第3話  漠然とした近未来

 特撮に限らずの話であるが、世の中作品と呼ばれるものには、少なからず時代設定が存在する。

 その作品で描かれる時代が一体どんなものなのか?世界観はどうなのか?というのは、作品を考察していく上で非常に重要な要素の一つといえる。

 では、『ウルトラマン』のそれは一体どうだったのだろうか

 

 本作では、主人公ハヤタが所属する科特隊という組織が登場する。正式名称が、これまた舌を噛みそうになるくらい長いのだが『国際警察機構科学特別捜査隊極東支部』という。これを略して科特隊なのだがら、どんな略語よりも有用性があるというものだ。

 要は、地球上のあらゆる超常現象を操作する国際的組織、その極東の拠点というわけである。そして、劇中でも語られるように、その本部はパリにある。何ともお洒落ではないか。

 それは兎も角として、この時点で、現実の地名も登場しているわけなので、SFといっても架空世界を舞台にしたものではないということは優に判断できる。

 さらに、極東支部と謳っていることもあり、舞台は日本なのだということも当然だ。実際に、第26話『怪獣殿下』にて、あの古代怪獣ゴモラが破壊したのは大阪城であり、その他、架空の地名を用いた回でもやはり日本を彷彿とさせるエピソードばかりなのだから、これは間違いなく日本の話なのだ。そもそも日本語喋ってるし・・・という突っ込みは不要である。

 何を当たり前のことをいっているのかと思われたかもしれないが、実はこんな当たり前のことをわざわざ確認したくなるくらいに、本作の世界観は独特な描かれ方をしているのだ。

 まず、主人公ハヤタをはじめとした、主要登場人物の名前に注目して欲しい。ハヤタ、イデ、アラシ、フジ、そしてムラマツ  科特隊員たち全員の名前を並べてみたが何か気付いただろうか? もしくは違和感を覚えないだろうか?

 もし違和感を感じたならばその原因のひとつは、全てカタカナ表記であることだろう。もちろん、劇中では口語で表現される故、実際の放送を観て劇中で気付くような事ではないかもしれない。しかし、関連書籍では必ずカタカナ表記であるし、オープニングのクレジットでもしっかり役者名(漢字表記)と共にカタカナで表記されている。それ故に気付いてしまえば、違和感しかないのである。

 それから、何故か苗字?のみという点もまた違和感を覚えさせるだろう。そもそも果たして苗字なのかすら怪しい。とくにアラシなどは名前のほうがしっくりきそうである。しかし、ここに科特隊の紅一点フジ隊員が加わることで、話はさらにややこしくなる。なんと彼女だけは、フルネームを与えられているからだ。彼女の名はフジ・アキコ このことからも(理論上は)他隊員にもフルネームは存在することになる。

この『ウルトラマン』の世界にも我々と同じ姓名性は存在しているのだ。

 そういえば、このフジ隊員を演じた桜井浩子氏は、前作での主人公(レギュラー)の1人である新聞社カメラマン江戸川由里子役も演じていた俳優さんである。

 そして、またここで気付くのである。そう、前作はフルネームどころかしっかり漢字表記が基本だったということに  

 前作ウルトラQでは、万城目淳、戸川一平、そして江戸川由里子と、主要人物たちの名前表記に違和感はない。そして、万城目淳の仕事がセスナ機のパイロットという点を除けば、江戸川由里子の新聞社勤務然り、これも極々身近な日常を感じさせるではないか。無論、科特隊という、実在しない組織の所属する連中に比べたらの話だが

 そうなのだ。この違和感の正体は我々視聴者にとって非日常的な要素がちりばめられていることから来ていると筆者は思うのだ。

 おそらく前作を視た視聴者は、その世界観を『我々が住んでいる時代』即ち昭和41年という時代を舞台にしていると、自然に認識できたはずなのだ。勿論、その内容はフィクションであるのは前提だが そうSFサイエンスフィクションなのだから。

 しかし、この2作目『ウルトラマン』は、上述の理由などから、その『我々の住む時代』を感じさせないのだ。

 では現代でないならいつなのか? それは、ズバリ漠然とした近未来なのである。

 最初の科特隊についての言及で述べたように、世界観自体は異世界とかオリジナルなものではないのは確かだ。しかし、そこには科特隊のような組織が存在したり、我々にとって未知の領域が描かれている時点でこれは未来の話なのだろう。

 これは、機動戦士ガンダムが宇宙世紀という西暦の延長上の世界を舞台にしているのと等しいかもしれない。人類が宇宙に進出し、西暦を宇宙世紀に改めたガンダムの世界観は、西暦が続く以上、永遠の未来なのだ。こちらは西暦何年の時点で宇宙世紀に移行したかが明確に語られていないため、こういう表現になるわけだが

 ウルトラマンの場合は、もっとシンプルに西暦どころかそうした数字の上での解説は一切ない。だから、漠然としたという表現に落ち着くのである。

 未来であることは間違いない。しかし、それはあくまで漠然とした近未来なのだ。

 そう捉えると、このカタカナ表記の名前は、『決して現代の話ではないのだ』という制作サイドからの近未来アピールにも思えてくるから不思議である。

 なるほど、考え方ひとつでこんなにもしっくりくるものなのだ。たしかにその無国籍感は近未来を連想させる。制作当時から、未来=国際化の時代的な発想はあっただろうし、こうしたディティールが、子供たちにも潜在的に未来を意識させるような創りになっていたのだろう。これまた流石である。

 科特隊基地のあの逆三角形の斬新なデザイン、その立地も周囲は殺風景でそこが何処なのかさえ視聴者からは判別できない構図になっている点なども、すべて近未来を感じさせる演出なのだ。

 科特隊のリーダーである、ムラマツ氏がキャップ(キャプテンの略と思われる)という独特な呼ばれ方をしているのもまた近未来的ではないか。(昭和40年代の社会構造的に組織で上司をこんなに気軽に呼べる筈は無し)

 このように漠然とした近未来を舞台としながら、敢えてそれを特別に、説明することなく放映されたことについては、メインの視聴者層である子供たちのことを考えてという意味合いもあったのだろう。

 説明過多になってしまえば、それは小難しいマニア向けの番組に為りかねないわけで、そう考えたとき、劇中に散りばめられた伏線の欠片を視聴しながら拾い集めてもあることで、ごく自然にその世界観を潜在的に感じ取れる そんなある意味易しさ(優しさ)が伝わるのもまたウルトラマンという作品の魅力ではないだろうか。

 さて、この漠然とした近未来を舞台にウルトラマンは何を表現為し得たのか 

次回もまだまだ続く『ウルトラマン』の魅力語り 乞うご期待

 

 

 

 

 

 

 


 


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