第50話 生まれ変わる

 僕は、死んでしまったのだろうか。いや我思う故に我ありらしいし、そう思えるという事はやっぱり死んでいないようにも思える。


 しかし、僕と千頭流の物語は、そればかりでは無かったにしろ、確かにラブコメだった。笑いがあって愛があった。それがいつからこんな超次元バトルをエキサイティングする事になってしまったのか。まあしかしそんな事はどうでも良い。もし仮に、僕が生きているとするなら、それはまさしく九死に一生を得たという事になるだろう。


 49、などという絶望的に縁起の悪い数字から抜け出したのだから、これはもう大戦果。


 だが50だ。


 パーセンテージ、テストの点数、何かしらのメーターなど、100を満点とする基準がこれほど多い世界。そう考えるとまだまだ物語は折り返し地点なのでは──思うとやたら気が重い。


 もういっその事このまま寝てしまおうか、いやいや寝ている場合じゃない。


 戻らないと。


 しかし……どこへ? この深い海のような場所から、僕はどうやって、どこへ戻る。


 沈んで行く。重りを付けられたみたいに、どこまでも体が沈んで行って──消える。指先から、つま先から、崩れて無くなっていく。戻らないと、戻れないと、僕が──僕が消えて、閉じ込められてしまう。


 いやだ、いやだ、まだ消えたくない。渡したくない。


 踠いて、足掻いて、無くなってしまうのに構わず、頭上に見えた一筋の光に向かって。


 すると、浮上していく。





 パチクリ、とそんな音が聞こえるような、そんな感じで目を開いた。目が覚めた瞬間に遅刻を確信した時みたいな寝覚の良さ。


「あれ……寝て、たのかな」


 まず目に入ったのは天井、僕が激突した際に出来た穴と、電球を幾つか失った照明。


「お、起きたか。ったく、死んだかと思ったぜ」


 遠くから、籠鮫の心配するような声が聞こえた。


 あの気恥ずかしいプロポーズを弄ってやろうかとも思ったけど、そんな事より今は確認する必要があった。


「どれくらい寝てました?」

「10分程だ。一応救急車は呼んであるから、そろそろ来ると思うぞ」

「えー、それって色々面倒臭くないですか?」

「刑事舐めんな。事情は伝えてあるから問題ねえよ。それに通報されてねえのは何でだと思う? ご近所さんに事前に金配って黙らせてあるからだろうが。どうだ参ったか。あっはははは」


 何とか上体を起こすと、シンクに寄り掛かって優雅にコーヒーを飲む籠鮫の姿が見える。


「……なるほど、そういう感じで」


 正確に言うと、首から白いワンピースを着た女の子がぶら下がっている籠鮫の姿だった。少女は彼の首に手を回して、ガッチリと掴んでいる。横顔だけが見えたが、恐らく寝ているのだろう。穏やかに瞼を閉じていた。


「何が?」

「それ」


 僕が指を差すと、籠鮫は分かり易く顔を背ける。


「え、何、お前なんか見えてんの? やめろよ俺そういうの苦手なんだから」

「現実を見て下さいよ──お父さん」


 恐らく7、8歳くらいの少女をカンガルーみたいに下げている姿は、まあそんな感じに見えた。


「誰がお父さんだゴラあ!! 俺はまだそんな歳じゃ……いや、でも同年代のヤツは皆ガキがいるし、そんな歳なのか、というか何だよコイツは!! 説明しろ!!」

「言ったじゃないですか生まれたてだって、だから多分、それが本来の姿なんですよパパ」

「パパでもねえよ!!」

「……ん、んぅ……」


 すやすやと眠っていた彼女──『マキちゃん』が瞑っていた瞼を固く締めて、寝辛そうに声を出した。


「ほら、起きちゃいますから静かに」

「ぐ、ぐぅ……」


 ぐうの音だけは出た、と言った表情の籠鮫。


 僕は声のトーンを落として聞く。


「それで、僕が寝ている間に何があったんですか?」

「……訳分かんねえけど、あの怪物が溶けたら中からコイツが出て来て、俺の体に纏わり付いて──で気が付いたらこれだ、もうおじさんはパニック状態でな。とりあえず落ち着いてコーヒーでもと、そう思って今に至る」

「なるほど面白い」

「何がだよ」


 立ち上がろうとして、右腕を突こうとして、そういえばもう動かない事に気が付いた。


「……それじゃあ、僕はもう帰りますね」


 自分の体が思い通りに動かないのは、中々違和感──というより、虚無感を覚える。最早痛みは無く、しかしながら足は動いてくれるようで、だからこそまだ進む事が出来るのだ。


「はあ? お前何言ってんだ? 救急車呼んでるって言ってんだろ」

「明日行きます」

「……そんなボロボロの体で、どこに帰ろうって?」


 立ち上がって、一歩進む度に骨が軋む。足先からボロボロと崩れていくような、そんな感覚だった。


「そんなの、決まってる」


 これだけ満身創痍でも、心は穏やかで、軽やかで、爽快な気分で。


「だーかーら、どこ行くって聞いて──」

「おにいちゃんのじゃま、しちゃダメ」


 力づくでも止めるとそんな風に動き出した籠鮫を、呼び止めたのは──たどたどしく、覚えたての言葉を使っているような、舌足らずな少女の声だった。


 彼女はするりと、籠鮫の首から手を離すと、僕の横に立つ。


「ありがとう、わたしがわたしになれたのは、おにいちゃんのおかげ」

「……どういたしまして。君の名前は? 何ていうの?」

「みんなは『マキちゃん』ってよんでた。だからそれでいいの」

「……そっか」


 そう言って軽く頭を撫でると、嬉しそうに顔を緩ませて笑った。


 籠鮫は尚も言いたい事がありそうだったけど、


「……お前、絶対明日病院行けよ。死んだら家宅捜索するからな」


 深い溜息を吐くと、要らぬ脅しを混ぜて渋々納得したようだった。


「それは困りますね」


 ウチにも幼女が居るので、そんな事をされたらたまったもんじゃない。まあ本当にはしないだろうが、もし万が一されたらかなり面倒臭い事になるだろう。


 僕は籠鮫の言葉通り、絶対明日病院へ行くぞという決意を固めると、部屋を後にした。



 こんな時間だ、まず住人と擦れ違う可能性は相当に低いと思われるけど、こんな姿ではと思うと気が気じゃない。


 まるで立ち入り禁止の場所に忍び込むような独特の緊張感を持ちつつ、エレベーターに乗り、エントランスを抜けて、無事にマンションから出られると胸を撫で下ろした。


 夏場とはいえ、流石に夜風は冷える。もしかしたら明日は風邪を引いているかもしれない──など、フラつく足元と、揺れる視界に吐き気を伴いながら、それでも明日の事を考えられている自分に安心した。


 見上げると、来た時は満天曇りだった空が、風で流されたのだろう、僅かな裂け目から光を覗かせている。


「ああ……星が綺麗、なんて」


 雲間から見えたキラキラと光るものに対し、そんな事を呟いた自分に少々の気恥ずかしさを感じてしまう。だからこそ、代わりに欲望で頭を満たす。早く帰りたい、というかベッドに横になりたい、というか──千頭流に会いたいなぁ。みたいな。


 この姿を見て、彼女は何と言うだろう。慌てふためいて、的外れに絆創膏でも持って来るだろうか。それとも情けないと蔑まれる打ろうか。いや、どれもしっくりと来ない。


『待ちくたびれたわ。さて、さっさと続きを聞かせて頂戴』


 うん、これが一番“らしく“感じる。老体に鞭打つような、全くもってどこまでいっても自分本位というか、しかしながらそれでいてこっちも納得せざる得ないような、そんな言葉を投げ掛けて来るに違いない。


 そう思えて、自然と笑みが溢れた。見上げた空にさえ笑われているように感じたから、顔を下げた。


 スッと視線を落として、足を進ませようとして──僕は、それ以上動けず、ここさえ乗り切れればそれで充分だったのに、やっぱり見逃しては貰えないんだなと、改めて、理解してしまった。


 暗闇の中で、金色に光る二つが、明らかに人間のものではない瞳が、僕を見つめていたのだ。


「やっほー久しぶり。憩くん」


 雲間、その隙間から月明かりが差し込んで、薄暗だった顔を照らし出す。白ともとれるし、青みがかった銀色にも見える。そんな白銀髪で、金色の瞳。人懐っこく、絶世の整いをした顔立ちを、僕は覚えている。


「……由花よしかちゃん。生きてたんだ」


 笑っていて、見下していて、見通しているような、そんな表情を──僕は知っていた。そして恐らく、今までに起きた異変の黒幕、張本人である事も合わせて察しが付く。


 だって、彼女は悪魔なのだから。


「てっきり師匠に殺されたものと思ってたよ」

「えーあはは、可笑しい。私を助けてくれたのは憩くんなのに」

「……僕が?」


 それは記憶に無い。


「だーかーら。今日はそのお礼をしに来たんだっ」

「残念だけど、また今度にしてくれないか」


 悪魔であり、ウチの天使を堕天させた張本人であり、去年のクリスマスには街を滅ぼそうとした困ったちゃん。


「残念だけど、それは無理ってなもんよ。だって私は今、この時をずっと待ってたんだからさ」


 両手を広げて、ここは絶対通さないぞっと、そんな意思表示を全身で表現する彼女は、昔とちっとも変わらない。いつだってふざけていて、纏わり付いて、全てを台無しにしようとする。混沌を何より好む──今最も出会いたくなかった存在。


「待ってた、とは……ぞっとするね」

「別に命を取るとか、そんな事じゃないんだからっ、勘違いしないでよね!」


 彼女は腕を組んで、顔を背けて言った。


 悪魔のツンデレとは……全く、胸が躍ると、脳裏に過ぎったりもしたけど、正直言って今は付き合いきれない。


「殺す気が無いなら、そこを退いてくれ……頼む」

「怪我、辛そうだね? 直してあげよっか? 全部元通りに。いやー正直手詰まりだったんだけど、自力で一部解いたでしょ? だからさ、今なら、今しか無いんだ。綻んだ今、私でも簡単に崩せる」

「要らない、要らないから──退けよ」

「おー、怖い怖い」


 微塵も思っていないくせに、敢えて人の神経を逆撫でするその態度は、昔からずっと。


「……一体、君は何しに」

「全部元通りだ。何もかも。傷も、痛みも──魂もね。どう? 魅力的でしょ?」

「魂、はもう無いんだよ」

「憩くんの魂はちゃんとあるよ。ただ封じ込められてただけで、ちゃーんとそこに」


 瞬く間、正面にいた由花の姿が消え、


「封じ込められて、た?」


 耳元で声が、というにはあまりに小さく、近い、悪魔の囁きだ。


「ここに、ちゃんとある」


 背後から突然抱き留められて、抵抗する事も出来ず、触れられた胸元が熱を持つ。


 途端、呼吸が、酸素を取り込む術を忘れたように、一瞬にしてこの世界から空気が失われてしまったように、吸い込む事が出来なくなって、


「がっ……あ、あか……」


 漏れ出すばかり。


「大丈夫、安心して良いんだよ。全部、元に戻るだけだから……一番最初までね」


 その間も、彼女はずっと、まるで我が子を慰めているかのように僕に向かって囁いて、頭を撫でていた。


 やめてくれ、


 寒気が止まらなかった。体の芯から凍えているみたいに冷たく、そのくせ手足の先端は燃えていると錯覚する程に熱い。これが直しているというなら、地獄の拷問の方が遥かに優しいと、そう思える程の苦痛。


 いやだ、


 焼き切られて、無理矢理、冷水で冷やされているような。


 消えたくない、


 しかし、気は失わず、それどころか冴え渡っているのではないかと思えた。


「大丈夫、大丈夫」


 冴え渡り過ぎていて、何もかもが塗り潰されていく。


「や、やめ……ろ……」


 僕が感じていたもの、記憶、思い出が塗り替えられて──いや、これは彼女の言う通り、戻っているのだろう。


 消えていく、僕が僕になって、僕が消えていくんだ。


「……」


 瞼が閉じられた。


 そんな時、思い浮かべたのはやっぱり、彼女が微笑む姿──ではなく、毅然とした横顔で、こんな時まで君はそうしているのかと、意図せず笑ってしまう。


 笑って、笑って、僕は──涙を流していた。


 悲観的にはならない。死んだ訳ではないし、やられたと、そうは思いつつ、でも、全部が終わった訳じゃないと、こんなことは考えたくなかったけど、千頭流が、何とかしてくれるのだと、心のどこかで安心して。


 僕はとりあえず、一旦、眠ってしまおうかと……思った。あとは、彼女に……任せようと、そう思って。


 ごめんね。


 そっと、深い海の底へと沈み込んだ。


 




 あれ?


 何故何故、一体どうして、瞼を閉じたのか、僕は理解出来ないまま、目を見開くと、視界には満点の星空があって、そんなことはどうでも良くなった。


 まるで僕に向かっておはようとか、こんにちはって言ってるみたいで。


 祝福しているみたいで。


「あれ……僕は、何を」


 目元を拭うと、濡れている。


 体が熱い、寒い。


 思い出や記憶が、違う価値観で潰されて、いやいや、そもそもどうして、どうしようもない程に、自分自身に対して矛盾を感じてしまう。気持ちが、気持ち悪い、居心地が悪い。


「生まれて、憩くん」


 そう、耳元で囁かれて、


 その瞬間、自分の中で何かが切れるような感覚がして、満たされた。熱が、冷気が、徐々に引いていってようやく体が解放され、地面に倒れ込む。


 一瞬の脱力感の後、僕の体は思ったよりもすんなりと動いてくれた。


 手が、足が、動く、傷が、痛みが、消え失せている。


 心が──魂が満たされていって、切れた、というより、縛られていたものから解かれた感覚だった。視界も良好で、嗅覚も聴覚も、触覚も味覚も、全てが軽やか。


 直感的に現状を判断すると──どうやら由花は、本当に魂を戻してくれたらしい。


「ふぅ……ようやく起きた? 寝坊だよまったく」

「師匠の仕業か、これは。はぁ……あの人も心配性だなー」

「ちょっと? もしもーし」

「どーせこの街に来ているだろうし……気が重い、面倒臭い。あー、人類早く滅びないかなー」


 そうだ、あの頃と一緒。というか、あの頃という表現はおかしいか。だってこれもあれも、全部が僕なのだから。僕だったものが、何かに押し留められていただけ。無理矢理に。


 今も昔も、これからも、怪物を愛している僕が──もう一度生まれた。

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