第6話 今を生きる

 Enterキーを押した。

カチッと闇夜に沈み込むように押されたキーボードの音は、静寂さをより際立たせた。マンションの一室の灯りが、ノートパソコンに向かう田河 実たがわみのるを映し出した。

 「やっと一段落ついた。」

 そう言ってパソコンから目を離して後ろを振り返れば、笑っている雁井かりいなずなの顔がそこにあることを欲してしまった。いや、後ろにある本棚の一角には、田河と隣合い笑う少女の頃の彼女の写真がひっそりと飾ってあった。

 田河は、写真を1秒見つめると胸の前で手を合わせた。

縁起でもない素振りなのかもしれない、だけども、学生の頃あんなに傍にいた田河となずなはもう会うこともないほど離れてしまった。

会いに行く理由など見つけられないでいる。

いつも、なずなは、田河と仲良くしておきながらも、別の同級生を追いかけ恋愛していた。なずなが不登校になった後も、頼って訪ねたてきたのは田河ではない、別の同級生の男子だった。そんなこんなで田河ばかりがなずなを思っているのもしゃくだった。そうした現実のすれ違いは、もう会いにいくのも躊躇ためらい永遠に会えないものだと思った。

なずなが、訪ねて来ない限りは…。どちらにしろ実家を出て一人暮らしだからもう会うことなんて本当にないんだろう。

あの頃の、少しでもお互いに思い合えた思い出を…

手を合わせながら感謝と、そして思い出の埋葬をした。そうでなければ、雁字搦がんじがらめになってしまうような心の痛みが、今でも田河を支配していた。


 田河実は化学関係の企業の研究員だった。希望の国立大学に入学して卒業しそしてやっと就職できた会社だった。勤続10年と長くキャリアを積んだ。職場ではベテランの扱いで主任研究員に昇格するのは間近だと思われる。

 今日は、別の工場に出張前夜で、今日の分の研究の成果をパソコンに向かってまとめていた。もう夜も更けて時計の針は2時を指していた。

 「明日は電車で行こうか。」

 出張先はさほど遠くはなかったが、午前一番に行かなくてはならない。寝不足で車の運転は万が一を考えて控えなけらばならない。ひと呼吸して鞄にノートパソコンとUSBメモリをしまい、財布やら明日の必要なものを確認した。寝巻に着替えてさっと布団に潜り込むと束の間の睡眠をとった。


 (もう一度検討が必要か。)

 電車の中、自分が主力になって開発した製品を出張先の工場で試作した結果の書類に釘付けになっていた。

気を払うことも忘れて深く沈み込んだ座席、もたれかかった背中に、ガタンゴトンと電車がゆるく音を刻みながら揺れる。さっきから駅については扉が開閉して人が出入りしているのも気にかける余裕もない。自分で選んだ希望の職種で好きな仕事だが、開発がうまくいかない時は深いトンネルをくぐるように心はくぐもり、なんとか更正しようと働かせる頭は重くなる。田河は脳がショートしないように気を付けながら新しい手段を探す。

 すると、どこからか聞き覚えのある声が聞こえた。

 「アハハハ。」

 どこか懐かしそうな声にピリッと脳は反応し、うすら顔を上げた目線に、思い浮かぶのは少女のなずなの笑み。

 相手に気づかれないようにそうっと声のする座席へ目を向けた。年月の経過を感じるとはいえあまり変わらぬ声、田河の同級生でなずなと同じバレーボール部だった女子、優等生だった少し背の高めの松本一佳いちかさんと、ちょっと気が強い美人の近藤柚子葉ゆずはさんだ。二人は向かい合って座っていて両脇にはショッピングバッグがいくつも置かれていた。30代らしく少し落ち着いた服装だったが、髪は綺麗にセットされ、座席の間からのぞく瞼にはシンプルだけれど鮮やかなアイシャドーが光っていた。

 「今日は、旦那が娘の面倒みてくれるし、久々に一佳と遊べて楽しかった!」

 「うん、本当、日頃のうっ憤が晴らせた感じね!」

 「やだ、一佳ストレスたまってんの?」

 「だって共働きなのに旦那、家事も育児もあんまりやってくれないからさ。

  それで時々イライラして旦那のこと無視してる笑。」

 「えー無視くらいで済むの?この間なんてうちは旦那と言い合いになったよ!」

 「何したの?」

 「だって旦那、娘を甘やかし過ぎなんだもの。

  小学校から帰ってきて靴は脱ぎっぱなし、

  荷物は散乱してて片づけないでゲームばっかしてるから娘を叱ったら

  旦那が娘の肩をもつのよ?!」

 「あーそれあるある。娘ちゃんいくつになったんだっけ?写真見せてよ。」

 「うん、一佳の子供も見せて。」

 田河は隣の隣の座席にいてバレないか冷やっとしたが、そのまま出来るだけ音を殺して聞いていた。

(もうみんな結婚して子供を産んで家庭を持っているのか。)

田河はスマートウォッチの時刻を見れば今は夜の19時過ぎ、製品の実験をし直したくて急いで出張先を後にしたのだからそんなに遅くはない。

19時…小学生の頃の習い事を終わった後、なずなと見つめ合って笑ったあの夜の景色をまた脳裏によみがえった―が、首を振って消した。田河は同級生の会話から耳を離し、今から再度職場に行かなければならないことに思考を巡らせた。


 だけれどもものの数分でまた集中を妨げられた。

 「そういえば、あの子…なずな、どうしてるのかな?」

 噂によると同窓会にだってなずなを呼ばない彼女たちだから、まさか、なずなの事が話題にのぼるとは考えてもいなかった。田河は心がズキッと痛むのを止められなく注意深く会話に聞き入った。

 「なずな…は元気にしてるんじゃない?顔だけはかわいいし。誰かに愛されて…もう結婚してたりして。」

 「あの頃は…大変だったよね、勉強に部活どっちも忙しくて。授業やっと終わったと思ったら部活で、体力使って家に帰れば宿題が山のようにあって…。」

 「一佳は優等生だったからね。うちなんて宿題諦めて適当だったよ。それでもやっぱり毎日疲れたなぁ。」

 「私はいい高校いっていい大学に出て就職しなきゃって思って、親にも期待されてかなりきつかったなぁ。だから部活で足をひっぱるなずなのこと受け止めてあげられなかったなぁ。…あの後、なずなは不登校になっちゃうんだもんね。」

 「まあ、気にしなくていいんじゃない。私たち最後までなずなと部活動したんだし、すれ違っていくのも仕方ないよ。多少は接し方きつかったかなぁとか、気になりはするけど…。」

 「はっきり言ってなずなが不登校して学校さぼってるって少し軽蔑してた。不幸になっても自業自得だと思った。だけど、やっぱり人それぞれ個性もあるからみんな同じじゃないよね。今は元気にしてたらいいなって心底思うよ。」

 「うんそうだね。若い頃はうちも色々イライラしてたけど、結婚して出産して家庭生活積んで落ち着いたわ。まぁ、なずなは、幸せでしょう。もう私たち関係ないけど、不幸になって欲しいなんて思ってないよ。」

 「結婚とか、噂で聞けたらいいのにね、本当みんな知らないのかな。」

 「さぁ、どうなんだろうね。

  ところでさ…この後、駅前のイタリアン行かない?」

 「あー老舗のね。あそこ私らが中学の頃には既にあったよね~。学生の時、お小遣い親にねだってみんなで女子会したね!旦那には遅くなるって言ったの?」

 「夕飯も食べておいでってやけに優しいLINEが来てたよ!ほら!」

 「わーかわいいスタンプまでついてる。まめで優しい旦那だね!私も旦那にお願いしちゃおう!」


 電車の窓に、街灯りが滲む。田舎で薄暗い町を通り過ぎてきた後だったから、やけに明るくにぎやかで眩しく見える。―地元に帰ってきた…。

 「次は〇〇―○○です。○○線ご利用の方はこちらでお乗り換えください。お降り際はお足元に気を付けてください。」

 電車のアナウンスは昔から変わらず何世代もきっと受け継がれていく。日用品、家電、自動車…様々なジャンルで新製品が出来、デジタルトランスフォーメーションが進められている今、急速に世界は進化していっているが、それでも変わらない何かがある。

田河は少し重たくなった身体を振り払うように電車から降りた。

同級生が先に出て少し遠ざかった後で。

涙は流さない。

溜めていた雫は、巡り合えた成田奏の小説の世界の言葉と言葉の間にそっと沈めた。

(なずなは笑うだろうか?)

 今の会話をきいて。

電車は再び前進する。

もう戻ることの出来ない道の先へ時は巡っていく。

(この企画商品が成功して市場に出回ったら、

 なずなは手に取って今より進化した新しい明日を迎えることができる、だろうか)

 無常に過ぎる時の残酷さに逆らって今と未来という運命を切り開くために、田河実は職場へ急いだ。

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