第43話 温泉紳士のたしなみ

「なんだ、細波か」


 私は内心の動揺を隠し、平静を装いながら言った。特に意味の無い強がりだ。細波もまた温泉を堪能していたので私の言葉が耳に入ることはなかったらしい。ふうっと深く息をついた。それから十分に身体が温まるやいなや、細波が立ち上がり私もそれに続いた。


 私たちは一言も交わすことなく、だからといって迷うこともなく、サウナ室へと向かった。


 温泉を楽しむ上で欠かすことのできないのが、このサウナというものである。限界まで身体を温め、すぐに水風呂へ浸かり、そして身体を外気に晒す。すると今度は身体のみならず頭に残った澱みさえも抜けて、どこかへ飛んで行ってしまう。有り体に言ってしまうとするなら、これがものすごく気持ち良い。発見した人に惜しみなく称賛を浴びせたい。私はこれを細波から教えてもらった。細波がどこでこれを知ったのかはわからない。


 私たちはサウナで身体を蒸し焼きにして、それから水風呂へと赴いた。時折目を合わせて同じタイミングで動くことはあったけれど、その間もやはり言葉を交わすことはなかった。水風呂から出て浴場内に常設してあるベンチに腰掛ける。柔らかな風が皮膚をくすぐって心地良い。頭の中にある膿が融けてくだけて消えていくのを感じた。もう一度、今度は先ほどよりも深く、ふううっと息をついた。


「それで、近江はどうするんだ」ふいに、細波が口を開けた。

「どうって……、なにが」私はどきりとしつつもそう返した。

「とぼけるなって。俺とお前の仲だろ。隠し事はなしだ」


 これはさすがに聞き逃すことはできない。細波の方こそ隠し事だらけじゃないか。しかしそれを直情的に言ったところで、のらりくらりとかわされるのがオチだ。


 ちらりと横を見た。細波もまたこちらを見ていた。はじめてきちんと細波の目を見た気がした。今まで何度も私を助けてくれた親友の目を。


「……お前はどこまで知ってる?」私は極めて厳かな声を出した。


 まさか細波と腹の探り合いをすることになるとは思ってもみなかった。


 多摩タヌキを巡るこの数日の間、思えば細波がいちばん不思議な男であった。『ボス』のところでくつろいでいたかと思えば、太郎坊と私の家を訪ねて来た。多摩タヌキのことも既に知っていた。私と一緒に『ボス』に捉われ、ドクター・ニコルの下から私たちを救出した。ポコと私を合流させて、今またひょっこりと姿を現した。細波がこれまでどこで何をしていたのか私は知る由も無いし、最悪『ボス』に取り入ったことすら考えられる。


 細波は私の問いに対し、驚いたように少し目を見開いた。


「お前、言うようになったなあ」

「こっちのセリフだよ」


 私の言葉に乗せたトゲが細波に届いたかどうか定かではない。細波は飄々とした顔で聞き流し、簡潔に言った。


「どこまでどころじゃない。全部だよ。全部知ってる」


 細波は私にでなく、どこにでもなくそう呟いた。それは疲れ切ってため息をつくようにか細く響いたようにも、はっきりと私の耳に届いたようにも思えた。騙しインチキ出鱈目だらけの細波の口から出たとはとても思えない。それこそ真実の言葉とも表現するべきものだった。「全部か……」同情して私は呟いた。「全部さ」細波もまた独りごちた。

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