廃校舎(5) 不幸な出会い

 林田秋菜が山根公典と知り合ったのは偶然だった。秋菜は父親の遺品のチェス盤を見つけたのを契機に、楽しかった頃の小学生時代を思い出すように、週末には”あきお”というハンドル名でインターネットでのチェス対局で息抜きをしていた。秋菜のチェスの腕前は、コンピュータスキルと同じようにセミプロ級だったが、一人だけ何度対局しても勝てない相手がいた。それが、ハンドル名”はむてん”だった。”あきお”の攻撃型チェスに対して、“はむてん”は攻撃を受け流す守備に徹したチェスを指した。いつも序盤は”あきお”の優勢になるが、いつの間にか逆転されて”はむてん”に負かされていた。

 チェスのインターネット対局はネット上のハンドル名で行なわれるので、本名はわからない。しかし、秋菜はどうしても知りたいという好奇心に負けて、悪いとは思いながら封印していたハッキングスキルを使って、“はむてん”の本名や経歴を調べあげた。秋菜は、“はむてん”こと山根がチェスを教えてくれた父親と同じ生命科学の研究者であることに、驚きと同時に因縁めいたものを感じた。

 秋菜は、山根のことをもっと知りたいという欲求に負けて、新人銀行員・林田秋男と偽って、山根の職場にメールを送った。山根も突然送られてきたメールに最初は不審に思ったが、メールを重ねる毎に趣味のチェスの話などで次第に打ち解けっていった。秋菜が山根にメールを送って二ヶ月くらいたった頃、山根から秋菜に、サークルへの誘いが用件の短いメールが届いた。

《私が時々参加するチェスのサークルが今週末、メンバーの自宅マンションで行なわれます。良かったら、一緒に参加しませんか。参加可能なら詳しい住所を送ります》

 秋菜は大いに迷ったが、パソコン画面ではない実物のチェス盤で対局できる機会を逃したくないと、参加することに決めた。参加を決めたメールを送った後で戻ってきた返信メールには、マンションの詳しい住所と、場所がわからない時の連絡先として山根の携帯番号が書かれていた。山根にはマンションの下で待ち合わせたいと、さらに返信した。

 サークル当日の開始時間十分前、秋菜は山根を見つけて待ち合わせ場所に近づいて行った。しかし、山根は辺りをキョロキョロ見回すばかりで、秋菜には視線を合わせなかった。

「こんにちは。林田です」と秋菜が山根に声をかけた。

「林田さんの妹さん?」

「いいえ、私が本人です。今まで嘘をついてて御免なさい」と秋菜が深々とお辞儀をした。

「――あなたが林田さんですか? 驚いたなぁ、女性だったなんて! チェスの豪快な駒さばきから、マッチョな青年だと勝手に想像していました」

「想像通りじゃなくて申し訳ありません。本当は林田秋菜と申します。今日はお招き頂いてありがとうございます。林田さんとお会いして対局できるのを楽しみにしていました」

 その日の山根との対局は、いつになく動揺した山根の終盤のミスで、初めて秋菜が勝利した。

    ☆

「林田さん、そろそろ来るはずなんだけど、道に迷ったのかな?」と思いながら山根は気を揉んでいた。自分の方に近づいてくる若い女性は山根の視界に入ってはいたが、脳の中では関係ないものとしてデータ処理されていた。その女性が急に声をかけてきたので、山根は本当に驚いた。

 秋菜と一緒にサークルが開催されているマンションに入ると、サークルのメンバーが一斉に「山根さんが彼女を連れてきた」と冷やかした。サークルのメンバーはほとんどが中高年の男性で、山根のような青年でさえ珍しかった。ましてや若い女性が参加することは、サークル始まって以来の珍事だった。

「仕事で忙しいと常々言っている山根さんが、こんな綺麗なお嬢さんをどこで見つけたんですか?」とサークルの主催者が声をかけた。

「僕も今日初めて会ったんですよ。彼、いや彼女とはネットの対局を通じて知り合いました」と山根が釈明した。

「まったく驚きましたよ。山根さんがいきなり彼女を連れてくるもんだから」

「か、彼女じゃありません。林田さんが困っているじゃないですか」と言いながら山根が困惑していた。

「林田です。今日は山根さんからお誘い頂きました。こういうサークルに参加するのは初めてです。よろしくお願いします」と秋菜がメンバー全員に挨拶した。

「挨拶が済んだところで、さっそく対局しましょう。お嬢さんの棋力はどのくらいかな?」と主催者が聞いた。

「小学校の頃は父とよく対局していたんですが、ネットの対局でチェスを再開したのはつい最近で、十年振りくらいです。ですから、自分の棋力は良くわかりません」と秋菜が答えた。

「それじゃあ、まず私と対局してみましょう」と主催者が言った。

 秋菜は、山根を除いたすべてのメンバーと次々と対局したが、一度も負けることはなかった。最後は、秋菜と山根の対局になった。

「サークル最強の山根さんが負けるわけにはいきませんね」と代表が山根にハッパをかけた。

「山根さんには、まだ一回も勝ったことがないんです」と秋菜が言った。

「全力を尽くします」と山根が言って対局が始まったが、山根の終盤のミスで秋菜が勝利した。

「今日は運が良かっただけです」余りのチェスの強さに驚愕しているメンバーに秋菜が言った。

 このサークル参加をきっかけとして、山根は秋菜とサークル以外でも時々会うようになった。二人とも話すのが苦手で、一緒にいても会話はそれほど弾まなかったが、山根は秋菜の優しさと賢さに次第に惹かれていった。

 山根が付き合い始めて半年後、山根が上司の逆鱗げきりんに触れて大学を辞めることになった。普段から連絡は頻繁ではなかったが、一週間ほど秋菜とは連絡を取っていなかった。山根は意を決して秋菜に電話をかけた。

「もしもし、林田さん。山根です。一週間ぶりだけど元気にしてた?」

「山根さんこそ、こんな時間にどうしたの?」

「――」

「――大学を辞めることになった。しばらくは、チェスもできそうにない・・・・・・」と山根声をしぼり出だすように話した。

「どうしたの? 理由わけを聞かせて!」と秋菜が聞き返した。

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