手を合わせて「南無」と唱えよう

 やってられんね、どうも。

 年金も雀の涙で生活保護に縋って生きることになって迎える初めての夏、「初めて」と「夏」というのは何だって心ときめかすものだがエアコンがないこの夏は死にかけた。誇張でもなんでもなく本当に生死の境を彷徨った。汗だくになって目を覚ますと日付が三日ぐらい前に進んでいたのである。ひょっとするとその時死んでいてこれを書いている今は俺の頭の中にしか存在していないのかもしれない。というか俺の頭が存在していないのかもしれず、これは死の瞬間が見せている幻なのかもしれないが――

 とりあえずは今、生きているかのようにここにいる。ありがたいことだ。

 還暦を過ぎたあたりから宗教心というやつが芽生えてきて、若い頃は相当酷いこともしたもんだが(若い頃地元でちょっと話題になったお地蔵さん破壊事件の主犯は実は儂だ、この際だから白状するが)、今ではちょっとしたことにも感謝の念が湧いてきて、両手を合わせてしまう。まあ作法とかはわからんでな、祈るってもどうやればいいのかわからん。そんで「南無」とか言ってしまうんだが南無とはなんだろう。南がなければ北もない――これは南北問題における北部の根本的依存性を告発しているのかもしれない。が、そんな問題よりはるか以前に「南無」は存在しているわけで、いやそれともそんな未来のことも見通してしまう驚異の宗教パワーなのか。歳をとってしまってからあらゆることが気になって仕方がない。もっと勉強しとくんだった。

 やってられんよ、本当。

 うっかり助かってしまいはしたが、どうせそう遠く無いうちにまた同じように倒れるのはわかっている。この暑さ、まだまだこれが本番では無いのだからな。生きてりゃいずれ死ぬこともあるさ、それが救いだ、ってわけだが、死ぬことはこの上なく苦しい。倒れた時だって苦しかった。あまりに苦しかったので、どう書いたらいいのかわからんが。

 それでも生きているのだから、ありがたいこった。儂は若い頃は宗教心なんてなかったのに、手を合わせて「南無」とか言ってしまう。南無の由来は知らんが。

 南がなかったら世界はどんな風だったのだろうと思うが、そうなると北で搾取が起こるだけ、七十年以上生きてて実感するが、人間なんて愚かなものよな。迷路の中をぐるぐるやる実験用ネズミと変わりゃせん。

 ところで俺の若い頃だったと思うが(それでももう四十にはなっていたか? もう昔のことなんて何も覚えとらんな)、南というのはなんちゅーか、背筋が震えるような官能的な世界でなあ。北とは違う豊かさ、人間のおおらかさがあった。

 そして貧困があり、儂等にはつけ込むだけの銭があった。

 今ではそんな銭は儂個人にもなければ国にも無いがな。因果応報。いずれ時が来れば同胞の女を資源として差し出したりもするんだろ。儂の父親がそうだった、ちゅうからな。それでうまいこと逃げおおせて、だから儂がいる。

 やってられんよ、マジで。

 自分が死ぬんじゃ無いかという目に遭うと、ちょっとばかりこの世にも未練が出てくる。ちゅうか、この世でできることに未練が出てくるわけよな。それでまだこの命があることに感謝して、手を合わせて「南無」と唱えるわけで、南無の意味なぞわからんが、わからんでええな。人生でわかることなどそもそもない。わかったと思ったことを十年かけて更地にする、それが人生だ。

 この世にいると心も体も寒々としてくる。熱中症で死にかけた身なのに、寒気を感じるのだ。それは魂が凍りつくからであり、温もりを求めているからだ。

 つまり人肌恋しいというやつで、結局肌があればいいっちゅうことでな。人肌なくて魂冷えるっちゅうことは、所詮儂らは肉の奴隷。来世なんてないのは明白だ。

 まったくやってられんな、死ねば終わりか。

 エアコンのない部屋だけど、儂、デリヘル呼んじゃったよーん。急に生きる気力が湧いてきて、「とりあえず部屋を片付けて、一風呂浴びて、飯でも食って、一戦交える力をだな」(もう七十過ぎだ、己の体力を過信してはいけない。だが準備は何物にも勝る。若いモンには負けんちゅうのは、その準備を怠らないからじゃ。「なんとかならない」からこそ「なんとかする」のである。胸に刻まれよ)

 生きてることにマジ感謝、南無、と儂は唱えたね、若いもんが感謝感謝言いよるのを蔑む気持ちを胸に秘めて。七十まで生きて、生活保護で、温暖化の業火に焼かれながら一命とりとめた、こんな感謝をお前ら知らんだろ。ついでに南無の意味も知らんだろ。俺も知らん。

 南無といえば遠い昔、まだ俺が性欲旺盛だった頃のことだが、日本では南方への「愛」が一世を風靡していた。南方へ旅行した先でばかりか、南方からやってくる人たちに対しても、分け隔てなく愛を与えておった。ただしエイズには気をつけてな。まあ言うまでもない。サイテーだったんだよ、あの時代は。いい時代だったけどな。同時にサイテーだった。女と見れば見境がなかったんだ。未成年でも何でも構わず買いまくった。ヤリまくったってことじゃ。恥も外聞もその時捨ててきたから、今こうして告白するが。

 こう語りながらどうしても儂は感傷的になってしまうんじゃ。何、そういう経験があったというだけのこと。そして敢えて口にするほどの経験でも無いが。

 とにかくなあ、やってられん。やってられんよ。

 あれは本当にかわいそうな子だった。痩せて、肋骨なんかも剥き出しだった。肌は日焼けしてガサガサでな、触れ合うたびに、ヤスリみたいに痛かったよ。腰なんか掴むと折れそうでな、髪の毛は油じみていて、嫌な臭いがしたもんだ。それなのにその上にのしかかって、やることはやった俺。無力な人間。サイテーだ。

 でもあの子は「うれしい」と言ったんだな。意味もわかってなさそうなアクセントで。そう言うように教えられたのかもしれんが、それでも儂は嬉しかった。そして儂のことを「好き」だとも言ってくれたよ。どこで覚えたのやら。

 いつの間にかいなくなってたなあ。生きてすらいなかったのかもしれん、あの頃もう。この歳になるまで気にもかけなかったが。金稼げるよなんて騙されて、連れてこられて、異国の地で骨になったのかね。それともたんまり金を稼いで、故郷に錦を飾ったのかね。そうであって欲しいが。でもあの時でさえ、ちゃんと払うもん払っとったのかね、この国は。金あったころですら気前がよかったとはとても思えんが――。

 心の底まで寒くなって、俺は手を合わせて、南無とか唱える。でもなにが南無だよ、ちきしょう。

 南は断固としてあるし、過去はどう頑張っても消せやしない。そして欲望は新たな期待に震えて、フライング気味に膨張しておる。あの指の愛撫が忘れられん。

 まったく、この世に神なんていないね。仏ももう死んだよ。

 デリヘルがベルを鳴らした。

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