第8話 彼女とお風呂

「多々里君多々里君。ちゃんといる?」

「いるよ」


 しばしの沈黙。


「多々里君多々里君。まだそこにいるかしら?」

「はーい」


 しばしご歓談。


「多々里君多々里君」

「いるってばよ」


 とそんなやり取りも、もう何度だろうか。


 曇りガラスに背を付けて、湯船がピチャピチャと跳ねる音と、時折聞こえる鼻歌に耳を傾けていた。


 彼女はまだ、浸かっているつもりらしい。2、30分は経ったと思うけど、女子がどれくらいの時間を浴槽で過ごすのか検討も付かない僕とっては、とても退屈な暇だった。瞼が重くなって自然と頭が垂れていく中で、先程の──腕に対して思慮を巡らせている。


 自らの首を絞める──と、そんな冗談を言ったのだが、それは満更冗談でもなく比喩でもなく、言葉通りに直接的に、見壁は自らの首を絞めていた。藁人形に込められた思いは、呪いと化して、彼女に取り憑いていたのだ。


 人間が取り憑かれる原因は多くあるが──取り憑かれる条件は殆ど場合、一つだ。弱っている、疲弊している、疲れている……憑かれている。取り憑く島があるから、そこをつけ込まれる。


 彼女の負の感情、弱い心──怪物は──そういうものを好んで狙う、いつでも狙い澄ましている。


 一軒家で一人孤独に過ごし、学校では抑圧されて生きている──見壁千頭流という少女が、何故呪い呪われたのか。その理由を知れば僕は少しだけ──同情してしまうのかもしれない。

 

「僕を家に招いたのはどうしてだい?」

「随分突然ね。それはどういう意味かしら」

「君は確かに幽霊の類を信じたんだろう。けどそれは──僕を信じられる、という事にはならないじゃないか」


 ちゃぽんと、湯の音がした。少しの沈黙の後に返答。


「多々里君を信用したのではなく、それ以外、貴方以外、頼る者が無かったからよ。勘違いしないでよね」


 見えずとも、彼女は恐らく顔を背ける感じで、そんな事を言っている気がする。


「それでも、信用していない人間──それも友達でもなんでもない、ただのクラスメイトを家に上げるとは」


 クローゼットの件もそうだ。見られたくなかったのなら、僕を家に上げる前に理由を付けて隠せば良い。猫被りだって、今後を考えれば暴露する必要性も感じない。彼女なら他に幾らでもやりようはあった筈なのに、全てを曝け出した。まるで知って欲しいと──見て欲しかったと、そう言わんばかりに。そんな行動を、見壁は積み重ねた。


「何が言いたいの?」

「別に。ただ──不思議に思っただけだよ」


 きっと僕の疑問をそのまま口にしたところで、彼女はその全てに理由を付けられるだろう。だからこそ、そう──言葉通り、思っただけ、なのだ。


 しかし意外な事に、そんな疑問を解消してくれたのは彼女自身だった。


「私は貴方の事を可哀想だと思う」

「……可哀想?」

「ええ。とっても可哀想。貴方は教室で、楽しそうに色んな子とお喋りしているけど、誰一人として多々里君の言葉を信用して聞いてる人はいなかった。まあ、貴方はそんな事気にも留めないでしょうけど、私はそれを見ていて──ずっと痛かったの。痛くて、痛くて、可哀想で。いつしか私は貴方に──同情していたわ」

「同情? 君の言葉は皆に信用されていただろうに」

「……そうね、皆が求める見壁千頭流の言葉は、それはもう、とっても信用されていたでしょう。でも、だからこそ──私は貴方に同情していた。いえ、同調していたかもしれない」

「……ふーん」


 鼻歌が止み、水の音も聞こえない、そんな静寂が続く。


 僕の与太話は確かに信じて聞いている者など居なかったし、それは知っている。彼女からすればそれは、届かぬと分かっていて口を開く僕はきっと──滑稽に思えたのだろう。そしてまた、彼女も彼女で在り続ける為に。言動を、行動を、趣味嗜好すら抑制して、届かない、届けられないもどかしさを抱えたままで。なるほどそれなら同情するのも頷ける、気がする。

 

 対策とか、今後の事とか、様々な懸念が浮かんでは消えていた僕の思考も、自然と停止した。


「多々里君多々里君。まだそこにいる?」

「いるよ」


 またこのやり取りに戻るのか、そう思ったのだが、


「どうしてまだいるのかしら」


 と言われてしまった。冒頭にはあれだけ確認してきたくせに、言われてしまった。


「え」

「そこに居られたら服を着れないわ。もしかして、私の裸が見たいの?」


 君が死んで幽霊になったら喜んで、とは言わない。僕は見壁と違って気が効く男だからだ。


「いや遠慮しておくよ。趣味じゃないしね」


 湯船の弾ける音、どうやら見壁は浴槽から勢い良く飛び出したらしい。不透明で不鮮明なガラス越しに、彼女のシルエットが浮かび上がる。背中を向けていた筈なのに反射的に顔を向けてしまったのは、別に彼女の裸体が見たいとかそういう訳じゃなく、単純に音にびっくりしたからである。いや本当だよ。


「それは聞き捨てならない。私程の透明感のある美少女は中々居ないのに」


 それを自分で言うのか。


「まあその、透明感があるのは認めるけど、いや──個人的にはもっと透明感が欲しいかな。寧ろちょっと半透明なくらいに」

「そんなのまるでお化けじゃない」


 まるで、というかまんまお化けが好みなのだが。


「アハハ、そうだね」

「決めた──次は貴方だけを呪ってやる」

「どうせまた失敗するさ」

「いいえ。今度は徹底的に調べ上げて実行する。まずは貴方の髪を全部バリカンで刈り上げて、練り上げて、それそれもので人形を作って、7日と言わず777日間は呪って──くしゅん」


 呪詛のように恨み辛みを投げ掛ける彼女は、言葉の端を切る。いや切る、というより吹き飛んだ感じだ。それは小さく可愛らしいものだったが、風呂場だったせいもあって、見壁のくしゃみはどえらく響いてしまったのだ。


 再度流れた静寂は、とても気まずいもので、


「……服を着ようか。僕は外に出ているよ」

「……ええ。そうして」


 彼女は珍しく、僕の言葉に素直に従ってくれた。


 彼女が長風呂を上ると、やっとの思いで僕の番が回って来た。とはいえ、僕は風呂があまり好きじゃない。だからいつも手早くシャワーだけで済ませてしまう。それは雪が降ろうと霰が降ろうと、犬が庭駆け回ろうと、猫がコタツで丸くなろうと──見え始めてからは、ずっとそうして来た。


 曇りガラス越しに彼女の背中が見える。


「多々里君多々里君。私はここにいるよ」

「……え、なんだって?」


 シャワーが流れる音で何にも聞こえない──フリをした。いい加減付き合ってられないから。『どうせ聞こえてるんでしょ』と愚痴が聞こえているけど。


 適当に相槌を繰り返し、水滴が髪先を伝って体を這う様子を見ていた。


 水とは神聖なものらしい。


 聖水、清めの水、浄水、恵の雨、神酒。しかしながらそれと同じように、穢れを溜め込んでしまうものでもある。この浴槽などは最たる例だ。何せ1日の汚れを落とす場所なのだから。


 水とは穢れるものである。


 汚水、下水、泥水、毒された水、濁流、氾濫。だからこそ──良くないモノが集まりやすい場所でもある。水場には近付くなとはそういう事なのだ。人が清め、人が汚す。そしてそれは人間自身も同じ事。人体の殆どを液体で形成しているのだから、当然清める事も出来るし、穢れる事もある。


 つまり何が言いたいかっていうと、僕はすぐにのぼせてしまうので風呂に浸からない、という話だ。


「多々里君!! 多々里君!!」


 と下らない独白をしていたら、大きな声とドンドンと風呂場の扉を叩く音が聞こえる。


 焦って、焦燥して、ひっきりなしに見壁は戸を叩いていた。何か大変なことが起きているみたいに。水場のウンチクを延々語っていたせいだろうか、でもまさか、こんなに短いスパンで襲われることがあるのか。それに僕は何も感じ取っていない上に、彼女は声を上げている訳だから、別に首を絞められている訳でもない。それに戸を叩いているのだから、体の自由は少なくとも効くのだろう。


 いやいやそんな事を考えている場合じゃない。


「どうしたの!?」


 しかし流石に生まれたままの姿を全面に押し出す事は出来ず、僕は顔だけをひょっこり出すに留まった。


「た、多々里君──助けて──」


 彼女は酷く憔悴した顔で、洗面台の下辺りを指差した。怯えきった様子なので指先は震えてしまっている。


「……ああ」


 視線を送るとそこには大きくて、羽が生えてて、寧ろ驚いている彼女の方が珍しいくらいの、少なくとも超常現象よりはありふれている──羽虫が居た。彼女は一人暮らしの筈なのだが、この様子だと恐らく、こういったモノに出会した際は脱兎の如く部屋に逃げ込んでいるに違いない。


「健闘を祈る」


 短く労って、素早く扉を閉める。


 僕はその時──ああ──夏だな、としみじみ思った。

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