第49話 死、苦

 唐突に立ち上がった僕を見て、籠鮫も察したらしい。


「……来たのか」

「はい。どうやら彼女も、貴方の物語を聞いていたようです」


 いや、聞いていたというより──見ていた、という方が近いか。語る話を、籠鮫が言葉に添えた思いを。愛に敏感な怪物らしく、ご丁寧に話し終わるまで待ってくれていたようだった。


 室内が陰鬱で重苦しい空気によって満たされる。それに伴って、指先と、体を駆け巡る血流が速さを増していった。


 ドクドクと、鼓動が耳元で鳴っているみたい。


「惑った僕の、迷いを嗅ぎ付けられた」

「……何のこっちゃよく分からんが、俺はどうすればいい」

「まずは彼女の問い掛けに、正直に答えて下さい。後はなんやかんやです」

「なるほど全然分からん」

「自分の心に従ってくれ、という事ですよ」


 と、僕が言った次の瞬間──視界の端、テレビの画面が大きくひしゃげて潰れる。中央からぐにゅっと、した感じで、パキパキと音を立てて、長方形だった形が、プレス機に押し潰されたみたいに崩れた。


 ガタガタ、部屋中の“ありとあらゆるもの“が小刻みに振動する。


「とりあえず僕の後ろで待機していて下さい」

「……お、おう」


 初めて──いや、正確に言えば二度目の超常現象を目の当たりにした籠鮫は、少しばかりの動揺を顔に滲ませつつ、ベッドから立ち上がって僕の後ろに下がった。


「ほ、ほんとに出来るんだろうな」

「さあ? こればっかりはやってみないと何とも」


 どこからか何かが落ちて割れる音、テーブルの上に置かれた飲みかけのビールが倒れて、中身が溢れる。照明が右往左往と揺れて、チカチカと明滅していた。


 僕はナイフを取り出し、高揚する気分を深呼吸しながら落ち着けていく。


 利き手はどうやら使えそうも無いので、慣れない左手に持ち替えるけど、


「うん。大丈夫そう」


 意外にも違和感は少ない。


 背中越しに籠鮫の緊張が伝わって来るが、流石は現職の刑事。もう少しパニックを起こしても良さそうとも思うけど、これなら必要以上に気を遣うことも無いだろうと胸を撫で下ろした。


 と、ホッとしたのも束の間。ピタリ、振動が止まる。流れる空気そのものが停止したような静寂が訪れ──身体が酷く重たくなった。


 大きな物音──電球が弾け、割れる。破片が飛び散って、頬や肩に当たる感触の後、部屋が暗闇に包まれる。


「お、おい……何も見え」


 と、そんな籠鮫の言葉は、瞬きをした間に否定された。


 暗転したかと思えば、再度、明かりが灯って、僕達の目の前が晴れ渡る──“彼女“の姿が目に映る。大きく歪んだ口元から、赤黒い血を垂らして問い掛ける『マキちゃん』の姿が。


『わたし、かわいい?』


 漆黒の瞳、真っ赤に染められた白のワンピース。


 やはり、先程エレベーターで見かけた彼女だ。そんな彼女が口にしたのは、本来は僕が答えられた問い。今の──人間を愛した僕には答えようも無いもの。


「籠鮫さん」


 僕は背後で動揺しまくってるであろう籠鮫に、答えを促す。


「怪物は心を見て、感じています。取り繕った言葉に意味は無いので、正直に、素直に答えて」

「……ああ、そうかよ。じゃあ言ってやろうかな」


 一拍置くと、籠鮫は僕の肩に手を添えて、隣に並ぶ。予想と反して震えてもいないし動揺も見て取れず、毅然とした、大人の姿で、


「散々人を殺しやがって──この怪物が」


 言った。


 その瞬間、ふわふわと揺蕩っていた彼女が停止し、笑顔が醜く歪んだ。漆黒だった瞳が陥没して目玉が流れ落ち、空洞から液体が垂れて床を穢すと、瞬く間に蒸発する。


 美しかった茶の髪がボロボロと抜け落ちて、歪な頭皮が顔を出し、肌色が、まるで粘土のように変色していった。


「あーあ。言っちゃった」

「受け入れるとか、受け入れないとか、それ以前に一発言ってやらねえと──叱ってやらねえと気が済まなかった。悪いが後悔なんてしてねえぞ」

「いいえ、良い答えだったと思いますよ」


 骨が砕け、肉が裂ける音。彼女の腕や足が、指先が、変形していく。長さや太さがアンバランスで、体色と同様に、工作の下手な子供が想像で、人を模して適当に作ったような。瞳に空いた空洞、口元は縫い付けられたように閉じた──籠鮫の言う通りの怪物が、姿を現した。


「じゃあ、まずは僕が彼女を鎮めますので、籠鮫さんは口説き文句でも考えておいて下さいね」

「……あ、あれを?」


 事件の概要から、僕の手に余る強力な怪物だと思っていた。だけど不思議なもので、いざこうして目の当たりにすると、


「僕が死ぬまでにお願いします」


 何故だか『この程度なら問題ない、大丈夫』だと感じられた。大層な道具も、具体的な対策も何も無くとも──今手にしているナイフ、これ一本で充分だと、そんな自信が脳内を満たしていく。


 体は重く、視界は悪く、傷は疼いていても、余裕さえ感じられる程に。


 そう、気分が乗っていたから。だってこれは怪物を殺す為ではなく、生かす為の対峙。


「はははは」


 4回、短く発音するように笑って、僕は駆け出した。


 空洞の瞳がこちらをジロっと睨む。そこには何も無い筈なのに、どういう訳か“目が合った“と思って飛び上がった僕は、ナイフを逆手に持ち替えて──空洞へと刃先を突き立てる。


 僅かな感触が掌に。眼球は無くとも脳はあるのだろうか、それとも突き抜けて後頭部に刺さったか。


「痛いかい? ごめんね」


 力を込めて、ナイフを突き刺したまま床へと押し倒す。


 馬乗りのような体勢になると、顔面へ、額へ、首へとナイフを突き立て続ける。触れた体表は意外にも高温で、恐らく人肌程の暖かみを感じながら抵抗しない『マキちゃん』へ突き刺し続ける。


 縫い付けられた、恐らく口元であろう箇所がもごもごと動いていた。


 苦しい、痛い、助けて、どうして、と。


「それは、君に殺された人間が感じていたものだ」


 突き刺す、突き立てる、抉り出す、削る、斬る、裂く──そうして何度か繰り返した時、ふと刃先が空中で止められて、それ以上進まなくなった。


 赤黒い液体に濡れた自分の手が、そこから先へ進む事がない。


「……あ、やべ」


 と、率直な感想を口にしたのは、自分の腕に気を取られた一瞬、再び彼女へ視線を戻した時──全部、綺麗さっぱり、何も無かったかのように、僕が付けた傷が消え失せていたからだ。


 そうして目が合い、その口元は、笑っているように見え──突如、全身を居心地の悪い浮遊感に襲われる。


 エレベーターで急速に降下しているような、内臓が浮き上がっているような、気持ちの悪さ。


「──ッ」


 いや、浮いているのは僕の体だった。目前に捉えていた筈の彼女が徐々に離れていき──後ろに引っ張られた、まるで大きな何かに全身を掴まれて、投げ飛ばされたように、


 天井に叩き落とされ、床に叩き付けられる。


 視界の上と下、左右がごちゃごちゃになって、背中と腹を強打して、呼吸が一瞬止まった。


「多々里!!」


 籠鮫の叫びに『苗字で呼ばれるのは随分久しぶりだ』と、自分でも呑気だと思えるようなことを考えながら立ち上がると、


 目の前に壁──念力で飛ばされてるであろうテーブルが迫っていた。


 咄嗟に動いたのは右腕、当然指先には力は入っていないから、だらっと上がっただけだけど、致命傷を避ける盾にくらいにはなるだろうと顔の前に出す。


「っ」


 変に巻き込まれた何本かの指が、僕の体とテーブルの間に挟まれて、痛みは無いけど、肉が避けて、骨が砕ける。肘、手首、関節が悲鳴と、こっちは激痛を伴って砕け散った。


 ぐしゃっと、自分の腕が大きく曲がる映像が、目に飛び込んで、


 後方へと体を吹き飛ばされる。


「はははははっ」


 壁とテーブルに挟まれる寸前、ようやく地に足が着いたので、


「生まれたてのくせに、やるじゃないかよ」


 左に大きく逸れて、挟撃を避ける。痛すぎてドーパミンでも出ているのだろうか、込み上げる可笑しさを抑えられずに声を上げて、再び彼女へと突撃した。右腕はもうピクリとも動きそうにない。しかしもうどうでも良い。


 眼前にふわふわと浮かぶ彼女が、僕を見て体を前方に曲げているのは同じように、可笑しくて堪らないらしい。


 可笑しくて、憎くて、無邪気な笑みを浮かべて、物が少ないこの部屋であっても、ありとあらゆるものが、僕目掛けて吹き飛んで来る。


 空き缶、壊れたテレビ、電気コード──背後からも、幾つかの何かの気配がした。恐らく包丁などの調理器具だろうか。ただ飛んで来ているのならまだしも、彼女の念を纏っているものだから、例え視界に入っていなくても、何となく分かる。


 まるで、魂を持っていたあの頃のような感覚だった。


 空気中を流れる彼女の力が、僕の五感に、直感に訴えているよう。だからその隙間に体を入れるだけ、それだけで充分致命傷を避けられる。


 そうして近付いていくと遂に、ナイフが届く一歩前に捉える。すると動く事の無かった人形のような体から、腕だけが静かに、前へ──僕へと向けられた。


 色の付いた、力そのもの、僕の体へ直接作用する性質の念が、僕へと差し迫る。


「君は生まれるべきじゃなかった」


 恐怖が狂気へと変わって、また恐怖へと戻った証拠だ。僕を拒絶する、遠ざけようとする力。


「だから、一度還って、また生まれよう」


 ナイフをその波へと差し込んで、切れ目を入れれば、簡単に崩壊してしまうような脆さを持った念。腕を振るうと、予想通り力は霧散し、しかし、耐久性を限界まで振り絞ったナイフが砕け散った。


 だけど、僕の体だけは前へと進んでいる。


 左腕だけは使える。


「僕と一緒に」


 どうしてそんな事を言ったのか、自分でも良く分からず、だがそれが一番正しいと直感して──縫い付けられた彼女の口、そこへ左腕を突っ込んだ。


 何か引っ掛かっていた、支えていたものを引き摺り出した感触。


 その瞬間、鼓膜を突き破るような大声が──泣き叫ぶ声が部屋中に響き渡って、そうして僕の体を包んでいた高揚感もまた、消え失せていく、力が、抜けて落ちていく。


「あとは、頼みます」


 言えていたのか、届いていたのか。僕は朧げな視界で、恐らくそこにいるだろうと籠鮫を見て呟いた。


「……ああ。任せろ」


 確かに聞こえた返答に胸を撫で下ろし、床へと体を投げ出す。瞼を閉じると耳元で鳴り響いていた鼓動が、次第に収まって、小さく、緩やかになっていく。深く沈み込む感覚、さっきまであれだけ軽快に動いてくれていた体のあちこちが重く感じられて、痛みが振り返って来た。


 鼓動が小さく、小さく、彼女の叫びもまた、啜り泣く声へと変わって。


 床を踏み締める音がした。


 服が擦れる音がした。


 多分、屈んで、彼女を見下ろしているのだろうと、そう思った。


「まずは自己紹介をしなきゃな。俺は籠鮫平って言うんだ。籠に入った鮫、名前は真っ平の平。刑事をやってて収入はそれなり」


 そう言えばそんな名前だった。正直僕も忘れてたよ。


「趣味は……そうだな、昔はドライブが好きで、良く峠を攻めてた」


 啜る声と、穏やかな声色が溶けて混ざり合っていく。


「お前を受け入れろと言われたが、はっきり言ってそりゃ無理な話。俺は刑事だし、人を殺したお前が怪物だろうと何だろうと、許す事は出来ねえんだよ。被害者にも家族が居るし、愛した人間だって居た筈だ」


 言葉の印象とは裏腹に、籠鮫の声は優しい。多分、床に転がった彼女の頭を撫でながら言っているのではと感じられるような、そんな口調だった。


「どこの世界でも、そういう奴は刑務所にぶち込まれる。罪を償うか、まあお前の罪状を鑑みるに入ったとすりゃ多分死刑だろう。しかし怪物は、司法じゃ裁けねえ」


 それから一拍置いて、籠鮫は言う。


「だから、俺がお前の監獄になってやる。責め続けて、罪を自覚させ続けて──いずれお前が死ぬ時まで、ずっと、見届けてやる」


 これは、とんでもない口説き文句もあったもんだ。古今東西、津々浦々、世界一周探しても、こんな口説き文句は存在しないだろう。


 というか、まあ、そういった側面で考えてみると、やはりこれはプロポーズのような気がしないでもない。



 そう思って、しかしそれを最後に、僕は訪れた眠気を、黙って受け入れた。

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