第九章 神の庭


 髪と頬に風を感じて、ドオオオ……と、水の音が聞こえた。

 ああ、裏山に滝があるんだな、と思った。

 それにしても空気が開放的だ。外界と隔てる壁を感じない。

 ひんやりした水気を肌に感じて、紅倉は目を開けた。

 ビビッドな感動が押し寄せた。

 真っ先に飛び込んできたのは鮮烈な赤だった。

 山に囲まれた谷地に居た。

 斜面を、赤が彩っている。

 赤がとびきり目立っているが、それだけではない。

 黒々した松を背に、もみじが、新緑を思わせる黄緑、盛夏の緑、そして秋の紅葉の、黄色、オレンジ、そして、真っ赤。

 バラエティーに富んだ紅葉が、山の濃い緑を彩っている。

 V字に切り取られた、真っ青な空。風に巻き上がったような雲がガラスのように輝いている。

 白い滝が三段階に豊かな水量で流れ落ちている。

 紅倉は思いがけず強い驚きでその景色を見ていた。

 滝を挟んで左の斜面は暗く、右の斜面は明るく輝いている。

 空からの陽光を反射して色彩を発している。

 紅倉は目でそれを見ていた。

 自分がまともな視力を失ったのはいつ頃なのか、果たしてこう言う景色を見た事があるのか、記憶になかった。

 三段の滝の最後の大きな水たまりのほとりに、厚みのある屋根に赤い柱の雅な東屋があり、そこに女の人が一人、長椅子に腰掛けていた。

 白い狩衣かりぎぬに赤い着物が下に覗いている。頭に金色の冠を付けている。

 少し距離がある。女の人は誘うようにこちらを見ている。

 紅倉は平らな石の並んだ道を歩んで行った。そう言えば板間に正座していたはずだが、いつの間にか立っていた。

 近づいて行った紅倉は思わず、

「み…………」

 と声を掛けそうになった。

 こちらを見て微笑んでいる女性は、芙蓉美貴にそっくりだった。


「まあ、座れ」

 女性は緋毛氈ひもうせんを被せたローテーブルを挟んだ向かいの長椅子を手のひらで指して言った。

 紅倉は腰掛け、女性と向き合った。

 女性は面白そうな笑みをたたえて紅倉を見ている。

「わたしが誰かは、分かっておるな?」

「ナカツシマヒメ(中津島姫命)様でいらっしゃいますか?」

 女性、ヒメは鷹揚おうように頷いて言った。

「この場はその名前でよかろう。

 おまえの趣向は面白かった。ここに招いたのはその礼だ。まあ、ゆっくり楽しめ」

「ありがとうございます」

 紅倉は礼を言って頭を下げたが、すぐにまたまじまじと目の前の顔を見つめてしまった。

「ケーキは美味かったな。わたしは苺のショートケーキが美味かった。今度から毎回供えるように」

「伝えておきます」

「ケーキも美味かったが、

 ……あの娘の体も良かった」

「そうでしょうね」

「わたしに寄越せ」

「それはお断りします」

「何? 神の所望を断ると?」

「あの娘はわたしの物です。どうしても欲しいとおっしゃるなら、わたしと一戦交えるつもりでどうぞ」

 ヒメは白い喉を見せて笑った。

「冗談だ。惜しくはあるがな。

 礼に呼んだのだ、もてなしてやらねばなあ」

 ヒメは柄杓ひしゃくを持ち、かたわらの、下からこんこんと水の湧くかめからひと掬いすると、銀のキラキラする黒い器に注ぎ、差し出した。

「飲め」

 紅倉は受け取り、口もとに持ってくると、固まった。上目遣いにヒメを見て。

「お酒、ですか?」

「わたしの酒が飲めないと?」

 睨んで、からからと笑った。

「いいから飲んでみろ」

 紅倉は気乗りしないながら口をつけた。

「あら、美味し」

「そうだろうが」

 ヒメは得意げにニンマリした。

 紅倉はもう一口、含んだ。とても香りが強く、熟した果実のような甘みがした。口当たりはさらりとして、すうっと喉を通って行った。もう一口。

 いい気分になって頬が火照ってきた。

「ささ、遠慮せずに」

 二杯めを注がれて、紅倉は警戒するようにヒメを睨んだ。

「わたしを酔わせてどうにかするんじゃないでしょうねえ?」

 ヒメの顔が顔なのでつい妖しい想像をしてしまう。ヒメは紅倉を見ながら笑った。

「よほどこの姿が気になるらしいな? これが、おまえの思う最も美しい女の姿なのだろう?」

 妖艶な眼差しに見つめられて、紅倉はカアッと体が熱くなった。ヒメはまたからからと笑った。

「おまえの読み通りだ。子どもらの悪戯をわたしは特に怒ってはおらん。オオヤマどのが怒られたら大事になってしまうのでな、代わりに怒ってやったまでだ。上手く事を納めたおまえには感謝しておる。だから安心して素直に楽しめ」

 ほれほれ、と促されて紅倉は二杯めを飲んだ。美味し過ぎて、癖になったら困るなと思った。

 ヒメの顔も見ていたいが。

「少し歩いてみてもかまいませんか?」

「うむ。かまわないぞ」

 ヒメは自分も器に酒を注いで、それを持って立ち上がった。それで紅倉も器を持って立ち上がった。

 周りを眺めながら滝の落ちる池を巡った。

 滝の裏側へ行ける道があった。

「滑って転ばぬよう気をつけろ」

 ヒメに言われて、紅倉はしぶきで濡れた岩の道をしっかり一歩ずつ踏みしめて歩いた。

 ザアザアと広く落ちる滝の裏側に来た。

 滝越しに山の斜面を見た。日を受けた紅葉のキラキラした輝きが揺れた。

「最高の景色だろう?」

 隣りに立ったヒメが自慢げに言って口につけた器を傾けた。紅倉もならって酒を飲み、

「本当に、綺麗ですね」

 と、しみじみ言った。


 谷道を歩いてみた。ずうっと両側に山が続いていて、滝の水が流れる小川がずうっと続いている。

「この先はどうなっているんです?」

「さあてなあ。いずれは、人間の世界に続いておるのかのう?」

 ヒメはとぼけて言うと、

「紅倉美姫よ」

 と、改まった声で呼びかけた。紅倉は立ち止まり、ヒメと向き合った。

 ヒメはおごそかな笑みをたたえてじっと見つめると、

「わたしはあらゆる道を示す最高位の神だ。おまえの進むべき道を見てやろう」

 と、じっと見つめる目の力を増した。

「ふむ。おまえは、ろくな生涯を送れそうもないなあ。

 東と西の移動はまあ、よし。

 北と南の移動は、よくないのう。

 特に南は悪い。京都には来るな」

「それは困りました。あそこには用があるので」

「では来た折には松尾の本社に顔を出せ。それで礼を尽くしたと見なして守ってやろう」

「ありがとうございます」

「しかし」

 空から降ってきた葉っぱをつかんで、紅倉に見せた。

「この土地には入ってはならぬ。移動の必要があっても素通りして、決して留まってはならぬ。よいな?」

 モミジより大振りで、大きく三つに分かれた形の葉だった。紅倉はその形を確かめると、訊いた。

「ここに行くと、どうなるんです?」

「死ぬぞ」

 ヒメはこともなげに言い切った。

「死にますか」

 ヒメは紅倉の心情を見極めるように深く目を見つめ、言った。



「人が神に望むのは何か? 平穏や豊かさを望む者が多かろうが。


 この国を、再び神の国にしたいと望む者たちがいる。


 それを喜ぶ神もいる。


 紅倉美姫。

 おまえはこの国の神がどういう物か、分かっておるだろう。

 わたしがこの姿でおまえの前に立っているのが一つの例えだ。

 これは、おまえが望んだ形だ。

 この国の神は、人の思いにわりに忠実なのだ。


 この国を神の国に戻したいと望む者たちが、神にどうあれと望むかだ。


 それがひたすら心清らかな思いであればよいが。

 果たして、どうだろうなあ?


 紅倉美姫。

 その者たちはおまえを監視している。

 自分たちの運動に賛同するか、敵対するか。

 せいぜい気をつけて、慎重に行動することだ」



「ご忠告、ありがとうございます」

 紅倉は丁寧にお辞儀したが、ヒメは冷ややかな眼差しをその頭に向けていた。

 紅倉が顔を上げるとニッコリ微笑み。

「わたしの趣向も楽しんでもらったようでけっこうけっこう。

 しかし。

 どうもおまえは神を軽く見ておるようで、腹が立つな」

 紅倉は、いえ、決してそのようなことは、と弁解しようとしたが。

「最後に、神の力を思い知るがいい」

 ヒメの姿が強い眩しい光を発し、周りの景色も滲んで白い光になり、

 紅倉の意識は真っ白な光の中に吸い込まれて行った。




 はっと気づくと、

 景色は曖昧模糊あいまいもことした暗いかすみに変じていた。

 元の世界に戻ってきたことを知って、紅倉はガッカリした。

 もう二度と、鮮やかな色彩をこの目で見ることはないだろう。

 しかし。

「はてな?」

 自分はどこに居るのだろう?

 大気のざわめき、木々の臭いが感じられて、どうやらまた外に居るようだ。

「う〜〜〜む」

 困った。周りがどうなっているかさっぱり分からず、うかつに動けない。

「美貴ちゃん……」

 芙蓉はどこに居るのだろう? 近くに居る気配は感じられない。

 下の方でわいわいがやがや、人の騒いでいる声が聞こえた。

(えっ?)

 自分がどこに居るのか、見当がついて、思わず腰が引けてしゃがみ込んだ。


 せんせー、どこですかー!?


 芙蓉の必死に呼んでいる声が聞こえた。

「美貴ちゃん…………。た、た、た…………」


 たすけてーーー、美貴ちゃーーーん!!


 紅倉は必死に助けを求めようとするのだが、まともに声が出るまで、たっぷり五分間は掛かってしまった。

 紅倉が居たのは、松尾神社の裏山の頂上だった。

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