第一章
四人目の王女
「──っ、やっぱ、り、届か、っ、ないっ」
大きな窓をめいっぱいに開いて、私よりいくつも年上の大木が伸ばす茶色の腕に手を伸ばす。
私のお気に入りの、ピンクのドレスの広い袖がなんとも鬱陶しい。
近いように見えて、遠い。
その事に気がついた時、窓の下が視界に入る。
遠い遠い地面。
「やっぱり今日はやめとこ───」
今日も、だけど。
毎日あの木に手を伸ばしては、この部屋から抜け出すことは出来ないかと画策して、明日へ先延ばしにすること数ヶ月。
この部屋から抜け出すためにあの大木に目を付けたのはいいとして、そこからあの木を掴み、木に飛び移り、地面に降りるなんて芸当、ただの姫である私に出来るはずもなく。
遠くで聞こえる街の喧騒を恋しく思い十六年。
私はニーナ・アクバル。三百年もの歴史を紡ぐ大国の第四王女。
────の、はず。
という不安に私が駆られるのも、この部屋にほぼほぼ閉じ込められているのも、私は国民に知られていない存在だから。
八年前、私を披露目するパレードの下見に、馬車で向かったお父様とお母様が事故で亡くなられてから、パレードは当然のように中止。私という四人目の王女の存在を、国民達に知られる機会は失われた。
それから、私は当たり前のように隠されるようにして生きてきた。
王宮でも私の私室は端っこのほう。専属の侍女は一人だけ、移動して良い場所はお姉様が鍵の管理をする図書室、王族だけ立ち入る事が許された中庭、お姉様達と食事をする部屋、それらを行来出来る一通りの少ない廊下。
こういったふうに、徹底して私は人の目から隠されるようにして育ってきた。
幼い頃はこれが当たり前だと思って、狭い世界を享受していたけれど、私も思春期の十六歳。
まるで小説に出てくる主人公のように外を自由に歩き回ってみたい。───決して、今ハマってる小説の影響ではない。
ただ、お姉様達は同じ王宮内を自由に歩き回れるのに、なぜ私だけこんなにも窮屈な思いをしなくちゃいけないの───そういった疑問を抱くようになるのは至極当然の話。
「なんて、今更───」
ひとりごちて、言葉をため息で濁す。
今更、外の世界に期待なんて。頭では分かっていても体が落ち着かない。
結局、窓から飛び降りてでも脱出しようと思わない私は、臆病者で自分から何かを変えられる強さをもってない。
本当に小説の影響を受けたっていうなら、もうとっくに主人公のように猪突猛進に、勇気と魂を燃やして飛び出してしまっている。
レジーナお姉様に何か一言ぐらい言えている。
「─────っ」
私の処遇をレジーナお姉様のせいにしようとしてしまって、思考をかき消すようにふかふかのベッドへダイブする。
そう、これはレジーナお姉様の考えあってのこと。
だから、レジーナお姉様を疑ってなんていけない。
違う、レジーナお姉様に嫌われるのが怖いだけ。嫌われることに怯えているだけ。
全部、私が臆病なだけ。
────これで、じゅうぶん幸せだから。
思考停止。現実逃避。
分かっているけれど、八方美人の臆病者には、これしかできない。
「そうだ、今日から新しい先生になるんだっけ。」
思考停止、現実逃避の先、思考の変換。
毎日のお勉強を担当して下さる先生が、子供を身ごもられたとかで、今日から新しい先生が来る。
私のたった一人の侍女、スーザンに新しい先生はどんな方かと尋ねてみたら、有名な家柄の貴族のご子息で、その賢さと美しさの噂は凄いんだそう。
スーザンは噂好きだから、きっとそう囁かれてる事には違いないんだろうけど、その噂がどこまで真実に近いかは分からない。
まぁでも、噂通りなら嬉しいけれど。
──────────────
「ニーナ様。今日より教育係として仕えさせて頂く、シルヴィオという者です。」
ノックの後、ドア越しに澄んだ男性の声が聞こえる。
私の声のトーンは気持ち高めに、どうぞ、と返事を返す。
現れたのは白が基調の品のある装束を纏った、艶のある長い黒髪が特徴的な男性。
碧眼はゆっくりと細められ、優しい笑顔を浮かべている。ジャボには先生の目の色と同じラピスラズリのアクセサリーが鈍く輝いている。
「改めまして、ハウテザー家の長男、シルヴィオ・フォン・デアトリッヒ・ハウテザーです。これから宜しくお願い致します。」
先生が頭を下げると、さらさらの髪も重力につられて落ちる。あまりにも綺麗な仕草に、我を忘れて魅入ってしまう。
「────あっ、えっと、はじめまして。第四王女ニーナ・アクバルです。こちらこそよろしくお願いします!」
慌てて私も挨拶をする。人目に触れないように生きてきたから、はじめましての挨拶をする事なんて少ない。上手く出来ているかしら。
ちらりとシルヴィオ先生の反応を伺うと、口元は笑みを浮かべているのに、目元は憂いを帯びたように、悲しげに揺らいでいた。
何故、初対面でそんなにも儚い表情をするのか。
「ありがとうございます。ニーナ様はどうぞお掛けになって下さい。」
表情の理由が気になったけれど、どう尋ねてよいものか考えていると、先生は私の椅子を引いてかけるように促した。
もう一度顔を覗くと憂いの帯びた表情はどこにもなかった。
「前任の教育係から、ある程度の引き継ぎは行っております。──ニーナ様は歴史が苦手のようですね。」
今度は目元まではっきりと刻まれた笑顔。
ただただ美しい顔はそれだけで儚さを演出したのかと思わせるほどの、笑顔っぷり。
けれど、そんな美しさに見惚れたままにもいかなくて。
「え、えぇ。あの、歴史は学んだところで、その、あまり役立つようには思えなくて、えへへ」
なんとかそれらしい理由をたてて、歴史について学ばなくてもいいと思えるような、そんな説得をしようと思ったけれど喉の奥が詰まったように痛く感じて、まともな言葉など出てこなかった。
「そうですね。ニーナ様は歴史学を教養の一つだと、勘違いされてらっしゃる。」
へらへらと緩めていた口元を引き締めた。ただのお勉強の一科目でしかない、という認識を真っ向から否定されてしまった。
私の顔が強ばるのを見た先生は優しく微笑んで「今はそういった考えの人が殆どになってしまいました」と付け足して私の考えをフォローする。
「歴史とは、人が犯してきた過ち。また、当時は愚策と弾圧された思考や行動は、長い目で見れば最善であった。何百年、何千年、幾人もの人を犠牲にして作り上げた道が、要点にして纏められたものなんですよ。」
先生の言葉にただただ耳を傾ける。
私には関係の無い時代が、私には関係の無い過去が、まるで私を興味の海へ誘うように手招きしている。
なんて単純なんだろうと自分自身を笑いたくなるけど、それ以上に先生の青い瞳は情熱的で言葉に説得力をもたせた。
「つまり、歴史を学ぶということは人生の様々な分岐点において、どちらかを選ぶ際必ずニーナ様の助けになるということです。ましてや、人の歴史を動かす一人になる可能性を秘めた王女であればさらに。」
城下町の様子も遠くから眺めるだけ。王宮騎士団でも私を知るのはほんの一部。王女であって、王女でないような扱いを受ける毎日に、私が人の上に立つ可能性のある人間だと自覚したことが無かった。
先生だって私がそういう王女だって知ってるはずなのに、ちゃんと立派な王女として考えてくれたことがあまり賢くない私でも理解できた。
「はい。───ありがとうございます。」
本当は私も王女の一人として扱われたかった。お姉様達の隣に並んでも、お姉様達が笑われないような王女になりたかった。
先生は私がそんな王女になるために、こうして目の前に居てくれている。
感動に近いような感情は飲み込むのに少しだけ時間を要して、俯いて握る拳を見つめた。
「ところで。ニーナ様は愛する人はいらっしゃいますか?」
突然な話題の転換に「えっ?」と間抜けな声を漏らして、先生の顔を確認してしまう。
とても大事な話をしてくれたのに、突然恋バナ?
「あ、えっと、まだ、そういう人は」
居ない。居るわけがない。
ただでさえ人目を避けるようにされてるのに、そんな私が素敵な男性と巡り会って、情熱的な恋愛の中に身を置くなんて出来るわけがない。
そもそも愛した人が居たとしてもお飾りの王女である私に、きっと恋愛の自由は無い。
「そうですか。──歴史には、愛が溢れていますよ。」
まるで突拍子も無かった会話が意味を持つ。
先生の言葉の意味は分からなかったけど、今の会話も私が歴史を学ぶ上で重要なことを話していたと理解する。
「愛とは何も、恋愛だけに当てはまるものではありません。愛する家族のために、愛する故郷のために、愛する自分の意志を主張するために。歴史とは、そんな愛が行動理念となって紡がれています。」
語る先生に、魅入る。
「人は、愛するなにかのために行動します。歴史だってそれが分かれば理解しやすくなるはずですよ。」
柔らかそうな黒髪はさらりと流れる。長いまつ毛が少しだけラピスラズリの瞳を隠す。薄い唇が弧を描き、顔のパーツは黄金比そのもので。
何気ない所作である全てが、先生の言葉に耳を傾けさせ、先生の語る姿に見蕩れさせる。
「先生も愛する人のために行動するのですか?」
気がつけばそんなことを訊ねていた。
頭の中で思考していないという事実は、既に言葉を漏らしてから気がついた。
私が歴史に興味が湧くようにさせるためにした質問を、私はただただ愛する人が居るのか確かめたくて訊ねてしまった。
「────。」
少しだけ、間が空いた。
先生の瞳に動揺があらわれた。けれどそれはすぐに隠されて、優しい微笑みに変わる。
まずいことを聞いてしまったかもしれないと発言を訂正しようと口を開きかけたその時、先生の大きくて少しだけ荒れた手先が、私の手を取る。
そして先生の口元まで手を───。
「私が愛を誓うのはニーナ様、貴女だけです。」
微笑みはどこにも無かった。
美しい顔立ちが中性的に思わせていたけれど、真剣に私を瞳で射抜く先生は大人の男性なのだと本能に理解させて、胸が熱く、痛くなる。
「──────っ。」
小説の中の素敵な騎士のような。
手のひらへのキス。忠誠の証。
私は一人の男性として先生に愛する人は居るのか訊ねたつもりだった。けれど返ってきたのは教育係として、従者の一人としてのやりとり。
そうではないのだと否定しそうになるけど、咄嗟に言葉を飲んだ。
「───ありがとうございます。」
高鳴る胸に、言い聞かせる。うわつく思考に、言い聞かせる。
勘違いしないで、先生のような素敵な大人の人が私を相手にするわけなんてない。
ニーナ・アクバルという王女に忠誠を誓っているだけ。
「では、本日の勉強を始めましょうか」
先生は私の手を優しく膝の上へ返すと、また微笑んだ。
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