1日目-3-

 海から見た町の左側は、上の方は大きなお屋敷ばかりだったが、下の方はそうではない。

 大通りから離れ、深空みそらは裏の道へと入っていた。あの坂の道と大通りの間にはいくつも建物があって、その間には路地裏もあれば人の通れる道もある。バイクを押しつつ昇っていける広さもある。

 入ってすぐ気がついたのは、古い建物が多いことだった。木造の建物こそ無いものの、築50年は経過していそうなものがいくつもある。建築基準法とか大丈夫なのかと首をひねりながら深空は歩いていく。

 低い塀に囲まれた庭がある平屋から3階建てのアパートまで色々あって、ゴミをまとめて集めて置く場所なんかは生活感に溢れていて笑いが出てしまう。でも、ここは誰かが住んでいる町。旅人が感傷にふけるための場所ではない。

 何か面白いものでもないかと探していた深空は、脇道があれば入っていった。右側は大通りに繋がっていなそうな道を選び、左側は坂まで突き抜け、民芸品店やアンティークショップでもあればいいなと適当に歩いていく。

 しかし、観光客による収入も望めない町だ。そういうものを期待するのが間違っているのかもしれない。だけど雑貨屋ならあってもおかしくない。地域に馴染んだものを出すならそれも風土の一種。特産品や名産品は無くても地域のものはあるかもしれない。それらしい看板が無いか、斜め上を見ながら歩いている。

 上るにつれて段々と住居は大きくなり、白い塀が目立つようになっていく。砂浜に続いていた道に並ぶ屋敷と同じ。同時に、左手側──あの道に出る脇道も無くなっていった。

 そして、探索を始めて30分。上まで行くつもりが、道が曲がっていて、深空は大通りに出てしまった。どうやらそこが最終地点らしい。それでも屋敷1つ分を上がれば坂の道の入り口に辿り着いた。大通りで考えれば、それなりに上の方だ。

 もういいか、と深空は下りに転じる。面白そうなものは見つからない。スルーした道を入ればよかった。むしろ、大通りに近い道の方が観光客を相手にする店があるのではないか。失敗した、と深空はため息をついた。

 と、同時に腹の音が響いた。朝食も早かったし、ずっと動き続けていたのだから当然だ。しかし、あれだけ食べたのにもう無くなったかと苦笑する。

(お昼もきちんと食べないと夜までもたないなあ……いやいやおやつも食べればいいかあ……)

 先の食事まで考えながら(妄想とも言うが)深空は大通りを下る。緩やかな傾斜だが、バイクを保持するには少しきつい。軽くブレーキをかけながら歩く。

 上ってきた時と比べ人も増え、また店も開いている。看板だけでなく扉やドアも見ることができるし道にボードを置いてメニューを紹介しているところもある。寄ってみると、今日の魚と書かれメニューがイラストと……筆記体の読めないアルファベットつきで載っている。他の店はメニューを外にかけていたりサンプルを置くだけだったり、そもそもそば処とからあめんという暖簾がかかっているだけで、あまり興味を惹かれない。

「まだ開いてないんだよ。もう少し待ってくんな」

 ぶっきらぼうな声がした。深空が顔を上げると中年の男が立っている。かっちりとした細面の顔に鋭い目つき。まばらに髭を生やしているが妙に似合っていない。そして、地毛だろう赤寄りの茶髪。半袖から伸びる腕は細いが、やや筋肉がついている。

「あ、はい……えっと」

「開くのは11時。あと15分」

 ぶっきらぼうな言葉は不愛想なのか話慣れていないのかちょっと判断がつかない。どちらにしても客商売をするには向いていない。

「セイちゃん、困ってるわよお客さん」

「まだ客と決まったわけじゃないだろう」

 店の中から女性が出てきた。エプロンを身に着け、にこやかな笑顔。髪を頭の後ろで高くまとめている。おっとりとした雰囲気もそうだが、男性とは正反対の印象だ。

「あら、お客さんじゃないのかしら?」

 そう言われてしまっては返す言葉を決められたようなものだが、深空はそうしない。

「今のところお客になるつもりですけど、もう少し回ってみます」

 そうなの、と少し驚いたように女性が言う。男性は何も言わないが、視線も表情も変わらない。不機嫌そうに口をへの字に結んだままだ。

 深空は店を離れた。まだ時間があるなら別にもいい店があるかもしれない。だったらここに決める必要はない。それに、そう言ったところで悪い印象を持つような人たちには思えなかった。

 他に飲食店を探すと人の列が見えた。店頭で受け取ったものを持って帰っていっている。何を売っているのだろうと深空が近づくと、看板にはお好み焼きとあった。店の中でも食べられるらしく、扉には『準備中』と書かれた札が下がっている。

(しかし、並ぶとは美味しいのだろうか──)

 お好み焼きに持ち帰りになるメニューがあったかしらと近寄ると生地を焼く匂いがする。じうじうと野菜と肉が焼ける音もする。それにしては少し甘い香りもする。一体なんなのか正体を突き止めてやろうと列の後ろからさらに近づいて、並ぶか並ばないかといった距離から首を伸ばす。

 その内、待ちきれずにその場で包装を開けて食べ始める人がいた。それを深空はちらりと見て、

「──いやクレープじゃん」

 薄い生地に焼いたキャベツと豚肉が巻かれている。かつお節と青ノリの香りが鼻を刺激する。スタンダードなお好み焼きのはずなのにどう見てもクレープ。頭がこんがらがって来る。

「港の嬢ちゃんじゃねえか」

 背後から声をかけられた。身体が硬直して、深空は首だけ後ろを向く。

「なあにしてんだ? 並んでねえなら先行っちまうぞ」

 固く頷いた深空に、背の低い方の漁師は気にせずに並んだ。直三なおみと呼ばれていた方だ。しかし、一度列から外れて深空の方に向く。

「──今朝は済まなかったな」

「いや、もういいです……」

 深空にとっては驚いただけで、向こうの反応は過剰としか思えない。あまり蒸し返されるのも腑に落ちない。

 そんな深空の態度をどう解釈したのか、直三は、

「そうだ。昼飯前の腹ごしらえにこれ食ってくか?」

「あー……いや、大丈夫です。昼ごはん食べられなくなりそうです。というか何ですかこれ」

「何って巻きお好み焼きだろう。知らないのか?」

「知りません。初めて見ますよ」

「へへぇ……都会もんでも知らないのか」

 少し嬉しそうになった直三に深空は疑問をぶつける。

「お好み焼きって言いますけど、中に何が入ってるんですか?」

「そりゃお好み焼きだからキャベツは当然入ってるし、肉でもタコでもイカでも好きなもん乗せてもらえるよ。卵だって入れるか入れないか選べる。量だって注文通りに作ってくれっから小腹が空いた時にありがたいのさ」

 確かにお腹は空いている。それに量を調整してもらえばあの店でもきちんと食べられるかもしれない。だけど、もう昼食なら、食べないに越したことはないだろう。

「──何時までやってるんですか?」

「夕方までやってるよ。売り切れってことも無いしな。ああ、でも遅くなるとキャベツが少なくなったり無くなったり別のもんになるから気をつけてな。先週は夜近くに行ったら果物しか残ってないってクリーム入った甘いの出されてよ、まいったもんだぜ」

 それはただのクレープだ。そう指摘したかった深空だが、心の中でツッコむに留めて置いた。

 しかし、この店は面白そうだ。後で行ってみようと心のメモ帳に書き込んでおく。

「それじゃあ、お昼ごはん食べる場所探すので……」

「だったら港の前の『もてぎ』がいいぜ!」

 オススメの声を背に再び坂を上る。あの漁師は残念に思っているだろうか、と深空は少し思ったが、探すと言ったんだしと考えないようにした。

 深空は時間を確認する。11時2分。行ってもいい頃合いだろう。

 店の前に行くと、ボードにメニューが書き加えられていた。ハマグリとナスのリゾット、夏の白身魚とトマトのスープ、スルメイカとペンネのクリーム和え。どうもイタリア料理店らしい。看板は筆記体で書かれていて読めなかった。

 店のドアを押すと、ベルがちりりんと鳴る。店の奥から「は~い」という声とともにお冷とタオルとメニューを持ってさっきの女性が現れる。胸には「古野ふるのもえ」というプレート。彼女は深空を見るなり顔を明るくして、

「あらあら、来てくれたのね。セイちゃんなんて別の店に行きやしないだろうかって不安になって待っていたのよ」

「おい!」

 カウンターの奥から声が飛んだ。少し焦っているような怒ったような、恥ずかしがっている声。

「自分のせいでお客さん逃がしちゃったらどうしよう、って言ってたのは誰かしらね」

「客の前でそんなこと言うな!」

「逃げちゃうかもしれないわよ~」

「っっっ!」

 声が聞こえなくなるが、悔しそうな気配は唸り声と慌ただしくなった厨房の音で分かる。

「あらあら照れちゃって~。どうぞカウンターに座ってください。あ、注文はどうします? 後にしましょうか?」

「えーっと……じゃあ、ボードにあった白身魚とトマトのスープと、ご飯ってありますか?」

「うーん、スープならお米の料理は合わないと思うの~。パスタとかパンにしない?」

 店側が注文を出すのかと一瞬真顔になった深空だが、合わないと言われては返す言葉が無い。時間が早いこともあってか客は自分1人。だったら時間をかけて決めてもいいかとメニューを見せてもらう。

「……パスタだけでもいっぱいありますね」

「そりゃそうよ~。でもご飯みたいにいっぱい食べられるのは、こっちのリングイーネとかパッパルデッレとかタリアテッレかしら。太麺みたいで美味しいわよ~」

 そう言われても両者の違いは分からないが、深空は名前の雰囲気で選んでいく。

「じゃあタリアテッレを……」

「ソースは肉系と野菜系と魚介系があるけど、どうする?」

「じゃあ……魚介系で」

「了解しました~。あ、そうだ飲み物はどうする? アルコール大丈夫かしら?」

「大丈夫ですけど……昼間から飲むのはあまり……」

「そう? じゃあ水だけにしておくわ~でも飲みたくなったら言ってね~」

 ソフトドリンクという選択肢は無いのか、とは言えない軽さで厨房に戻っていく。店員と客の距離を測る物差しが無いのではなかろうかという軽さだ。と思ったらすぐに戻ってきた。その手にはパンとバターが乗っている。

「はい。お腹空いてるでしょ?」

「え、はい……でもどうして」

「そりゃ顔や身体を見れば分かるわよ~伊達に接客はしてないわ」

 胸を張って言う。さらにカウンターの向こうから身を乗り出して、

「ねえ、あなた、どこから来たの? 旅してるんでしょ?」

「それも分かりますか」

「分からない人の方が少ないわよ~。そんな恰好してたら誰でも分かると思うわ」

「ですよね……」

 バイクにスポーツウェアなんて、こんな田舎では必要の無い装備だ。そんな姿で町をうろついていたら嫌でも分かる。

「それで、どこから来たのかしら」

萌はずい、と身を乗り出す。積極的を越えた強引さに深空が椅子ごと身を引いた時、

「おい。料理できてるぞ」

「あら、早いのね」

「待たせるわけにもいかないだろ」

 男性がスープを持って厨房から出てくる。実際は萌の役割だろうに、油を売っていていいのだろうか……。スープを置いた男性の胸には「セイジ・ブルーノ」のプレート。おや、と深空は首を傾げた。やり取りから親しいとは思っていたけど、夫婦じゃなかったのか。

 その視線で何かを察したのか、厨房に戻ろうとするセイジの腕に腕を絡めて萌が言う。

「結婚はしてるのよ~でも、古野とブルーノだからそのままの方が面白いでしょ~?」

 当のセイジは舌打ちをして腕を振りほどき、厨房に戻っていく。残された萌は深空の前にスープを移動させて、

「夏の白身魚とトマトのスープです。魚は……多分キスじゃないかしら?」

 もう無視することにして深空はスプーンを手に取った。さらりとのどに流れるスープはトマトの甘さと酸っぱさが強い。だが、玉ねぎやジャガイモといった野菜を一緒に食べると甘みが強くなる。同時にしょっぱさも利いてくる。

 そして、キスと言われた魚を口に入れた。淡泊と思われるキスだが、肉厚で甘みも強くスズキのような感触。スプーンを入れればはらりと身が分かれるが、肉の弾力は健在。スープの旨味を吸って単調な味に終始していない。

 半分ほど食べて、深空はパンに手をつける。最初はバターをつけて、次は汁にひたして。固く麦の味が前面に出ているパンはそのままでは食べづらいが、他のものを乗せるベースとして優秀でより料理が香り立つようだ。

「──全部飲むなよ。タリアテッレだ」

 再び自分で皿を持ってセイジが顔を出す。

 白い皿の上に乗っていたのは濃緑に包まれた黄色。それを海老が彩っている。アンチョビソースと海老のスパゲッティみたいなものか、とフォークで口に入れた深空は、その思いを改めることとなった。絡みつくソースの味が濃い。アンチョビだけじゃなく、野菜の香りが口の中を満たしていく。その中に少しだけのニンニクが味を抑えているから驚きだ。それに負けずパスタの味がする。小麦の他に香料やハーブが混じったそれは、噛みしめるほどに味が混ざり、海老も加わった食感が歯を押し返してくる。

 噛んで、噛んで、合間にスープを飲む。タリアテッレに比べればスープはさっぱりとして、舌を休め口直しに丁度いいくらいだった。パンには見向きもせずに交互に食べていって──いつの間にかスープもパスタも無くなっている。唯一、皿に薄く張ったスープの残り汁やフォークでは取り切ることのできないソースが残ったままである。

「あら、パンは足りるかしら?」

「パン?」

「そう。このままだと勿体ないでしょ?」

 萌に言われて深空は気づいた。パンで拭うのだ。それはマナーが──と言いかけて、口を止める。それは日本の作法で、ここはイタリア料理の店だ。イタリア料理の作法は知らない。それに、店が勧めるのだから例え正式な作法ではなくてもOKなのだろう。

 深空はパンを千切った。凸凹の断面をスープ皿に押し付けて、丹念に磨くように汁を吸わせていく。固いはずのパンは驚くほど汁を吸って、次第にスポンジのようになっていく。

 半分ほど吸わせたところでパンをかじる。ふやけたパンだがそれでも弾力を失わないのは元の力強さがあるからだ。柔らかさも相まって、一瞬のうちに深空の腹の中に消えていく。

 残りを2つに割ってアンチョビソースを拭い取る。これもパンとの相性は最高で、スープのように柔らかにはしないものの、パンの風味と同居している。

「──ごちそうさまでした」

 夢中で食べきって、お腹は充分に膨れている。意外に量があったのか、少し重いくらいだ。

「どういたしまして」

 何をしていたのか分からない萌が再びカウンターの向こうから声をかけた。満足そうな深空の顔を見て彼女の方も満足そうに笑っている。

「ところであなた、何日いるつもりかしら?」

 お腹も満ちて落ち着いて、既に深空は突然の質問にも答えられる余裕を持っている。他に人もいない。この女性に対しては態度も言葉遣いも雑でいいだろう、と素を出した。

「適当ですかね。面白いものや美味しいものがあれば食べ尽くすまでは」

「じゃあ、このお店はどう?」

「あと2、3回来てから判断しますよ」

 つまり合格ということだ。

「まあそれは嬉しいわ。でも、泊まる場所はどうするの?」

「まだ決めてないですけど」

「だったら早くしないといけないわよ。わたしたちの時も、玄空さんがいなかったら大変なことになっていたもの」

「げんくう……」

 そういえば、と深空は思い出す。港の中年女性もその名前を言っていたではないか。

「町を見回っているとか」

「そうそう。この町に初めて来て泊まる場所がない~ってなった時に宿を見つけてくれたの。引っ越すときにも家の場所とか地元の人との交渉とか助けてくれたし」

「いい人なんですかね?」

「うーん……いい人じゃあないわね」

 断言が来て、深空はちょっと驚いた。このほわほわとした女性からそんな言葉が出るとは思っていなかったし、いい人じゃないと断定されたのも意外だった。

「じゃあ悪い人?」

「でもないわ。何て言うか……掴みどころも無いし……あ、でも声はいい声よ。ずっと聴いていたいわ。聴くだけだし、胡散臭いけど」

 げんくう、という人のことがますます分からなくなった深空だったが、あまり関わり合いになりたい人物とは思わなかった。何より胡散臭いと評されてしまう声が不審だ。

 しかし、それよりも気になることがあった。

「この町に越してきたんですか?」

「そうなの。6年前のことだったんだけど、主人が魚がいい~ってここにお店を出すことに決めて。でも田舎でしょ? イジメとか村八分とか怖かったから下見に来たの。そしたら車を止める場所はあるけど泊まるところは無いって早くも余所者イジメかしらって、もう車の中で寝るしかない~って。冬だったから死んじゃうかもしれないし。その時に玄空さんに会ったのよ。それならって民宿を開けてもらって、まあ少しお値段は高かったけど仕方ないわね。次の日に役場で引っ越しの相談をしてる時にも現れて、そしたらお店の場所とか移住とか簡単に決まったの」

 話し相手に飢えていたと見え、深空の質問に余計な情報まで加えて喋る喋る、同じくらい手を動かせばいいのにと思うほど。それでも息の継ぎ目を狙って深空は質問する。

「げんくうさんって何者なんです? 役場で話をしてる時に口を挟めるって」

 そういう場は当人と関係者しか列席できないはずだ。もしかして役場の偉い人なのか。

「警察の人よ」

 警察官。あっさりと言われて深空は1つ納得した。いつも町を見回っているというから余程暇なのかと思った(まあ無職で暇なのだとしても土地の持ち主ならあり得ない話ではないが)。

 しかし、ある程度の特殊性があるとはいえ、ただの公務員がどうして町のやり取りに口を挟めるのか。

「偉い……というか役職が上の人なんですか? それとも偉い人の子供とか」

「そういう話は聞いたことないわねえ。見ている感じ、普通の警察の人よ~?」

 だったらどうして。詳しい話を聞きたいと思った深空だが、それ以上の情報は出てこなかった。

「偉い人だったら陽花さんの方が偉いわよ~。顔が利くっていああいうことを言うんでしょうね~友人も第一線の漁師だし役場にも知り合いはいるし、市場の人とは顔見知りだし、確か結婚はしてなかったと思ったけど、女手一つで町の経済を半分くらい回してるっていうし」

(あの人そんなに偉い人だったんだ……)

 深空は朝食を奢ってもらった人のことを思い出す。都会の人に怯えていたようだけど、確かに男の漁師2人を相手に強気に出ていた(というか物理的に殴っていた)し、偉いというのは間違いないらしい。要するに、この町全体へのかかあ天下といったところか。

「じゃあ、げんくうさんと陽花さんだとどちらの方が偉いんですか?」

「それは玄空さんの方ね~。例えばこの店だって、本当は裏に置くつもりで、本来ならろしどおりになんて出せるはずじゃなかったのよ」

「降ろし通り?」

「本町と新町を分けてる真ん中の通りのことよ? さすがにこの店は新町側になったけど」

「本町と新町?」

「えっと、港がある方が本町っていって昔からある町の方ね。この町に最初から住んでいた人はほとんどそっちの方にいるの。で、そうじゃない方。この店がある側が新町。移住してきた人が多く住んでいる町。大きなお屋敷もあるし、前から町にいる人たちからは嫌われてはいないけど下に見られているっていうか、なんとなく別の町の人と思われているというか……」

 そこまで聞けば充分だ。深空も実際に体験したことは無いが、そういう面倒くさい新旧のいざこざがあるのは理解している。

「それで、この店はどうしてここに?」

 強引に話題を戻した深空に、話の流れは関係ないと萌は適当に話を混ぜて繋げる。

「そうそう、この店だけど、本当は新町の裏側に建てられる予定だったの。余所者だから新町の降ろし通りの向こう側に押しやっておけばいいだろうって心の声が聞こえたもの。そうしたら玄空さんが、そこだとよくないって言ってくれて、少し通りの上の方だけど降ろし通りに店が出せたの。──そうね。あの人たち、玄空さんの言うことに嫌がってなかったわ。こういう風に横から入られると誰でもよっぽど位が高い相手でも嫌な顔をするのに」

「それ、偉いっていうよりもっと別の何かのような……」

 言うことに無条件で頷くって、もはや洗脳と同じレベルでは。

「うーん、だけど降ろし通りって決まっても新町側っていうのは譲らなかったし、思い過ごしかも。それに玄空さんに気に入られないとダメみたいね~。町の人たちも基準は分からないって言ってるし」

 どっちなんだ、と言いたいがもう6年も前のこと。覚えてないのも無理はあるまい、と深空は深く考えない。それより当人に会わないことには始まらない。

「じゃあ、そのげんくうさんはどこにいるんですか?」

「それは分からな──」

 言葉は一瞬にしてかき消えた。ベルがちりりんと鳴って、新たな客が入ってくる。その時には萌の顔は、駄弁りながら暇を持て余して旅人にだる絡みをするおばさんではなく、ウェイトレスの仮面を被っている。

 1名ですか? お席へどうぞ。その声を聞きながら深空は立ち上がる。腹も満たされたことだしもういいだろう。

「お会計お願いします」

 はーい、との声に財布を出して会計を済ます。正直、2品も頼んだのは少し痛手かもしれなかった。現金は多めに持っているものの、カードが使えたりATMがあったりしないと長く滞在する分には厳しいかもしれない。

(単発のバイトでもあったらいいんだけど──)

 さて、そんなものがあったとして、余所者の自分が入れるものだろうか。例のげんくうという警察官に会えて、もし気に入られれば、何とかなるかもしれない。

 さて、どこに行こうかと深空は考える。さっき見る場所が不充分だった新町の降ろし通り側をもっと探索しよう、と決めた。それと警察官がいるなら派出所や交番があるはずだ。そこも特定して、もしげんくうさんが戻らなければ待ってみよう。

 予定を決めると行動は早かった。降ろし通りを上がり、さっき出てきた曲がり路に入る。最初の分岐を左へ。町を降りる方に進む。分岐があれば左へ。降ろし通りの風景が見えても、その間に何かないかと突き進む。昼ごはんの前に通った道でも構わず入っていく。

 ローラー作戦のようにしらみ潰しに道を歩いていく様子はどんなに奇怪だっただろうか。もしここが市場の中で、全体を見回り品物を見定める主婦だったらおかしな点はなかっただろう。だが、道に迷ったようでもなく真剣な顔をしてすべての道を行く少女は、ひとつ間違えば不審者として通報されてもおかしくない様子だった。

 その当人は、至極真面目に、かつ楽しんでいた。

 知らない町でも住宅があれば同じようで、しかし地形で見ると変わってくる。特に町全体が勾配のある土地にできているものだから、微妙なアップダウンを計算に入れて建てられている建物でもあればなおさらだ。とはいえ深空は建物にはそれほど詳しくない。違いがあるな、という気づきを大切にしているのだ。

 道行く人にそんな様子を訝し気に思われながらも道の終端、海が見えてきた。あと2つ3つの枝道を見て折り返そうかと思い、ふぅと息を吐いて空を見上げた。その空が、天を覆うように灰色を広げていた。

 水の音、と感じたのはすぐだった。ぱら、ぱん、ぱらら、ばらら、雲の切れ間から陽光が覗く中、大粒の胡桃のような雨がばらばらと音をたてて降ってきた。

「雨!」

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