第36話 ファーストフード店と食料問題
世間は狭い。例えそれは人口密度限界ギリギリのこの都市であっても。この広い世界で、探していたとはいえ連絡先すら知らない彼女を見つけられてしまうのだから。
対して、僕の生まれ育った故郷はど田舎であり──酷く閉鎖的だった。誰が何をしたとかあそこに誰が居たなど、噂は噂を呼びつけて、あっという間に広がっていく。個人間の中で育まれた情報は形を変えて成長を続ける──そんな光景がとても恐ろしく思えた。幽霊や怪物など相手にならない程の──恐怖と絶望。
何気ない一言が相手を傷つける──僕もまた、一つの躊躇いで彼女を傷付けた。
言葉は嫌いだ。言葉は壁だ。
相手を理解出来ないからこそ使い潰すけど、それは本音と程遠い。だから僕は怪物を愛したのかもしれない。言葉ではなく──習性と行動によって愛情を示す彼らを。冷たく、暖かい空気を僕は愛していた。
「チーズバーガーのセット一つ」
千頭流が臆面も無く注文を付けると、詠子は平静を取り戻し──怒りを滲ませた笑顔を作り出す。
「申し訳御座いません。本日は売り切れです」
「そんなに怒らないで。冗談よ」
そう言うと、彼女はメニューの一箇所に人差し指を叩き付けた。
「本当に私が食べたいのは、この照り焼きバーガーセット」
「売り切れですねー」
「いい加減にしなさい。私達は遊びに来た訳じゃないのよ」
「お客様こそいい加減にしやがって下さい。てか何でまた来てんですかね」
「用事があるからに決まってるじゃない──いえ、この場合は注文ね」
「そうですか。さっさと帰れ」
「私、そんなに無茶なことを言っているかしら。ねえ? 憩くん」
微笑ましいやり取り傍観を続けるしかなかった僕に千頭流が目線を送ると、同時に詠子の鋭い眼光と、背後の客からの重圧がトリプルで僕を襲う。
こっちに振るな。
そう思うのは不自然な事だろうか。相変わらず割って入る事が躊躇われる程の仲の良さ、犬猿の仲、喧嘩する程仲が良い、親しき仲にも礼儀あり──そんな言葉達を体現しているような二人だった。
とはいえ昼時のファーストフード店で悶着するのは非常に問題であるので、ここは一つ場を収めなくては。
「と、とりあえず注文を」
「あ?」
詠子の瞳孔、可愛らしい黒目が収縮し白の部分が燻み──狼のものに変貌する。どうやら僕は言葉の選択を間違えたらしい。このままだと大衆の面前で噛み千切られそうだ。
「あはは……じゃなくて、今日はお願いがあって来たんだ」
「アタシはもう会いに来んなって言った筈だ」
「分かってるよ──でも、話だけでも聞いて欲しい」
そうして僕は深く頭を下げた。カウンターにちょっとぶつけるくらい。
背後から喧騒ではない騒めきと共に、奇異な視線とあらぬ疑いの声が聞こえていた。それでも僕は頭を下げ続けて──返答を待っていた。どれほどの時間が流れたのか、何を言われているのか、詠子は気にも留めていないだろう。頭上の先には僕という人間を見定める怪物の姿があるのだと、そんな想像をするのは難しく無かった。
「13時で終わるから」
不意に聞こえた時刻を告げる声に、僕は顔を上げる。
「裏手で待ってて」
そこにはやはり──想像した通りの表情が僕を見据えていた。
退店すると世界が変わる。冷房の効いた室内から灼熱の地獄へと変貌を遂げ、肌の服の間の空間に嫌な湿りが広がった。上を見上げれば反射的に目を細めてしまう日の光。熱せられたアスファルトが僕の足元を形成している。
それでも肩の荷が降りたのか、不思議と体は軽くなっていた。
スマホを取り出し画面を見ると──待ち合わせまでは凡そ20分。暇を潰せる程の余裕は無く、この猶予の使い道は説得の材料を考える時間に充てるべきだと判断した。
「先に裏手とやらで待っていましょうか」
あと千頭流が照り焼きバーガーセットを食べる時間。
「あの流れでよく注文出来るよね」
「レジ前まで行って注文しない方が不自然でしょう。疎いわね憩」
「君も大概だと思うけど」
突発的にも思える、突飛にも思える──しかし彼女は意味の無い言動はしない。凡人の僕には凡そ検討も付かない量の思考を介し、彼女は動いている。それは自身の為だったり、僕の為だったり。きっとあれもこれも、どれもそれも──何かの為に必要な事だったんだろう。
そう思いたい。
ビルの隙間を縫って裏手へと向かう道。表面の綺麗で絢爛な外装とは違う趣な路地裏を抜ける。
轟音を響かせるダクトと換気扇。一歩道を外れただけなのに活気は消え失せていた。細い道が続はどこまでも続いているようで、狭さを感じさせた──と、色々陰鬱な事を独白をしてみたりもしたけど、表通りの眩過ぎる道よりは、こっちの方が落ち着いていて雰囲気が良い。都会には路地裏を歩きたがる変人が居るという噂を耳にした経験があった。今なら、その気持ちが何となく分かる気がする。
先頭を歩いていた千頭流は適当な場所で立ち止まり、ガサゴソと袋を漁った。
「ここで食べるのかい?」
「あそこじゃ落ち着かないし、ここなら貴方の声が聞こえるから、それで充分」
彼女もまた、僕と同じような事を考えていたらしい。
「……そっか」
ふと──昔の記憶が思い返される。そういえば、詠子も似たような事を言っていた気がした。最早はっきりと一字一句正確に思い出す事は出来ないけど、どこか騒がしい場所に行った時、言っていたと思う。
『ここなら落ち着いてお話出来るね』
みたいな感じ、だっただろうか。
淡い過去に浸っていると、何故だか違和感を覚えた。出会った事は覚えている、別れた事も覚えている。幾つかを覚えている──筈なのにどうしてだろう。
詳細を思い出せない。
一つ一つの出来事は知っているけど、まるで他人事のようにも思える。実際に経験して来た筈なのに、あまりにもぼんやりとしているのだ。寝起きで映画でも見ているような感覚。首を捻っても体を捻っても、何も絞り出せない無力感。歯痒い感触だった。
何を、何が、どうして、僕は、何者。
「憩」
「──っ」
不意に名前を呼ばれると周囲の景色が鮮明に戻る。深い水底から引き戻されたように、気が付くと僕は息を引いていた。
「また怖い顔をしてたわよ」
「……また?」
「ええ。これで目にしたのは三度目。私が首の痣を見せた日と、様子がおかしくなっていた瞬間。そして、事件現場を目撃したあの時、貴方はそうして──笑っていたわ」
そう言われて自分の頬に触れたけど、当然ながら何が分かる訳でも無く、客観的な事実だけを知った。
笑っていたのだと。
千頭流は袋から、一本のポテトを取り出して僕に突き付ける。
「食べる?」
夏の暑さが原因か、僕は揚げたてのそれを目の前にしても唾液が出なかった。
「いや、僕は大丈夫」
「食欲が無いの? 駄目よ、そういう時こそちゃんと食べないと」
「それならもうちょっと消化に良い物を……」
首を横に振る僕を見て、彼女は口先を尖らせる──と思えばニッコリと微笑み、今度は小さく口を開けて
「あーん」
と、ゆっくりポテトを進行させた。
「え」
「これなら食欲が出るでしょう? さあさあ、遠慮なんかしないで。私達はカップルなんだから」
徐々に徐々に近付くポテトは、既に僕の唇に当たっていて熱い。嫌がるペットに無理矢理餌を与えているみたいな、そんな状態だろうか。甘酸っぱい高校生同士の青春というには不器用過ぎる。
「あ、あーっぶッ」
観念して口を広げると、思い切り突っ込まれる。
「どう? 美味しい?」
「ご、ごほ……の、喉が……」
「そう。そんなに気に入ったのなら、もっとあげる」
1本、2本、3本──そして4本目でようやく平静を取り戻した僕は、絶え間ないじゃがいもの流れを、反射的に千頭流の腕を掴んで塞き止める事に成功する。いや、これは致命傷を避けたに過ぎない。その証拠に僕の口内からは水分が急激に失われ、視線は無意識に自販機を追い求めていた。
「どうしたの? もしかして喉に詰まらせたのかしら。しょうがないわね──ほら、これを飲んで」
差し出された──やたらと太いストローに、僕は砂漠でオアシスでも見つけたが如く奪い取り、食らいつく。そうして勢い良く飲み込んで、真っ先に感じたのは喉が潤された喜びでも何でもなく、
「……これ」
という違和感。もちもち、すべすべとした歯触りに僕は覚えがあった。淡い過去でも朧げな思い出でもなく、明確に明白な記憶の中にあったそれを、僕は噛み締める。
「タピオカミルクティーよ。美味しい?」
と、手にした透明なカップを見れば、例の黒い玉が盛り沢山詰め込まれていて、僕は苦笑いと冷や汗と満腹感を味わっている。
「さあ、喉も潤ったでしょうし、もっとポテトを食べましょう」
「いやもう良いって」
「そう?」
「うんうん。もうお腹一杯だからさ」
「でも私はまだ満足してないの」
そして彼女は、再度ポテトを構える。この場が纏っている空気と雰囲気が明らかに変わった。
「食べ物で遊ぶとバチが当たるよ」
そう告げて、僕もまた不敵に微笑み、構える。
「日本の食材廃棄量を知ってもそんな事が言えるかしら。年間約1700万トン、その内食べられる部分、つまり可食は800万トンであり、この数字は世界全体の食料援助量の約2倍。対して私はポテトを無理矢理食べさせようとしているだけ。さて、これはバチ当たりなのでしょうか」
「大きな問題と比べても、君がしようとしていることは変わらない」
「大きな問題と言っている時点で、貴方は本質を理解していない。これは個人レベルで気を配らなければいけない事であり、生活の中での工夫こそが未来を切り開く可能性。誰もが目を背けているから、皆がやってるから、そんな言葉で片付けてしまうから、世界は優しくなれないのよ」
「……何の話だっけ」
「さあ? 何でしょうね」
彼女は微笑み、手にしているポテトを頬張った。やたらと満足そうに食べる千頭流を見て、どうにも消化不良感が残って──腹が膨れた。
「アンタらさ、何やってんの?」
「え」
と、僕達の勝負に水を刺す声の主は、呆れを通り越して最早冷静さすら感じさせている──詠子のもの。
「やたらマジな顔してたから、何かと思えば……もしかして馬鹿にしてる?」
一部始終を見ていたのだろうか、彼女は見るからに激昂している。僕はその姿に多少怯んだけど、当人の一人である千頭流もまた、詠子の言葉に機嫌を損ねたようだった。
「それは聞き捨てならないわね。私達にとってこのやり取りは必要なものであり、重要なコミュニケーションなの」
初耳、というか寝耳に水。
「え、そうだったの?」
それは思わず素直に首を傾げてしまう程に。しかし千頭流の険しい視線が突き刺さったので、僕は慌てて表情を取り繕う──と、こんなやり取りでさえ、詠子の瞳には茶番として映ったのだろう。
「……もういい、話があるんでしょ。ここじゃなんだからさ、付いて来てよ」
歪んだ口元が歯茎を覗かせ、キュートだった八重歯が──鋭く研ぎ澄まされて、瞳孔は開ききっている。気配は刺々しく、しかし表情は変わらず。じっと見つめるその瞳は、
「ねえ、お二人さん」
いや、見つめるというより──狙いを付けているというのが正しいか。それも僕ではなく、千頭流へと向けて。
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