稼いでいる。確かにTra Mare e Cieroトラマーレエチェーロは珍しく外から来たし飲食店一本でやっている。売り上げもいい方では無い。それでもやっていけるんだよ」

「だったら──」

 勢いで口を開いて、しかし交渉の材料が無いことに気づく。深空にできることは無い。内輪で回っていたところに外部から入ってきた者ができることは、実際ほとんど無い。新しい風を吹き込むことは特殊な技能でも無ければ無理だ。そして、深空にはそれが無い。例えあったとしても求められていない。

 黙ってしまった深空を、もう案無しかと至が細めた目で見る。

「じゃ、縁が無かったということで」

「あっ……」

 至が深空から目を離した。それを決裂と判断した深空は傍目にも分かるほど落ち込んでいる。

 そこに、意外な助っ人が口を挟んだ。

「いいんじゃないの」

 深空が顔を上げると碧色の瞳が煌めいた。

「蒼夜。お前が意見を言うとは珍しいな」

 蒼夜も頷く。

「確かに珍しい。だけど、ぼくには彼女は悪い人に見えない。それに、泊めない理由がない」

「忙しい、というのは理由にならないかな?」

「ぼくはそれほどでもないさ。それに、祭りの準備に参加しない人もいる。そういう人の家に泊めてもらえばいいんじゃない」

 思わぬ援護射撃に勢いを加えようと深空が口を開こうとしたが、蒼夜の目を見て何故か言葉が引っ込んだ。ちょっと待ってて、と言われたような気がした。

「彼女の素性に問題があるとは思えないし、余裕という点では1人くらい大丈夫だろう。この時期を狙って外から来る人もいるだろう? 玄空祭りはそこそこ知名度もあるはずだよ」

「それは確かだが、その余裕は誰かの負担だ。それを押し付けることはできない」

「何をいまさら。さっきイタリア料理店のことを言ってたけど、あれだって土地の所有権は別の人に決まりかけていたんだろう。それを至が奪った──とは言わないけど、文句は言っていたよ」

「この町の土地はわたしのものだからいいのだよ。充分な補償もしてやった。だが住人はそうもいかない」

「それをどうにかするのも君の役目でしょう。移住者を馴染ませるためどれだけ暗躍していたのか知らないとでも思った?」

「気づいてはいるさ。だが、あれは町の住人のためだ。旅人の1人にどうして手を尽くさねばならないのかね」

「そんなことをする必要はないよ。君が滞在を認めたと言えば町の人は勝手に解釈してくれる」

 蒼夜の決意が折れないことは至にも分かっていた。だが、これだけの意思を表明することはこれまでに無かったことだ。友人の変化を喜べばいいのか面倒くさいことになったと嘆けばいいのか、至は髪をぐしゃぐしゃと乱しながら頭を掻いて、

「──ま、いいだろう。お前がそれで構わないというならわたしに止める術はないよ。それに祭りを見る人が増えるのも一興か」

 深空の顔がぱあっと明るくなる。宇宙のような深淵の瞳も超新星爆発があったかのように輝いている。

「ありがとうございます!」

 至に向かって頭を下げる。喜びように苦笑しつつ至は、

「それはわたしを説得した奴に言ってくれたまえ」

「はい! 遠海さん、ありがとうございます!」

蒼夜は微笑で応じた。相変わらず幽霊のしゃれこうべが口を歪めたような有様だが、好意は伝わってくる。

 そのまま良かった良かったとほほ笑んでいたが、至の声に目を剥いた。

「それじゃあお前の家を整理しておけよ」

「ぼくの家?」

「お前、自分でそれほど忙しくないと言っておいてそれはないだろう。お前が言ったからにはお前が泊めるんだからな。ああ、犯罪はしょっ引くぞ」

「そんないきなり言われても!」

「うるさいな。認めた手前わたしも少しは手伝ってやるから人がもう1人住める状態にしておけよ。午後は店を閉めてもいいぞ」

 それから目を白黒させている深空に向かって、

「これでも一応生物学的にはオスに分類される奴だが、なに変なことをする度胸はない奴だ。完全に安心しなくてもいいし、何かあったら叫んでくれれば喜んで逮捕してやろう」

「いえ……急に押し掛けたのはこちらの方ですし、大丈夫です……」

 返事をした深空も驚きが抜けていない。

 ただ、至だけが全て解決したと明後日の方向を見ながら既に思考を別のことへと移している。

「む、雨もやんでいるな。それではこれから昼飯なんで失礼するよ。ああ蒼夜、きちんとできているか夜に見に行くからな」

 にやりと笑いながら、帽子を被って出て行った。

 残された2人はどうしたものかと互いの顔を見つめ合っていた。あまりの混乱状態に他に何をすればいいか分からなかったとも言う。

 至が店を出てからしばらくして、どちらからともなく2人は顔を逸らした。

「えっと……じゃあ、お世話になります……」

「はい……」

 少し気まずい雰囲気のまま外に出ようとして、深空は気づいた。彼の家を知らない。この店が家を兼任してるかは不明だ。

「あの、家ってどこですか?」

「家……ああ、家の場所」

 えぇっと、と空中を指でなぞっている蒼夜。まさか地図を思い出しているのではないだろうか、と深空の予感は的中した。

「ここを出て、左に行って最初のカドを右に曲がって、次の次のカドを左に、その次のカドを左に──」

「待って! 口だけだと分からない……です!」

 早口で道順を言う蒼夜を深空は遮った。地図にでも描いてもらえれば早いのだろうけど、この町を簡単に知ってしまうことになる。とはいえ口頭の説明では分からない。

「だったら、どうする? ええと……」

「──深空、でいいですよ」

「──じゃあぼくも蒼夜で大丈夫です。深空さん、家を片づける必要ができた、ので案内します。どのみち午後は閉店にせざるを得ないし」

 それなら大丈夫だ。

「分かりました。それで、いつ行きますか」

「すぐにでも」

「じゃあ、お願いします」

 そう決めるとあとは早かった。深空は外に出て、蒼夜は明かりを店内の消して「閉店中」の札を持って出る。扉に下げて鍵をかけ、提灯の灯りを消せばそれで終わり。

 雨もすっかり上がって道には水たまりができていた。太陽の光を反射してきらりと光る。

 見上げれば青い空に雲がまばら。太陽は裸のまま地上を照らし、雨に洗い流された空気の中で人の目と肌を焼く眩い光となっている。

 すっきりと晴れた空に向けて深空はスキャホを掲げ、写真を撮った。

「ついてきて」

 蒼夜の先導で歩いていく。歩きづらそうな服なのにすいすいと速足で歩くから、バイクを押している深空はちょっと遅れ気味になる。決して追いつけないほどではないけど、背中が遠ざかってしまう、と深空は話しかけた。

「あの、この町に見どころってありますか」

「さあ。考えたこともない」

 深空の狙い通り、蒼夜は少し速度を落とした。後ろを歩く深空を見て、また前を向く。追いついた深空は彼の横に並んだ。

「砂浜って泳げるんですか?」

「ここの人はたまに泳いでる。学校の授業でもプールの代わりに使っているし」

「学校があるんですか」

「小学校と中学校なら。半ば一緒の学校になっているみたいだけど」

「義務教育はあるってことですか。じゃあ、高校は町の外のに通ってたんですか?」

「いや──ぼくは高校には行かなかったから。それにこの町はほとんどの人が中学までだと思う。それか通信教育っていうので学校の代わりにするとか」

「ああ、オンラインだけの高校や大学もありますしね。こういう町でも通えるからいいですよね」

「さあ。──あ、ここ曲がるよ」

「こっち側って新町ですよね。本町の上に何か建物みたいなものが見えたんですけど」

「それならお寺か神社だね──ここを左」

「はい。──どうやって行くんですか? ちょっと探したんですけど道が複雑で」

「ああ、確かにそうかもしれないね。よければ案内しようか……っとここだよ」

「ありがとうございます。で、ここですか……って、えぇ?」

 深空はアパートのようなものを想像していたが、意外や意外、小さいながら平屋の日本家屋だ。しかし、一見木造に見えても陽の光が当たれば上から塗装を施したものだと分かる。屋根瓦は本物だろうけど、どことなく物々しい。

「寄っていく?」

「是非とも」

 玄関を上がると正面は障子で区切られている。左右へと伸びる廊下の途中が広がって玄関がある形だ。右を見ると書斎。左にはトイレ。おかしな造りになっている、と深空が首をひねるが蒼夜は気にせず書斎へと入っていく。

「ちょっと待ってて。トイレは使っていいから」

 言い残して深空の視界から消える。そう言われたって──と思った深空だが、蒼夜の言葉に膀胱が誘発されたのかぶるりと身体を震わせた。考えてみれば、半日もトイレに行っていないのである。

「失礼します!」

 大急ぎでトイレに駆け込んだ。

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