第5話 成長する心と現実

 青々とした葉をつけた木の枝が空に向かって伸びている。

昼下がりの眩しい太陽の光から逃れるように空を覆う木の葉に視線を向けた。

真っすぐ前に向き直れば、湿気っぽくぬるっとした空気の中で黄土色の土が、平らにならされていて何事もなくそこに広がっていた。

 「“何でこんな所まで来てしまったんだろう。”?って思いました?」

 田河実さんが屈んで僕の顔を覗き言った。

何事にも無駄を作らず飾り気のないこざっぱりした雰囲気の男性だが、それに似つかず睫毛まつげが長い。そのせいか親切そうなその性格に更に愛嬌もいくらか加えられている。

(なるほど、世渡りがうまいわけだ。)

僕はどことなく何かに敗北を感じ、そしてここは雁井なずなの母校の運動場の片隅だという事実を認めた。あと、田河実さんの…。


 僕は、如月さんとの面会を終えた後に、どうしようなもない気持ちが暴走し、田河実さんからのファンレターに返事を書いてしまった。

 「会って話が聞きたいです。」

 手紙にしたためられた言葉。柄にないストレートな言葉。

自分の書いた手紙を見返して、あたふたと動揺してももう止められない。切手を貼りつけポストの中へと落ちていった。


 それから1週間経たずに返事が来た。

連絡先と空いているスケジュールが提示されてあった。

僕は、手紙を読むなりメールをし、そして今日の待ち合わせの約束をした。―


 運動場の鉄棒や登り棒、うんていなどの遊具は綺麗に塗装され整備されていた。だけれども僕のくぐもった目は、隠し切れない年月と錆をとらえ失われた時間を語る廃墟のように見えた。

あの日、あの頃…少なからず笑っていただろうなずなさんの息を耳の奥の方に感じ、そして行方が分からないような生き方を今していることに思いを寄せた。


 「なずなちゃんに、似てるってわけではないけど、

  成田さんってどこか暗闇を抱えている感じがしますね。

  学生時代苦労されましたか?学校、楽しくなかったとか…。」


 僕は腕を田河実さんの目の前に差し出して制止した。

 「僕の話はいいですよ。」


 「ああ、すみません、ごめんなさいね。」

 田河実さんはすまなそうに瞬きをし、そして愛想笑いをした。

 「僕も…ここまで成田さんに来てもらったのに…何話していいんだか、

  自分は一体何をしているのか…分からなくなってしまって。」

 またくしゃっと微笑んだ。何もかも受け止めて上手に積み直せる大人の顔だ。


 「今日は日曜日でイベントも無い日だからこんな風にがらんがらんですが、

  そうですね、運動会の日、なんかは、本当に人で埋め尽くされますね。

  にぎやかにぎやかで…。」

 田河実は少し気まずそうな空気を割くように話し始めた。


 運動場のどこからかにぎやかに歓声をあげる学生と保護者の姿が目に浮かぶ。

白いテントを飾る旗が揺らめき、

ピストルの耳をつんざく音と、青空に昇った煙と雲…。

 

 「運動会の日、徒競走の時、

  コースのカーブでぽ~んっと・・・

  なずなの褐色の運動靴が宙に舞ったんですよね…。

  まだ小学校1、2年生の時、だったかなぁ。」

 そう言って、僕らは運動場のカーブの辺から空へ見上げてみた。

今はあるはずもない小さなかわいい靴が空へと上っていくのを見ていた。


 「なずなは、慌てて靴を拾い上げ履いてコースに戻って走りぬいた。

  表情は少し汗ばんでいたが何事もないようなすまし顔で、

  靴が脱げちゃったことなんてなかったかのようでした。

  なずなは、おっちょこちょいだけれど、芯が強い子だと思いましたよ。」


 思い出話は、僕となずなさんの心の間にある隙間を埋めていくように生きた温かいものを流し込んでいった。


 「僕となずなは小学校1、2年生の時に同じクラスで、

  その後はしばらくは別々のクラスだったけれど、

  5年生の時に再び同じクラスになっていた。」

 風は優しく二人の間を通り抜けた。田河実さんの目線の先には頑丈で大きな白い校舎が覗いている。真ん中に高々と付いている時計は15時を指していた。

 「相変わらずなずなは手先が不器用で、

  図工や家庭科の時間は人より時間がかかって作品を作ってた。

  出来ないのを少し隠すように屈んで真剣に作ってた。

  

  そして相変わらず算数は苦手。

  先生に出された問題をみんなで解く時、

  なずなは、なかなか正解が出なくて

  席から立ち上がって先生に回答を提出出来ないでいた。

  1、2年生の時は、見兼ねた僕がそっと教えに行ったけど…

  その時は、もう、僕らは10歳を過ぎていて思春期に入り始めてた。

  なずなの幼かった顔は、少し顎がとがり始めてそして…

  どことなく女性らしい体つきになり始めていた。

  ためらいと恥じらいが僕にもあった。

  どうしても教えに行けなかった…。

  結局タイムオーバーで、先生は、黒板に答えを書き始めた。

  先生が解説するのをなずなは必死になってノートに写してたかな。

  その頃から、だったかな。

  僕らはもう肩を慣れべて歩けないんだと、どことなく感じ始めていた。

  そして、僕のなずなへの好意は

  一体どんな“好き”なのか考えなければならない時期に来たような気がした。」


  思春期の心は複雑だ。僕もそう、10歳を過ぎた頃にインターネットを彷徨う様になった。素直な子供心では生きていくのが難しくなる歳頃で、でも大人になりきれてもいない。それでいて心はどこか頑固で理想を求めようとした。

僕を好かない人はクラスには居たし、どちらでもない人も居たけど、みんなそれぞれ大人になっていく自分を上手に創り上げようと必死で感情と感情がぶつかり合うようなそんな年頃だった。なずなも理想と現実との違いの中で戦う皆の中であぶれて、どこか孤独になっていったんだろうか。

そして、恋心もまた…。身体の成長と心が一致せず、戸惑いを抱え始める時期だ。大人になった今でも恋心と相手を包み込む責任というのをうまく嚙合わせるのは僕は、苦手だ。


 田河実は、さっきまですらすらとしゃべっていたのに、段々と言葉が重くなっていった。

 「勉強、頑張っていたよね。なずなも。

  中学に入ってからはテストの順位も上がってた時もありました。

  だけどそれも生まれつき不器用で要領悪いから

  少しずつ低速していったのでした。

  学校では部活などで人間関係もうまくいかなかったし、

  家庭内でも親が離婚した。

  僕も日々に追われ、また思春期のなんともいえない心に戸惑い…

  話しかけられませんでした。」


 少し屈んだ田河実さんの身体は少し震えていた。

そして二つの握りこぶしは柔らかくでもしっかりと握りしめられていた。


 そして彼は、最後に言った。

 「僕らもこのツタと樹のように上手に噛み合って共生していけたら良かった…。」

 

 目線の先には大きなケヤキ。

身を隠すように細々とした名も分からないツタが太い幹にさり気なく絡みついていた。ツタの柔らかな葉はケヤキを汚さず彩っていた。お互いに共生して生きる自然美と生命力を感じた。



 「僕らの話を小説の題材にされるのですか?」

 帰り、乗り込んだタクシーの中で僕の耳元にそっと田河実さんが訪ねてきた。

田河実さんは地元を離れているらしく僕らは駅までの道のりは一緒だった。


 「いいえ。でもこの話のイメージも元にして絵本のような詩文書こうと思っています。」

 僕はなるべく丁寧に答えようと思った。

僕の返事を聞いて田河実さんはうっすら微笑んだ。泣いた後の笑顔のように…寂しげででもどこか何かに満たされているような…そんな表情だった。


 「僕は、彼女を…愛してますよ。」

 「ぇ?」

 「男女関係の愛、ではないです。

  人として、僕は彼女と彼女の生きざまを愛しています。」

 田河実さんは、何かを決意したように言った気がした。

いいや、決意ではなく別れを覚悟して言ったのかもしれなかった。なずなさんと二度と会う機会がないかもしれないことを。

 

 「バレンタイン、幼稚園の頃と小学2年生まではなずなからもらってたんですよ。

  なのに、クラス離れたらもらえなくなってしまって、

  小学校5年生の時、やっと同じクラスになったのにくれなかった。

  しかも別の男の子にあげてた。僕が一度ももらったことない手作りのチョコを。

  まぁ、クラスの友達がチョコをあげるって言いだして

  一緒につくったみたいですけどね。笑。」

 言い訳めいても聞こえる明るいいわゆる失恋話だった。


 愛とは難しい。

愛してるなら、なずなさんの傍にいてやれよ。

そう思ってしまう。

だけどそれぞれの歩みの違いは、運命の複雑さは、必ずしも理想通りに傍にいることも叶わないことだってあるだろう。

ただ、どこかでその身の幸せを祈り続けること、それも、“愛”、なのかもしれなかった。

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