優しい先生



「なるほど、それで本日からの勉強をメオディティウス卿と共に受けたいと。」


 本日のお勉強の時間。メオディティウスをお勉強に誘ったということもあり、シルヴィオ先生がいらっしゃるまでにちゃんとメオディティウスの分の椅子も用意した。

 二人並んで座って、先生の眼鏡の奥の瞳を見つめる。


「ニーナ様の願いを叶える事は私の本望でもありますが、残念ながら致しかねます。」


 眼鏡を中指で押し上げ、光の反射で目から表情を伺えなくなってしまった。優しい先生ならきっと許して貰える、そう思っていただけに開いた口が塞がらなかった。


「私の家、ハウテザー伯爵家は魔族との交流に関してをさせて頂いております。ですから、私個人で魔族との関わりを持つことは許されないのです。」


 これが所謂、大人の事情というやつなのだろうか。社交会はおろかデビュタントも済ませていない私は貴族たちの立ち位置や派閥など、全く知らずに育ってきた。

 それでも、私がお姉様の顔に泥を塗らないように大人しく自室で毎日暮らす言いつけを守るのと、先生もお家のスタンスを守ることは一緒だと理解出来た。

 先程まで一緒にお勉強できるね、なんて仲良く会話を交わしていたメオディティウスに申し訳なくなって、彼の方をちらりと見ると呆れたような顔をしていた。嗚呼、先生に確認をせず思いつきだけで行動している事に呆れられちゃったのかな。

 行き当たりばったりで浅慮な自分に呆れる。


「わかりました。──無理を言ってごめんなさい。メオディティウスも、期待させてごめんね。」


 二人へ頭を下げる。メオディティウスは少しだけ寂しそうな顔をするだけで何も言わなかった。先生は私が頭を下げることを止めた。


 お勉強の時間は先程先生が言った理由と同じような事から、魔族であるメオディティウスには私の部屋から外す事となった。

 私の予想図の通りに行けばそこには生意気な彼が座っているはずだった椅子が視界に入る度、心に冷たい風が通り抜けた。

 お勉強中、私が問題を解いている時間に先生が少しだけ席を立った事以外は昨日のように滞りなく進んだ。


「──はい、これにて本日の授業も終了となります。お疲れ様でした。」


 数時間のお勉強が終わる言葉と同時に大きく息を吐いた。もとよりお勉強は得意ではない。特に母国語のお勉強は書いてばっかりだから、目や肩や腰や腕や、あちこちに力を入れすぎて硬くなっちゃう。


「私の授業にも慣れたかと思いますので、本日は宿題をお出ししますね。」


 先生の顔は甘くて優しい。天使のような微笑みだと私もそう思うし、きっと誰もがそう思う。

 でも。でもっ。身体中を酷使した後にさらりと笑顔で言ってしまう、宿題という悪魔がもたらしたかのような単語をその笑顔で言われてしまうと、思わず泣きたくなる。


「知識とは、人から教わるだけでは定着しません。では、どうすれば定着するでしょうか。」


 へとへとに疲れた頭では先生の問いにまともな答えが見つけられない。そもそも、先生の質問を半分も理解出来ていない気がする。

 とにかく、悩むふりをして解答を待つ。待つ。待つ。


「───沢山書く、とかですか。」


 残念ながら思考しない事は許されなかった。いくら待っても先生も私の返答待ってくれるものだから、考える力を使い切った私でも何か声にしなければ進まないことは理解した。


「そうですね。書くことにより身体に覚えさせる。そちらも素晴らしい案なのですが───もう少し楽しく、知識を定着させる事が出来る方法があるとしたら。」


 どうやら正解ではなかったみたい。確かに私の答えは平々凡々。極々普通極まりない答えだった。

 だからこそ楽しく覚えられるという有り得ないような組み合わせに、興味が湧いた。


「教えられる、の逆です。逆に、ニーナ様が教える立場になってみましょう。」


 逆。私が教える。先生の教え子である私が、先生に教えられることなんであるのかな。


「誰かに教えるということは、何より自分が理解していないと出来ませんよね。そこで、今回はニーナ様が誰かへ授業をして頂くという宿題を出させて頂きます。」


 先程宿題という単語だけを聞いた時はなんて絶望的なのだろうと悲観してしまったけれど。誰かに教えるなんてやったことがないし、そんな機会もなかったから色んな意味で初めてとなる宿題に私の心は既に大きく動いていた。


「ただ授業をしてください、というだけでは難しいかと思われますので、今回はこちらの参考書を使って下さいね。」


 私の前に差し出された、手のひらに収まるほどの参考書。

 表紙を見れば「犬でもわかるアクバル語」と書かれている。なんともユーモア溢れるタイトルだなぁ、と笑みをこぼしてしまう。


「授業のテーマは、ずばり『文字の習得』です。」


 先生の大きな手のひらにすっぽりと収まっていたその参考書を手に取りぺらぺらと捲る。

 この本は初めて誰かに開いてもらったのか、ずっと閉じ込められていた紙とインクの匂いをあたりに放つ。


「この国で使用されているアクバル文字を、ニーナ様の教え子に習得して頂けるよう頑張ってみて下さい。─あぁ、ちなみに。教え子はニーナ様が自由に決めて下さって構いません。文字を知らぬ赤子相手でも構いませんし、文字なんてとうに知っているお姉様方でも構いません。」


 文字を、習得してもらう。

 教え子を誰でもいいと言われて、頭の中に誰が当てはまるか考える。

 文字を知らない赤ちゃんなんて私の周りには居ない。ましてや忙しいお姉様達の時間をとってまで、こんな初歩的な授業をしてもいいのだろうか。否、優しいお姉様達なら私の勉強のためであれば快諾してもらえるだろうけど。

 私は王宮内でも出会える人物に制限が掛かっている。かなり候補は絞られてくるのだけれど。


「──────。」


 居た。

 一人、居た。

 私と会うことが許されていて、私のために時間を割く人で、さらにさらに、文字を知らない、あの騎士が。


「本当に、本当に教え子は誰でもよいのでしょうか。」


 私があの騎士の事を思い浮かべて尋ねているのだと先生は全て見透かしたような笑顔で、お茶目に片目だけを閉じて。


「えぇ、勿論。教えるのはニーナ様であって、私はその方に直接関与しませんから。何の問題もありませんね。」


 このお勉強を始める前、冷たく突き放されたと感じた。大人の事情ならば仕方ない、為す術もないと簡単に諦めた。

 最初、先生はこの参考書を持っていなかった。けれど、私の我儘をどんな形でも叶えようとお勉強の途中に思いついて、わざわざこの参考書を持ってきて下さった。

 どれ程優しい先生なんだろう。

 私が先生から学んだのは優しさだけでなく、一度否定されたり、不可能な状況であろうと視点を変えて臨めば何か手がかりがあるということ。

 駄目ですという言葉だけで思考を止めて立ち止まってはいけない。


「ありがとうございます、シルヴィオ先生。本当に先生は優しくて、優しくて、素晴らしいです、大好きですっ。」


 感動のあまり、思うがままに言葉を紡ぐ。

 先生も私を慈愛に満ちた瞳で見つめ返してくれる。


「文字の習得という基礎的な内容であっても、人に教えるという事はそうそう出来る事ではありません。何かつまづく事がありましたら、いつでも私に聞いてくださいね。」


 興奮する私を抑えるように私のブロンドの髪を撫ぜる大きな手のひらと、落ち着く声。

 こくこくと頷いて、小さな参考書を大事に胸でかかえる。


「では、私はこれにて失礼致します。」


 先生が私の部屋から退室するのを見送る。扉が閉じて見えなくなっても、その扉を見つめて余韻に浸っていた。

 艶やかで美しい黒い髪。知的な眼鏡の奥には、先生が好んでつけているラピスラズリと同じ青い瞳。声は甘く優しくて程よく低い。いつも白と青を基調とした服に身を包まれていて、清潔感溢れる出で立ち。あまりにも美しい顔立ちは中性的に思わせるのに、大きくて厚い手のひらは確かに男性だと理解させる。

 昨日、初めて出会った時は噂通りの美しい人という認識だけだった。けれど、私の危機に駆けつけてくれたり、私のために怒ってくれたり。また、貴族が何よりも重視する家のスタイルを曲げてまで私の我儘を叶えようとしてくれる優しい心。

 先生に心を奪われるのは、あっという間だった。

 撫でられた頭が妙にもどかしい。そわそわして浮き足立って、なんだか落ち着かない。


「はぁあああ。」


 ため息をつく。陰鬱なそれではない。

 もし、このため息に色をつけるとしたら。それは淡いピンク色。


 そこで、はたと犬でもわかるアクバル語の表紙に描かれた犬と目が合う。

 一気に頭の中は冷静になって、先生からの宿題を思い出す。

 メオディティウスに文字を教えてあげることになった───これもまた私が勝手に決めたことだ───けど、人に教えるなんて上手く出来るだろうか。

 きっと先生と入れ替わりでやって来るであろう、待ち遠しいけれど、生意気な彼を思い浮かべて笑う。





────────────────







 赤い、柔らかな絨毯が続く廊下。

 長い黒髪を揺らす男は、ぴたりとその歩みを止める。男が立ち止まった理由、魔族の少年が廊下の真ん中で傲慢にも我が城のように闊歩していた。

 男は眉をひそめて奥歯を強く噛む。魔族を見るだけで青い炎が胸の内で強く燃える。存在だけでこんなにも癪に障るというのに、と男は心の中で独りごちる。

 しかし少年は、男のそのような反応すら楽しむように鋭い犬歯を覗かせて妖しげに笑った。


「魔族との交流はか。物は言いようだな。詐欺師が本業じゃねぇのか、おまえ。」


 アクバル王国ではまだ冷える季節。それなのに少年は薄い服と厚みもない靴。王宮の中でみすぼらしい見た目が異質なのではなく、寒さを全く感じていないという、異質。

 男は王女と接している姿からは全く想像も出来ないほどに冷たい瞳と、低い声で、少年の挑発に乗る。


「さて。なんの事でしょうか。」


 態と白々しく、両手を肩まで挙げてみせる。

 まともに相手をするつもりは無いという、誠実さの欠片も無い態度。


「よく言うぜ。青い装束に、あちこちラピスラズリの装飾品をつけて。あの王女はアホで気づかんかもしらんが、お前どう見たってヴェス──。」


「ニーナ様、もしくはニーナ王女殿下とお呼びしなさい。」


 ぺらぺらと器用に男の神経を逆撫でする言葉ばかりを選ぶ少年の言葉を、途中で遮る。

 しかし、男が許せなかったのは自身を蔑称する単語等ではなく、王女を馬鹿にする発言であった。

 先程までの挑発では乗りもしないと余裕げに少年を見下ろしていたはずの男が、酷く美しい青の瞳を細めて、睨んでいる。

 睨まれた少年はというと、おぉこわ、なんて思ってもいない言葉を態と漏らして口の端を上げる。


「──あ、違う違う、お前に聞きたいことがあったんだよ。」


 先程まで挑発していたというのに、剣呑な雰囲気を勝手に追っ払った少年は呑気に自分の用事へ男を巻き込む。

 無神経さ、脈絡のなさに、男はまた湧き上がる怒りをなんとか飲み込む。


「ロジェスティアって名前の人間の女を知っているか。」


 男の感情が刹那、止まる。ロジェスティアという名前で僅かに瞳を大きくした後、男は瞑目する。


「知っているも何も、アクバルの国民であれば殆どの人が彼女の名を知っていますよ。未曾有の魔女として。」


 閉じられた瞳からは感情を伺う事などできない。呆れているのか、何かを憂いているのか、はたまたいつかの遠い記憶を瞼の裏に描いているのか。


「そーゆー事じゃねぇんだけどな。まぁいいや。喧嘩売って悪かったな。」


 黒く、鋭い爪が伸びた手をひらひらと力なく振ると、少年の方から歩き出してそのまま男を通り過ぎる。


「待ちなさい。」


 通り過ぎて間もなく、男は少年を呼び止める。少年は気だるそうに首だけ振り向く。


「その名───絶対にニーナ様の前で口にしないように。彼女の実父である王を殺害した魔女の名を。」


 国王を殺害した、未曾有の魔女ロジェスティア。その女の名前を、王の娘である彼女の前で口にしないよう念入りの忠告をする。

 少しだけ沈黙が場を支配した後、少年は「はいはい」と返事をしてまた歩き出す。

 男は一抹の不安を覚えながらもそれ以上彼を引き止める事などできず、反対方向へ歩き出した。






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