第37話 カノジョと元カノジョが手を取り合う瞬間を見た
大十木詠子は狼人間である。そんな彼女と交際していた僕は、ただの人間。その『方向性の違い』は致命的であり決定的だ。
僕達が交際していた日々はとても暖かく、だから身を任せ過ぎていた。肩まで使ったぬるま湯のように絡み付く平穏が、お互いの認識を緩めていたのだ。ちょっとした出来事と些細な躓きで僕は見誤り、彼女は自分自身を抑えられなかった。己の中の怪物を抑える──いや、怪物としての本能を甘く見ていたのだろう。
結果として、僕の腸に爪を立てた彼女は絶望し、僕達は終わってしまった。
人間と怪物は相容れないと、純然たる事実だけを突き付けられて。僕達が理解していた筈のそれは、当時まだ15歳だった子供が受け入れるには、あまりに切なく、お互いに、痛みを残してしまった。
千頭流がハンバーガーを頬張る。詠子は何も語らない。
千頭流が食べ終える。僕達は何も語らない。
詠子が歩き出し、僕達もまた言葉を交わす事なく歩みを進める。人気の少ない裏通りを更に奥深くへ。詠子は辺りを見回しながら、鼻歌混じりで、その足取りは軽い。
明確な目的地に向かっている訳では無く、それはただ“都合の良い場所“を探して彷徨っているように見えた。しかし、どんな理由に基づく行動なのか現時点では判別が付かず、僕達はただ詠子を道標として歩き続ける。
「……」
「……」
隣を歩く千頭流は一瞬だけ無言で手を握ると、すぐに手放した。刹那に触れた感触は湿っぽくて、とても冷たい。
歩いて、歩いて、
細い道を進んで、路地に入って、
日の光さえ建物が覆い隠してしまう行き止まり。
密集していた建造が、そこだけポッカリと穴が空いたように空き地となった場所。恐らく何かを建てるには狭すぎるし、奥まり過ぎていて、土地としての価値を殆ど失っているような場所。四方八方を剥き出しのコンクリートに囲まれて、息苦しさえ感じさせる。何の為に存在しているのか、ここが何にとって都合が良いのか。
そんな場所で詠子は立ち止まる。
立ち止まるけど引き返しはしない。その代わりに、振り返って僕達を見据えた時──その姿を見て確信する。
「憩くん。アタシが見える?」
獣の瞳。黒目は小さく収縮していて燻んだ白に囲まれている。牙が発達し、筋組織が向上し、爪が鋭く伸びて──頭頂部には、黒い体毛に覆われた大きな耳が聳え立っていた。
「……ああ。よく見えている」
半人半狼。
「すごいでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、あの時のケリつけよっか──憩くん」
本来ならば、両方の姿を保つ事など有り得ない。彼らの生態はもっとシンプルだった筈だ。昼間は人間としてしか行動出来ないし、夜間に変身を遂げれば狼以外の性質はそこに存在しないのだから。これは年月を積み重ねればとか、練習をすればどうかとかの問題ではなく──突然変異とも呼べる現象なのかもしれない。
そんなものを彼女は選んでしまった。
「千頭流、下がっていて」
「……ええ」
人では無く、狼でも無い──そんな道。どちらにも属せずどちらにも受け入れ難い存在に変わって。
僕が千頭流の前に立つと、そんな光景を見て詠子は笑う。
「今からアンタら殺すけど、アンタはアタシを殺せるの?」
「君が──本当に千頭流に危害を加えるつもりなら、僕は君を殺さなきゃならないだろうね」
「それは怪物狩りとして? それともカレシとして?」
「両方かな」
「即答かー。男なら迷わず後者を選ぶべきなんじゃね」
「個人的な理由だけで、君を殺すのは無理だ」
僕が言うと、詠子の表情がスッと沈んでいく。
「あー、そうだよな──憩くんは。そういう人間だったよね」
目を離したつもりは無く、僕の視線はずっと彼女を捉えていた。動かしたのでは無く、瞬いた一瞬で僕は見失っている。
肌が栗立ち危険を直感すると、視界が暗くなっている事に気が付く──いや違う、日差しが覆われているのだ。
「──っ」
見上げ、僕に迫る影を捉えた。あの一瞬で詠子は飛び上がって僕の視界から消えていたのだ。
逆光に目を細めながら後ろに飛んで身を躱すと──頬を、恐らく踵が掠めて視線を横切る。僕の身長を余裕で超える高さから繰り出された踵落としは、地面のアスファルトを抉り、粉塵を舞わせていた。
色々と超常現象に見舞われている僕だけど、重ねて言うが──僕はただの人間である。
「ほ、本当に死ぬとこだった……」
あんな一撃を貰っていたら、体が縦に真っ二つになっていたのではないかと戦慄を覚えた。
「だから殺すって言ったジャン。憩くんも本気で来なよ」
「本気でやってどうにかなるレベル超えてるよねこれ」
拳も、足も、爪も、彼女の全身の一つ一つが僕を殺すに足る武装と化している。防御する事すら叶わず、渾身の力を込めたものでなくとも、簡単に葬られてしまうのだろう──それほどに人間と怪物の差は大きいのだ。
「嘘、憩くんならアタシを殺せる筈だ」
「いやーどうかな」
踵の掠めた頬がヒリヒリと痛む、血が出ているかもしれない。
「じゃあさ、一体」
そうして傷口に注意を向けた刹那、ほんの僅かな隙さえ彼女は見逃してくれない。
気が付くと鼻先が触れる程の距離まで間合いを詰められていて、
「何しにここに来たの?」
腹部に感じた衝撃と共に、僕の体は後ろに吹っ飛ばされてしまった。
「──ッぁ」
急激に遠ざかる詠子の姿、次に目に飛び込んで来たのは日の光。吹っ飛ばされて──地面に倒れたのだろう。上手く呼吸が出来ず、痛みで上体を起こせず瞼も開く事が出来ない。鳩尾に拳を叩き込まれたが、痛みの量から察するに軽く小突いただけのようだった。息は苦しいが命に別状は無いと思える。
手加減されているのだ。しかしまあ、このままだと本当に殺されるかもしれないけど。
「が……い、てて……」
仰向けで倒れていた体を何とか横向きにして、とりあえず瞼を開けて見る。
「ねえ、早くアタシを殺してよ。やっぱり出来ないの?」
「は、あははは……」
何故かは分からなかったが、僕の口から溢れたのは笑いだった。
そしてまた同じ箇所、腹に──今度はつま先を叩き込まれる。鈍い感触がして僕の体は倒れたままで、少し浮いた。中々味わう事の出来ない浮遊感と、胃から込み上げる何かを堪えつつ──僕はまた笑う。
「あははははは」
打撲と幾つかの裂傷、もしかすると骨にヒビくらいは入っているかもしれない。後は服の汚れのくらいか。これだけボコボコにされていて、内臓の破裂すら無いのだから──相当手加減されている。
躊躇している、迷いがある。
変身しておいて、爪も牙もあるくせに使わない。
「何がおかしいの?」
若干の震えが混じった声で詠子は問い掛ける。
「質問、ばかりだね……さっきから」
横向きの視界の端、千頭流が心配そうな表情が覗く。僕は生まれたての小鹿みたいな手足をどうにかこうにかして奮い立たせて、地面に膝を突いて、体を起こすと──無意識に微笑んでいた。
呼吸を落ち着ける暇を探しながら、立ち上がると膝が震える。
「……ウルサイ」
「どーせ君に僕は殺せないよ」
「……」
「あの時だってそうだった。君は完全に『狼』だったのに結局僕を殺せず──そして僕もまた、君を殺せなかった」
ふらふらと、立ち上がった僕は顔を強引に上げさせられた。
「だって……だってさ」
目に入ったのは──泣きじゃくる詠子。僕の胸倉を掴み、弱々しい拳で殴り付ける。それなりに痛みを伴い奥歯なんかは折れたかもしれない。その程度のものを二発、三発と黙って迎え入れる。
「まだ好き、なんだから……しょうがないじゃんっ……」
四発目、五発目のそれに最早力は込められていない。
「好きで、でも無理で……」
やがて彼女は僕に縋り付くように、崩れて落ちる。
「せっかく忘れようとして、頑張ってたのに……なんで会いに来ちゃうの」
「……ごめん」
地面に手を突いて蹲る彼女に、僕が掛けられる言葉はそれくらいだった。
そんな時──千頭流がゆっくりとこちらに歩み寄る。
「……貴方の気持ち、良く分かるわ」
彼女は詠子の隣にしゃがみ込むと、震える体を優しく抱き締めた。
「アンタのせいだッ……アンタのせいで」
「ええ。まあ色々と理由はあるけれど、私は貴方に会いたかったの」
千頭流の言葉の意味が理解出来ず、詠子は顔を上げた。僕もその意味は理解出来ていない。
「間違っていると知っていても、進まなくてはならないと分かっていても──簡単には受け入れられない。それどころか、自分の居場所が何処にも無いような気さえしてしまう。変わりたいとも頑張れば頑張るほど空回りして、自分を見失ってしまう。私にはそれが分かるの──同じだったから」
「……同じ?」
「ええ。憩と出会うまで、私は『居なくなってしまいたい』とずっと考えていたもの。周囲の全てが敵に見えて、何もかもが憎かった。消したかった、消えてしまいたかった。私がどれほど苦悩しても、誰にも理解されず──そのくせ絡み付いて離してもくれない」
恐らく僕も初めて耳にしている、彼女の心情がぽつぽつと流れ出す。
「貴方が抱いている気持ちも、時間がいずれ解決してくれるかもしれない。でもそれじゃ駄目。貴方一人では、きっと壊れてしまう。崩れてしまうかもしれない──だから」
千頭流は詠子の頬に触れて、涙を拭う。
「私と友達になりましょう?」
そう告げられた詠子の瞳が、虹彩が人間のそれに戻って、目を丸くしていた。
「な、なんで……アタシが」
「そうね、敢えて理由を付けるなら──友達になりたいと思った初めての人だった、からかしら。私、貴方の事結構好きよ」
思い掛けない言葉に、詠子は頬を赤く染めている。
「好きってアンタ……」
目を逸らす彼女の頭頂部からは大きな耳が、髪の毛に埋もれるようにして消えていき、すっかり牙も爪も丸くなっていた。
「それに、憩のカノジョである私と仲良く出来たのなら、貴方はもう完璧に大丈夫だと思わない?」
「ははっ……そう、かもね」
もしかするとこれが目的だったのか。
「はい、じゃあ誓いの握手をしましょう」
千頭流が手を出すと、詠子は苦い顔をする。
「はぁ? 別にいらないだろそんなの」
「いらないって事は友達になってくれるのね。良かったわ」
「うっ……」
「ありがとう。よろしくね? 詠子」
千頭流は微笑むと、未だ複雑な心情の詠子の手を強引に手繰り寄せて握る。心の底から祝福している様子でも無いけど、満更でも無さそうな詠子と、逆に満足げな千頭流。
その光景まさしく、僕以外の矯正相手が追加された瞬間だった。
……あれ、なんかオイシイとこ全部持ってかれてる?
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