君の声にノイズが混じる。

みっきー

第1話

「すきなの、あなたがすきなの」

 だけどもう耐えられない、なんてみっともなく声を震わせた。かちゃりと左手薬指に嵌っていた指輪を置いて、口をきゅっと結ぶ。特にその行為に意味はなくて、約半分、記入済の離婚届の上に置かれたそれがただただ綺麗に見えるだけだった。けど、私にはお高くついた輪っかより、無料で貰える紙切れの方が素晴らしいものに見えて仕方がない。


「…………なんでだよ、嫌いなら嫌いって言えばいいじゃんか」

 不機嫌そうに、悲しそうに、ぐちゃぐちゃのダークマターを頬張るように、君は涙の膜を張る。嫌いになるところなんてない、直してほしいところはあっても、好きなところはあっても。君に伝えたところで、「だったら離婚なんて認めない!」と声を荒らげるだろう。口の形を変えなかったのは賢明な判断だ、と、思う。

「ごめんなさい……」

 理由も言わずしおらしく、くすんくすんと涙を袖で拭う。気味の悪い女だと、結婚しなければ良かったと、いっそ罵ってくれればいいのに。優しくて、優しすぎる君は泣きそうな顔をする。赤ちゃんみたいに、口元を歪めて、眉尻を下げる姿は、普段大人びている彼からは想像もできないものだった。ギャップ萌えという月並みな言葉で心の揺らぎが表現できたとて、離婚するという意思は絶対だ。変わりもしないものを強請ったところで時間の無駄であることくらい分かっている。

「……悪いところは直していくから。たしかに、時間はかかるかもしれないけど」

 ああもうまどろっこしい。ぐしゃぐしゃと髪を手で見目の悪いものにした。離婚届に必要事項を書き込むのなんて数分もかからないのに、離婚したいしたくないの水掛け論はおよそ数十分もの間続くなんて。「あなたのせいじゃないのよ、でもね……」「だったらなんでだよ、なあ、」あんまりにも生産性が無さすぎる。2倍速で再生したいほどで、そうしたところで、何ひとつとして結論は出ないまんまだ。


「………………嫌いよ、嫌い。あーもう、そういうところ! 正直言って鬱陶しいし、しつこすぎる!」

 なんて半ば泣きそうになりながら、聞き分けが悪いだとか、揚げ物もびっくりの胃に優しくない性格が嫌いだとか、突然ヒステリックになる女。君はぱちぱちと瞬きをして、項垂れた。

「………………そう、か。…………うん、わかった。離婚、しようか」

 なんて煮え切らない態度で、まだ納得できていないんだけどと言わんばかりにぶすくれて、それでいてスラスラと文字を紙に現していく男。

 ちぐはぐで、でもいつかは望んだ景色で。笑いを隠すこともしなかった。小さなボールが白をなぞる音がするだけの無言の空間に、いつ見ても綺麗な文字ね、と声を落としても返事は返ってこなかった。ふたつの指輪が机上で仲良くしているだけで、じわりと離婚届が透明な血で滲んだだけで。



「じゃあ、今度荷物取りに来るから。それで最後ね」

「…………ああ」

「……嫌いじゃなかったわ、べつに」

「…………知ってるよ」

「そういう傲慢なところは嫌いかも」

「は?」

「うそうそ」

 家を出て、お互いに泣き腫らして真っ赤になった顔で、ぐずぐずと別れを告げる。ミーンミンミンミン、と太陽ですらを焦がしそうな喧しい蝉時雨の中では、不似合いの光景だった。

本当は別れたくない、と女が口にすれば、男は悲しそうに嘲って、ぎゅっとスマホを握りしめる。


 お前が不幸せなのは、俺を愛したからだよ。


 一生解けない、王子様のキスがあっても、魔法があっても、絶対に解けない呪いをかけて。







『なあ、あのさ…………いや、いきなりこんなこと言われてもあれだと思うけど……その、俺、さっき妻にフラれちゃってさ、いや、ほんと何言ってんだって感じだと思うんだけど』

 たすけてくれ、

 懇願するような声が耳元で鳴る。その響きは、砂糖たっぷりのチョコレートより、世界で一番甘い物質であるラグドゥネームより甘かった。ブルーライトが目を攻撃する。ぼろぼろと流れる雨はそのせいだと思うし、イヤホンからも、スマホからも同じ声が聞こえてくる。ノイズ混じりの哀愁が。

 カチカチ、とマウスをいじれば、ひとりきりで部屋の真ん中で縮こまっている君の姿が映る。


 あは、やったあ。

 ようやく離婚するんだあ。


 相談相手が、信頼しきっている女が、電話の向こう側でブルーライトを浴びて恍惚としているなど露知らず、君はぐずぐず泣いているのだろう。おばかさんなところも可愛いなあ。

「……そっか。ねえ、今からそっち行ってもいい? 話したくなければそれでいいけど、そんな状態の君を放っておくのは、なんだか気が引けて……」

『………………ああ、わかった。俺の家、オートロックだから、入口でこの番号使えば開くから……』

 知らぬが仏というように、君は私が何度も使って、使い古した番号を口にしていく。親の顔よりも見た番号よ、それ。そんでもって、一番憎い番号。だって、どこの馬の骨かも分からない女との愛の巣への鍵じゃない。そんなもの持っていてほしくはない。

「そう。じゃあ、くれぐれも変なこと考えないでね」

 うん、ありがと、

 弱々しい声を出して、君はパタリと床に横になる。体を痛めるわよ、という言葉はしまっておいて、代わりに「すぐ行くよ」と気休めにもならない言葉を吐いて、ぶちっと丁寧に通話を切った。


 左手で触れる、新聞の文字を切り貼りして作った「離婚しろ、さもなくばお前の命はない」とチャチで安っぽい脅迫文。何度も何度も複製して、金属製のポストに入れた。時間も全部全部計算して。ねえ、あの女は君との結婚生活より自分の命が惜しかったのよ。残念だね。


 べつに私、君が許してくれるなんて毛頭思ってない。許されなくていい。そもそも、誰と付き合ってもいーよ。ただね、私を頼って、私がいないとダメで、赤ちゃんみたいな君でいさせてくれないような女は御免なだけ。


 ……言ったところで伝わんないの、

 知ってる。


 愛のカタチだってたくさんあるわけだし、私を狂わせたのは君なわけだし、責任はぜーんぶ君にあるよ。

 なんてね。

 首にかけたお守りと、大きなテディベアを撫でながら、口を三日月にする。


「ざまぁみろ」

 奪うからいけないのよ、ばーか。







 とでも思っているのだろうか。

 君は詰めが甘いから。


 盗聴、盗撮、GPSアプリを俺のスマホにダウンロードしている。異様にバッテリーの減りが早いだとか、見たこともない空虚に満ちたアプリが入ってるだとか、違和感を感じないわけがない。それなのに、君はバレていないと思っている。俺のことを心底ばかで救いようもない阿呆だと思っている。

 そうして、こっそりと泥棒のような君が家に来る度に電気代が跳ね上がる。おおよそ、盗聴器やカメラをそこかしこに仕掛けているのだ。しかも毎度毎度、最新型を。何処にあるのかはなんとなく分かっているが、近づけば警戒されるどころかバレていると君が気づいてしまう。だから何も触れずに生活してきた。

 その上、絶対なものなんてひとつもなくて。ポストに入っている脅迫文を彼女しか見ていないわけがなくて。よくドラマで見るような無機質なくせに感情がダダ漏れの紙切れに笑いが込み上げてきたのも、良い思い出だ。というと、離婚届というのも生で見るのは初めてだったけど、こうなることは前々から分かっていた。


 君は、俺がダメダメで、君にしか縋らないことがお望みなんだ。家事は地球が引っ繰り返るくらいできなくて、仕事はできてもストレスはひとりで抱え込んで、耐えられなくなったら君に相談する。家族や友人、恋人でもなくて、君だけに。「こんなこと君にしか相談できないよ」「たすけてくれ」なんてわざとらしく甘い声で言って。


 つまりは君に「都合の良い俺」が好きなんだろ。


 でも君は、俺と付き合うなんて選択肢は考えてもいない。脳の隅っこにもなければ、どれだけ連想ゲームをしても思いつきもしない、ヒントという答えが与えられた謎解きですらできないのだろう。

 それに俺、性格悪いから。嫉妬に狂う君の方がよっぽど見たいんだ。「君のせいで何かがおかしい」「人生を狂わされた」「どうしようもなく君が欲しい」と言わせたい。そのための駒なんだよ、彼女は。君の可愛い姿を見るためならバツイチになるくらい、そこそこの女の付き合って結婚生活を送ることも、造作もないさ。

 なんてな。


 君はばかだから、単純で純粋で、可愛くて可哀想。こうやって悪い男に引っかかる。心配にもなる。変な壺を買いそうで、路地裏に引き込まれて臓器を売られそうで、信じきっている男に騙されそうで。いや、最後のは取り返しがつかない。もうずいぶんと前から手遅れなんだけど。


「ばかだなあ」


 俺が君にあげたお守り、

 盗聴器とGPSが入っていて。

 君にプレゼントしたテディベア、

 目がカメラになってるんだ。


 ……言ったところで信じないよな、

 知ってる。


『ふふ、ふふっ、あー幸せ!』



 ああ、

 世界でいちばん可愛い、

 君の声にノイズが混じる。

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君の声にノイズが混じる。 みっきー @miki0316

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