第三話 深みゆく、関係

 確かあれは、六月に入ったばかりの頃だ。

 一緒に受講するはずの一般教養パンキョー科目で、瑞美が現れなかった。

 不審に思っていた私だが、授業が始まり少しして、ほぼワン切りに近い着信が二つほどあった。


 何かあったのかもしれない。


 胸騒ぎがして、急に不安になってきた私は講義室を飛び出し、正門を駆け抜け、瑞美のワンルームへ向かった。

 慣れない運動のせいで身体に異常をきたしたのか、それとも瑞美のことが心配で血の気が引いたのか。

 初夏にもかかわらず妙に全身が妙に寒く、部屋の前に来た頃には身体の震えが止まらないほどだった。

 瑞美のマンションは今どきの作りで、開錠は認証された端末をかざせば開くという、現代的な機能を取り入れている。私の端末も認証してもらっているせいで、普段であればあっという間に開錠出来、中に入ることが出来るのだが。

 この日に限っては上手く開かない。

 仕方なく、震える手でチャイムを鳴らす。すると、ドアがかちゃりと開き。


 そこに、が。


     *


 ——私が目を覚ました時、そこは瑞美のワンルームのベッドだった。

 いつも見慣れた明るい色のカーテンに、模様。

 瑞美らしい、ガーリーなテイストで、あまり定まらない視界の中、安心を抱く。

 目を動かし、キッチンの方を見ると、ぼんやりとした視界ではあるが、瑞美が料理をしているようであった。

 ふわりといい匂いが漂ってくる。


「あ、祥子ちゃん起きた」

「あれ……」


 記憶が混雑する。確か玄関が開いて、それで。


「びっくりしたよ、入ってくるなり倒れこんで」

「え、そうなの」

「運ぶの大変だったんだから」


 う、と言葉に詰まる。最近あまり自分自身に気を遣っていなかったので、1キロくらいは太ったかもしれない。

 しかも一回り小さい瑞美がここまで運ぶのは、大変な労力だっただろう。

 上半身を起こすと、視界が少しばかり揺れはするものの、部屋に入る直前のような悪寒や目眩めまいはほぼ無くなっていた。


「はい、どうぞ」


 そこに瑞美が深皿に入ったシチューを持ってきて、ローテーブルの上に置く。

 初夏にシチューというのも変な組み合わせだが、湯気と共に広がる香りに思わずお腹が鳴る。

 床に座った私は、恥ずかしさを隠すようにそれをすくい、口に運ぶ。


「おいしい」

「良かった。あたし、初めて作ったから自信なくて」


 瑞美は料理が上手だ。

 インターネットで見たレシピをアレンジしながら作るのが得意らしく、大概お店で出されるようなものが出てくる。

 ただ、確かにシチューを作ってもらった記憶はなかった。

 ぺろりと平らげ、ようやく落ち着いてきた私は、瑞美に尋ねた。


「それより瑞美は大丈夫? ほら、授業にも来ないし、変な着信が二回も」

「あーうん? 大丈夫。ちょっと実験してただけ」

「実験……?」


 何とも変な表現だった。さらに深く聞こうとした時。

 急に瑞美が抱き着いてきた。

 突然の出来事に何が何だか分からない。もしかすると、私は気絶したままで夢でも見ているのだろうか。


「瑞美、その、」

「こうしてたい」


 吐息が首に触れる。そこには普段の彼女にはない、蠱惑こわくがあった。

 それに魅入られるように私もその小さな身体を優しく抱きしめる。

 それ以上、言葉なんていらなかった。

 私達はお互いのぬくもりを、ただ感じていた。

 エアコンの効いた部屋は妙に冷えていたけれど、だからこそ、身体の火照ほてりをより一層強く感じた。


 しばらくして、あまり言葉も交わさないままに私は部屋を出た。

 西日で世界はオレンジ色に染まり、雨も降っていないのに、妙に湿度の高い外気が肌にまとわりつく。

 それでも、家路に着くまでの時間は、これまでの人生で一番満たされたものだった。


 翌日、何事もなかったかのように瑞美と講義を受けた。

 その姿は昨日のものとは打って変わって、楽しげなふんわり女子に戻っていた。

 私は昨日のことを改めて話題には出しづらく、瑞美はあまりにも普段通りだった。


 ただ、この日以来、時折そういう雰囲気になることがあった。

 瑞美が持つ二つの側面、そのギャップに、私はどうしようもなく惹き込まれていった。

 こちらから誘ってのナイトプールや、スノボ旅行に行ったりした時は全くそんな雰囲気にはならないのだが、瑞美から誘われて遊びに行く時は、手を繋いだり、腕を組んだりとスキンシップが多く、何度もドキリとさせられた。


     *


 と、耳元で低く鈍い振動音が響き、回想が途切れ、我に返る。

 端末への着信だった。

 目元からこぼれていた涙をぬぐい、ディスプレイを確認する。

 夜間モードにしているせいかそこはやけに暗く、さらに滲んだ視界ではよく見えない。

 正直、通話が出来るような心持ちでもなかったが、何となく妙に引っ掛かり電話を取ると。


「おねえちゃん?」


 遊園地で聴いた、歌を唄うようなあの可憐さが、耳の奥をくすぐった。

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