第9話 彼女とおやすみ
風呂から上がった僕は、何を着ていると思う? それは彼女の──父親のシャツだ。ずっと押し入れに閉じ込められていたであろう、折り目の付き過ぎているYシャツに袖を通した時、僕は思った。
明日は家に帰ろう。こんなもの(多分失礼)をずっとお借りする事は出来ないし、というか彼女自身は抵抗が無いのだろうかとも思ってしまう。僕がこれを着た瞬間、彼女は何とも言えない顔をしていたし。
それに──幾つか用意しておく必要もありそうだ。
見壁の思いもよらぬ弱点が知れ、僕は不思議と上機嫌になった。もしかしたら単純に深夜だからテンションが上がっているだけかもしれないけど、なんだかとても楽しかった。
と、せっかく夏休み。絵日記を書くとしたらこんな感じだろう。驚愕した彼女の表情をイラストに添えるのも良い。大変良く出来ましたとハンコを貰える事間違いなしだ。
「いやー、良いものが見れたよ」
僕の素直な感想に対して、彼女はやたらと目を細めて返す。
「男の子って、女の子が怖がってるのを見ると楽しそうよね。こっちは本当に怖いのに、助けて欲しいのに、貴方達はいつも腹を抱えて笑い転げるばかりで──そんなんだからモテない、という事さえ分かっていないのだから、本当に滑稽。大体人が恐怖している瞬間の何がそんなに楽しいのかしら。もしかして『怖がって可愛い女子』を演出しているとでも思っているのかしら。いいえ違うわ。本当に怖いだけ、助けて欲しいだけなの。そしてもし仮に助けられたとしても、女の子は感謝なんかしない。惚れたりもしない。だってそれは当然の事なのだから。まともな人間だなと思うだけで、そこには万に一つの可能性も無い。まあそんな勘違いなら一生続けていれば良いわ。そして一人で孤独に死ね。例え貴方が困っていたとして、私はそれを腹を抱えて見ている事にするから」
ベッドの上で布団を被り、目線だけをこちらに向けて彼女は言った──というか論じた。
「いやそんなに言わなくても」
見壁の瞳がいつもより切れ長になっているのは、ただ眠いからだと思う。
時刻は深夜3時を過ぎた頃。見壁千頭流は、今はこんな感じだが普段は優等生だ。本当なら今頃とっくに夢の中。それでも彼女はこうして話を続けていられているのは、その知性のおかげだろうか。
しかしそれもいよいよ限界らしい。
見壁は遂に瞼を閉じて、自分が最も眠り慣れている体勢であろう、つまり、仰向けになった。
「……電気消すよ」
「ええ……お願い……」
返答も朧げだ。もしかしたら意識の半分くらいは向こうの世界かもしれない。
エアコンのおやすみタイマーを適当にセットして僕は立ち上がると、部屋の隅に行きスイッチを切り替える。煌々と付いていた白色の光を、淡い茶色の豆電球へ。
薄暗くなった一室の中、彼女の寝息はまだ聞こえない。
「多々里、君……」
代わりに名前を呼ばれ、僕はどんな罵倒を浴びせられるのかと辟易する。
「ん?」
しかしながら飛んで来たのは罵倒ではなく、また、予想外のものだった。
「──おやすみなさい」
「ああ……おやすみ」
小さく息が漏れただけ、そう思ってしまう程僅かに、彼女は鼻を鳴らす。
「……久しぶり……こんな事を言う……のは……」
そうして聞こえて来た深い寝息を耳にして、僕は暫く彼女を見ていた。
薄暗い中で僅かに見えた彼女の表情。笑っているのか泣いているのかどっちとも取れない、そんな顔を。そもそもこんな暗がりでは正しく認識出来なかったけど、僕は何故だかその顔を、ちょっとの間見てしまっていた。
僕はそんな自分の行動を鼻で笑い飛ばすと、出来るだけ物音を立てないよう注意を払いながら、自分の鞄を探る。心許ないが何も無いよりはマシだろう。
手探りで、中から小瓶と数枚の紙、そして筆ペンを取り出した。
小瓶の中身は言わずもがな──食塩である。別に味変の為とか昼食に茹で卵を用意していたとか、そういう事ではなく。いざと言う時の為の最低限の備え。紙と筆ペンもそう。所持品検査をされても余裕で誤魔化せるような品だが、これはこれで以外と役に立つものだ。もし皆さんが超常現象に見舞われた時には試してみて欲しい。
脳内で3分クッキングのBGMを流して、行動を開始する。
まずは食塩の蓋を開けて、彼女の体に満遍なくふりかけます。この時躊躇してはいけません。そうして中身が空になったところで──実はもう一本隠し持っていた食塩を再度振りかけます。寝ている事を良い事に、顔、布団、足先まで余すとこなくふりかけましょう。
次に紙と筆ペンを用意します。筆ペンが無ければ、墨汁と毛筆でも構いません。重要な点は、墨が清められたものであるということですから、お近くのお寺や神社で清めて下さい。出来るだけ墨が浸透しやすいものであれば、紙は何でも構いません。
それから適当に効きそうな魔除を幾つか書いて、ベッドの四隅に設置すれば完成です。
「……」
ふと、部屋の温度が冷える。
冷房のせいでは無く、違和感を感じて視線を巡らせれば、その答えは知れた。
こつ、こつ、こつ、
と足音が聞こえる。視線を向けると──部屋の扉が、風にでも押し出されたようにゆっくりと──開かれた。目を凝らしても、そこにあるのは廊下の暗闇だけ。
恐らく彼女の呪いを起点として──集まり──集り始めているのだろう。
侵食を始めたこの家を出て行くべきか──いや、それはよろしく無いと僕は直感した。そもそもこの家以外のアテなど無いし、他所様に迷惑を掛けるわけにもいくまい。最悪僕か彼女──僕と彼女が死ぬだけで済むのだから。災厄は最小限に留めておくに越した事は無いだろう。
しかし念の為、もう一枚魔除を記してクローゼットに貼り付けると、堪える事なく欠伸をして適当に横になる。
すると、人の家で寝泊まりをした経験は余り無いけど、僕は意外にもすんなり意識を手放したのだった。
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