風波 ー篠倉茉尋

「あ…………」

釘を刺されたように、二人その場に立ち尽くした。

咲。幾度となく呼んだ、彼の名前だ。

跡形もないほどに背丈は伸びて、白シャツに紺のカーディガン、刺繍の入ったスニーカー。生成りのトートバックを片手に、時を止めていたのは自分だったのかと情けなくなるほどに、大学生らしい姿をしている。

「元気?」

あのころからは思い出せもしないような、蚊の鳴くような声で茉尋は訊いた。あれほど別れが苦しかったのに、今はもう、今すぐ逃げ出したいと思うのであった。

「ん、まあね。俺高校でも生徒会長やってさ。高校の友達もいるし、それこそ――」

まずいと思った。もう貴方のことは全く好きではないけれど、次の言葉は聴きたくない。二人の微妙な空間を春風が吹き抜ける。遠い昔の記憶が薫った。メモを壊して、ペンを隠して、消しゴムで弄んだ記憶が、鮮やかに脳裏に浮かぶ。

これ以上ないほど幸せな顔をする私の声が聞こえる。これより眩しく笑ったことがあっただろうか?5年前、春、晴れた日の昼下がり。うたた寝をする私を起こす優しい声が聞こえる。「篠倉、ねえってば、困るって…」眉尻をきゅっと下げた彼の顔を何度も見た。私の、私だけのだった、大切な彼の―――

「彼女もいて、さ」

「…そう」

失恋なんかじゃないのよ。好きじゃない人なんだもの。

茉尋は湿っぽい笑顔で静かに返事をした。もう、天真爛漫な少女ではいられなかった。

咲は少し驚いたように目を開いて、そしてすぐに目を細めて笑った。おかしいくらい、彼は何も変わっていなかった。私だけのものだったその笑顔を、あの困り顔を、私でない誰かに注いでいるんだ。なんだか、私だけ置いて行かれたような気分だった。これが未練というものなのか。

「私は何も変わっていないよ。」

中学を卒業して、貴方に会えないのが苦しくて切った髪も、もうすっかり伸びて在りし日と変わらなくなった。茉尋は栗色の巻き髪を指に絡めた。引き留めるようだけど、彼女なりのさよならだった。

いや………、咲は何かを言おうとして、しばらく俯いて淀んで、また顔を上げた。

「もうすっかり、手の届かないひとに戻ったよ」

横をすれ違い去っていく彼の背中を振り返ることはしなかった。

「何なのかっこつけちゃって。彼女いるくせに。」

茉尋は誰もいない空へ呟いて、また歩みだした。

城のような白雲が、新しい季節を予感させる。


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出会い 野宮ゆかり @1_yoshino

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