紅花 ー高槻紅音

「紅音、お茶をお出しして」

はい、と短く答えて、お客様用のお茶を淹れる。60℃ぴったりのお湯に茶葉をゆっくり入れる。

60秒待って、少しずつ注ぐと、本気で淹れたお茶の完成。

横浜の少し先、桜坂に位置する創業170年の呉服屋・青丹屋が私の生家である。山吹の小紋に身を包み、店の手伝いをするのもなんの変哲もない日常風景である。

お客間にお茶をお持ちすると、私でも見知った顔が並んでいた。

あれは日本舞踊の第一党、宮園流の方々。総本家ではないけれど、宮園竹鶴の名前は何に劣らぬネームバリューである。向こうがお召しの訪問着も竹があしらわれていて、生地も上質なのがここからでも見て取れる。

「お孫さん、宝塚音楽学校に合格なさったんですって?」

「ええ、夢に向かって頑張る孫は涙を誘うわ。家を出ていくのは寂しいけれどね、ふふふ」

母の営業トークが弾む。宝塚、合格ってことは私と同い年くらいか。

いくら老舗といえども、呉服屋というだけで上流階級とこんなにも関われるのだからこれは運がいいと言うべきなのか…

公立高校に通う私からしたら、なんとなくため息をつきたくなる。

都内の一等地に住む方々と、横浜のどこにでもある丘陵地に住む私。

今の生活に不満はないが、上を知ることは自分の小ささを知ることになる。

失礼します、と指をついて店番に戻ると、軒先ですっと立つ青年と目が合った。詰襟が似合う好青年。私の愛読書、「白雲の果てに」で主人公が惚れる堂上の雰囲気をどことなく感じる。言い方は悪いが大正の好青年と言えば伝わりやすい。

「すみません、軒先に陣取ってしまって。宮園の者です」

きまり悪そうにはにかむ彼の顔を、真っすぐ見つめることもできずはぐらかすように夕空を見上げた。

「その制服…」

気まずくなる前にと必死に出した話題が癪に障るかもと、思わず口を噤んでしまった。

「ご存じですか?篤学園ですよ」

「やっぱり!中学の友人が通っているんです」

嫌な思いをさせなかったことにホッとして、思わず声が弾んでしまった。

だめだめ、向こうはお客様なんだから。

「篤学園は男子校ですよ?」

思ったところがあるのか、すこし煽るようにおちょくってくる。

「部活の同級生です、男子の友人がいておかしいですか?」

情けないくらい掌で遊ばれるように食いかかってしまうが、なんだかそんな自分も新鮮で面白い。

くすっと噴き出す彼の顔が斜陽に照らされ、その深い彫りがよりくっきり映された。その男らしさ、と言ってもいいのだろうか。上手く言葉に出来ないが、中学の同級生の高梨や高嶋にはない魅力に引き込まれそうになる。

「いや、僕はずっと男子校なので分からないんです。男女の距離感とか」

あ、そういうことか…苦笑いをするまでで気まずい雰囲気が流れた。

三秒くらいだろうか、沈黙の向こうに母と竹鶴さんの笑い声が響いた。

「妹さん、宝塚に入学されたんですね」

妹じゃなくて従妹です、と訂正されてしまいもっと空気が重くなってしまった。これはやらかした。もっとお話ししたいのに言葉が見つからない。

でも、と口を開く彼。

「夢を叶えた英子は尊敬していますが、僕には関係のない事です」

っ。重いこと言わせてしまった。しかし後悔よりも、今出会ったばかりのあなたの新しい顔を知れたことの喜びが勝った。その一見冷たい顔すらも深く美しく見えた。

その時奥の扉が開いて、竹鶴さまがいらっしゃる。すっとお辞儀をしてお迎えすると、こちらに笑顔を向けてくれた。

「紅音さん、今日もお店番偉いわねえ」

いえ、とかぶりを振ると彼が声をかけてくれた。

「あかねさん、というお名前なんですね。」

ちょっと鼓動が高鳴ったのは意表を突かれたからだろうか。顔を上げると彼ははにかんだ。

「申し遅れました。私、宮城松太郎と申します」

もう、もう目を合わせられない。

「高槻紅音です」

名前を言うだけで精一杯だった。

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