第28話 家路に着く僕と彼女
「悪魔が居るんだよ。この街に」
詠子は他人事のようにさらりと言う。
「……そっか。他には何か知ってるかい?」
「知らないし興味も無い」
悪魔は怪物と互いに、暗黙の了解が如く不可侵である。敵の敵は味方では無いけど、標的はいつだって人間だ。だから彼女のような怪物にとって、悪魔の脅威など何の興味関心も無いのは至極当然の事。
「アンタ、また向こう見ずに首突っ込もうとしてるでしょ──しかも今度は人間に味方するってわけだ」
「味方というか、僕だって人間なんだから当然だろう」
詠子は目を細めると、やがて鼻を鳴らして微笑んだ。
「そ、まあ別にアンタが何をしようが知ったこっちゃないけどさ。一つだけ約束してよ」
「?」
「もうアタシに会いに来ないで」
唐突に突き付けられた拒絶に、僕は少しだけ硬直する。どうして詠子が、今の今まで和やかに話をしていた彼女がそんな事を言ったのか、一瞬理解出来なかったからだ。
だけど、間を置けば──詠子のぎこちない笑顔を見てしまっては、僕は、
「分かった」
そう答えるしか無かったんだ。
彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。と、どこかの誰かが書き記した黙示録に、そんな記述があった気がする。硫黄の雨、辛酸を舐めさせられて、日夜地獄で苦しめられているのだと。
しかしだからといって。とは言っても。理由は定かでは無いけれど──悪魔というのは活動の痕跡として硫黄の香りを残したり、そのものを現場に置いていったりする。瞳は金色に輝いて、腐った卵を置き去りにするのだ。
日本は閻魔の領分だろうに、わざわざアメリカやヨーロッパから、遥々こんな島国までやって来る彼らは一体何の恨みがあるというのだろうか。まあそれでも、初めてでも無いし驚きはしない。
大した情報も得られず、僕達は帰路に着く。分かった事と言えば──とにかくまあやべえ輩が、この街に何らかの何かをしているんじゃないか、という曖昧だけ。
店内から出ると、また鬱陶しい熱波が全身を包み込んだ。見上げると空が赤く染まりかかっているので、そろそろ涼しくなってくると思うけど、あの冷気を体感した後ではどうにも望みは薄い。
「……」
それに加えて、元カノに絶縁宣言を食らってしまったので、僕は結構分かり易く落ち込んでいたと思う。『はぁ』と溜息なんかも出ていただろうか──いや、恐らく出ていたから、
「むぎゅ──ぐえ」
と両頬を掌で包まれて、首を強引に曲げられて、視線を合わさせられた。
「もしかして、あの女に未練でもあるんじゃないでしょうね。いえ、あるんでしょ」
「にゃいよ」
「可愛く言っても誤魔化されないわ。正直に答えなさい」
「じゃあみゃず手をはにゃしてくれにゃいか」
眉間に皺を寄せて、渋々と、仕方が無いと、深く息を溢しながらも千頭流は手を離す。僕はまず首の調子を確かめるように、左右に捻ったりしながら、折れてはいない事を確認した。
「未練というか──後悔が正しい」
「その違いが私には分からないわ」
返す言葉も無く、僕は言い淀んでしまう。
詠子と別れた原因は僕の力不足によるもの。だから未練では無く後悔とそう思っていたけど、改めて他人に指摘されてしまって、僕は感じているものがどちらなのか分からなくなった。
千頭流はどこまでも、焼き付けさせるように僕の目を見て言う。
「未練でも後悔でも、引き摺っている事に変わりない。進もうとしているのなら、変わりたいと願っているなら切り捨てなさい。いつまでも重荷を背負った気になっているのは時間の無駄だし、何より──あの女にも失礼だわ」
顔を掴まれなくとも、僕は彼女の夕陽に染まる──潤んだ瞳に釘付けになった。
引き摺る事も悩む事も立ち止まる事も、彼女は一切許さない。進む事を強要しているとも取れる強引さだけど、色々足りない部分の多い僕には丁度良いのかもしれない。
「そうだね。ごめん」
「大体カノジョの私に失礼じゃない? 貴方が今付き合っているのは誰? それをよくもまあしょげた顔を見せてくれたわね。しかも理由は元カノにちょっと強く拒まれたとか──ああ、ムシャクシャする」
本音が溢れているような気がしないでもないけど、多分どっちも同じなんだろう。
「まあまあ……というか、よく詠子が居る場所が分かったよね。千頭流は凄いなあ」
なので、僕は分かり易く話題を切り替えた。
「簡単よ。憩は別れた理由を『方向性の違い』なんてほざいていたじゃない?」
まずい、話題が切り替わって無い。
「う、うん。そうだよー」
「事情があって別れた。納得はしていたでしょうけど、つまり──お互いが妥協した結果そうなった。そんな妥協なら歪みを生むのは明白。であれば自暴自棄になって、行きそうも無い場所に居るんじゃないかと思っただけ」
「な、なるほど」
「大人しい子が騒がしい場所へ、グルメなあの子がファーストフード店へ。見た目や言動なんかも典型的に荒んでいたようだし──きっとあの女、まだ憩の事が好きなのね。だから最後に『あんな事』を言ったんじゃないかしら」
彼女が並べているのは全て推測だ。しかし、当て嵌まるから困りものなのである。言われてみれば、なるほど確かにそうかもしれない、なんて安易に思ってしまう程に。
「まだ好きで、だから会った時にびっくりして殴っちゃったのね」
身を守る為の攻撃。嫌よ嫌よも好きの内。どうにもこの世界は、相反する二つの表と裏で成り立っているのだと改めて実感させられる。
詠子は変わってしまった。僕は最初こそ衝撃を受けたものの、もしかしたらあれは、彼女は変わろうと踠いている証拠なのかもしれない。僕を突き放したのも、苦しくて辛いからというだけでは無く、進もうと、目の前の障害物を押し除けただけなのではないか。そう思えた。
「やっぱり付いて来て正解だったわ。隙あらば奪い取られていたかもしれない」
「僕がせっかく良い感じで解釈してたのに台無しだよ」
「解釈は人の数だけ存在するわ。正解も同様に。つまり私にとっては私が正義。異論も認めない」
千頭流は胸を張って宣言すると、ゆっくり歩き出す。
またしても彼女は正しい。人の心など見える──人間が居ない事も無いけど、結局本当のところは当人にしか知り得ない。であれば正解もまた当人の中にしか存在しないのだから、あれこれ悩むのは時間の無駄なのだろう。
僕は千頭流を──客観的な事実に基づいて評価を下すなら『足手まとい』と考えていた。加えて怪物を寄せ付ける篝火にもなるだろうと。しかしその評価は改める必要がありそうだ。彼女は人間として醜い部類に属する。他者を巻き込んでも平然と呪いを完遂させようとする悪人。だがそれは逆に──強さでもある。情に流されず、自分の鬱憤を晴らしたいという欲求を満たせる彼女は──ある意味、人間として究極的に強固だ。
「君は本当に頼もしいね」
頭も切れるし突っ走れる。こういう人間は、案外怪物退治には適材なのかもしれない。
「不思議、褒められている気がしないわ」
「いやいや、本心だよ」
「そう? じゃあ嬉しい」
振り返らずに答える小さい背中を、僕もまた追うように歩き出す。
そうして肩を並べた時、ふと視線が交わされた。示し合わせたかのように笑ってしまった僕達は、周囲から見てどんな関係に見えているのだろうと、そんな意味の無い事を思えるくらいには──幸せだったのかもしれない。
そして僕達は、示し合わせる事も無く──今日はお互い『家に帰る』と口を揃えた。それはきっと、お互いに気持ちを整理する時間も必要だったから。
心配には変わりないけど、今日一日くらいなら平気だろう。
街を歩き、電車を乗り継いで、彼女の家まで送って──玄関に吸い込まれていく後ろ姿を見て、僕は思わず伸ばしそうになった手を引っ込める。
「念の為魔除は張っておくから──また明日」
「ええ。また明日」
扉が閉められてから、数秒間だけ僕は立ち尽くしていた。自分の抱えてしまった感情に名前を付ける事も出来ず、どうしようもなくて結局歩き出したけど、一人にしておくのは心苦しいし心配だけど、すぐにどうなるということは無いだろうけど、夏休みとはいえ四六時中一緒に居る訳にもいかないのだから、当然の事だけれども、けどけどけど──。
千頭流と分かれて、僕が向かった──というか帰ったのは当然自宅だ。
「……すー子ちゃん、元気かな」
近所の小学生に『廃墟』などと不名誉な渾名を付けられてしまった我が家。思えばここへ帰って来るのも随分久しぶりである。これだけ長い間留守にするのは久しぶりの事だったが、問題は解決どころか膨れ上がっているのだから、こうして自宅を前にしても一向に気が休まらないのは仕方が無い。
ミシミシ、と鳴く階段が悲しい。剥げた塗装が寂しい。鍵を取り出して差し込む音を聞くと、長い旅行から帰って来たように錯覚した。
「ただい──」
建て付けの悪い玄関を開けながら、ウチの天使はどうしているだろうと考えていた。ある訳無いが、もしかしてお腹を空かせているのではないか、僕の事を心配しているのではないか、そんな不安と期待を折込んでいたけど、
「ご主人……エアコン壊れました」
開けた瞬間目に飛び込んで来たのは、廊下で腹を出して横になって、恐らく僕の心配など微塵もしていなかったであろう──ぐうたらな元天使の姿だった。
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