第五話 王子様、本格的に動き出す
― 王国歴1116年 年末
― サンレオナール王都
王都は段々と冬が近付き、日も短くなっていたある日の夕方でした。私はまた残って書類を片付けていました。外はもうかなり暗いです。仕事がひと段落つき、私は伸びをして自分に言い聞かせていました。
「今晩は近道をせずに明るい表通りを歩いて帰らないと駄目ね……」
「ねえクロエ、もう終わった?」
背後で声がしました。振り向かなくても誰か分かります。フランソワは私の部屋の戸口にもたれかかって立っていました。
「あ、テネーブルさまも残業だったのですか? お疲れさまです」
私は慌てて立ち上がって頭を下げました。
「うん。またいつものことで締め切り直前」
それでも今日は書類の手直しを頼まれるのではないようです。彼の手には何もなく、上着を着て肩に鞄を掛けています。もう帰宅するのでしょう。
「お気を付けてお帰り下さい」
「歩きなのでしょ、クロエ。お家まで送って行くよ」
フランソワに馬車で送ってもらえる……そのお誘いは非常に魅力的でした。寒風の中を歩いて帰らなくてもいいのです。しかも、王子様と一緒の馬車でしばらく二人きり……とんでもないわ、と慌ててその考えを振り切りました。
「お気遣いありがとうございます。けれど、ご心配は無用です」
「若い女性が夜道を一人で歩くのは危険だから」
「辻馬車を拾って帰りますので大丈夫ですわ」
荷物を鞄を入れて外套を着ている私をフランソワはまだ待っていました。そして廊下を歩きながら彼はまだ私を送ると言い張っています。
「それなら尚更だ。遠慮しなくても、うちの馬車だとすぐだよ、わざわざ辻馬車を待たなくてもいいのだし……」
私は少し
「……お恥ずかしいことなのですが、私が住む地区はおよそ公爵家の馬車が入ってこられるような場所ではございません。強盗に遭うのがおちです。それに、こんな夜中に私と二人で馬車に乗り込むところを誰かに見られるのはテネーブルさまも避けたいですよね。失礼いたします」
私の家まで送ってもらうにはかなりの遠回りになるし、オ・ラシーヌに住む王子様が足を踏み入れるような地区ではないのです。
自分で言ってしまったからもう隠すも何もありませんが、庶民の住宅街にあるみすぼらしい借家をフランソワに見られたくないという理由もあります。名ばかりの男爵令嬢の意地でした。
私は泣く泣く早歩きで王宮の正門に急ぎます。大通りを歩いていたらフランソワの馬車に追いつかれてしまうので正門脇に待機している辻馬車に乗りました。料金は痛いですが今晩だけはしょうがありません。
私の辻馬車は王宮を背にして走り出し、ラシーヌ川に架かる橋を渡って私の住むごみごみとした街の中へ入っていきました。後ろに見える高級住宅街の灯りを振り返り、私は大きくため息をついていました。
それからというもの、私はフランソワに何かにつけて世話を焼かれるようになりました。
私が貧民街に住んでいるのを憐れんでいるのでしょうか。それとも私のような者が彼のありがたいお誘いを断ったのが良くなかったのでしょうか。
立場も身分も
フランソワがお付き合いしているような、例えばあの美人のお姉さんに私が彼にしつこく付きまとっていると誤解されてしまうと困ります。私が職場に居辛くなってしまう可能性大です。
フランソワには時々食事や観劇やら音楽会に誘われるようになってしまいました。王子様がこのみすぼらしいなりの私を隣に連れて、そんな
彼の誘いを断る一番の理由は着ていくドレスがないからなのです。彼にこれ以上
別にフランソワは一緒に出掛ける女性に不自由しているわけでもないでしょう。あの美人のお姉さんだけでなく、他の女性たちと一緒に居たところも目撃しています。フランソワをただの仕事仲間と思っていないオーラが女性たちから漂っているのがこんな
フランソワは私が何度も断わり続けるのでただ意地になっていたようでした。
「テネーブルさまは私がいつもお誘いを断るから、もの珍しいだけなのですよ」
ある日彼にそう言いました。
「いや、断じて違うってば。確かに僕は女性に断られることはまずないけど」
「貴方のお時間の無駄です。私が目新しいのは最初だけで、すぐに飽きてしまわれますよ」
「だと思うならさ、僕の時間を無駄にしないためにもね、何回か僕の誘いに乗ってさっさと飽きさせてよ」
「そうですね……その方が貴方のためでしょうか……」
フランソワに恋をしているというよりも、憧れていると言った方が正しいでしょう。私も普通の女の子です。彼のような素敵な男性に誘われて食事でも舞踏会でも、彼の隣でレディとしてエスコートされることを一度くらい夢見ても罰は当たらないと思います。
けれど、問題はドレスなのです。母はお針子ですが、私のために格安の料金でドレスを縫う時間はありません。そんなことをするなら少しでも仕事をこなした方が収入になります。
「お姉さま、最近ため息ばかりですわね。もしかして恋患いですか?」
「違うわ。社会人だから色々あるの」
「好きな人は職場の同僚なのでしょう?」
違うと言っているのに、最近のダフネはいつもこうでした。
フランソワが
それでも私はある日エレインの仕立屋に寄ってみました。私の予算でも手に入りそうな素敵なドレスがないか、見てみたくなったのです。エレインも丁度居ました。お店の立地場所から、庶民でも手の届くようなものが主ですが、貴族のご婦人方が着るような高級品も少しは扱っているのです。
「エレイン、このくらいのドレスだったら布地も上等だし、公式の場に着て行けるかしら……」
予算も大幅に上回っていますが、それでも頑張れば出せない額ではありません。
「化粧の次はドレス? でもクロエ、女子力アップって言うのはね、化粧や服装、見た目のお洒落だけじゃないわよ」
「じょしりょくあっぷ?」
新聞に記事を書いているエレインは博識で、時々私の知らない言葉を使います。彼女によると私が知らないということは俗語だから覚えなくてもいい、とのことです。
「女らしさを上げるという意味よ。身だしなみに礼儀作法、会話の豊富さ、言葉遣い、料理や裁縫の腕、そっちのテク、挙げればきりがないわね」
「ソッチノテクってなあに? それも俗語なの? 女らしさには不可欠なのよね……」
「喰らいつくところはいきなりそこ? 夜の営みの技術よ」
「ええっ?」
彼女の言葉に思わず固まってしまいました。私の『じょしりょくあっぷ』は中々長い道のりになりそうです。
私が出た侍臣養成学院は平民が通う学院ですが、卒業生の大半が貴族相手の職業に就きます。一年目に庶民と貴族の言葉遣いや訛りの違いについて習いました。それに知識として身につけるため、ダンスの授業もありました。私はその頃の教科書を引っ張り出して復習を始めました。貴族として生まれ育った母と、現役学院生のダフネに滑舌やダンスの練習相手になってもらいました。
フランソワと一緒に出掛ける機会が奇跡的に訪れた時に、彼に恥をかかさないようにしたかったのです。それでもその、エレインの言うように
***ひとこと***
クロエ攻略に一人頑張っていると思っていたフランソワ君でしたが、クロエも色々『じょしりょくあっぷ』に努めていたのですよね。
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