第六話 青い世界で、君を識る
午後七時過ぎ。
仕事が終わりマンションに辿り着いた私は、後ろ手で鍵を閉めるなり、ずるずるとドアを背に座り込んだ。
廊下の先にある暗い自室は、心なしかいつもより闇が深い。
テーブルやベッドの端も、
ようやく、一週間が終わった。
仕事が好きだと豪語していた私だったが、今週ほどきついものはなかった。
といっても、深夜残業するほど業務量が多いとか、クレーム対応の嵐で
あの水曜日の一件以降。
上司がタコのお化けに見える怪現象こそ起こらなかったものの、例の視線は強くなり、また、一箇所ではなく複数から同時に感じられるようになった。
何なら対面しているパソコンからも時折感じるくらいで、とにかく精神衛生上好ましくなかった。
一日一回はやり取りしている「アトウ」が居なかったら、すぐにでも心療内科に駆け込んでいたくらいだ。
実のところすでに予約は済ませてある。
来週の診察になってしまったが、それまでは何とか頑張ろう。
座り込んだまま自室を眺めていると、目が慣れてきたのか、少し青みがかった世界へと変わってゆく。
その色が、私にとって最も大切な思い出を呼び起こす。
瑞美と付き合うことになった、あの少し肌寒い初冬の夜のことを。
*
大学三回生の十二月になる直前のことだった。
お互い専攻のゼミやインターンシップなどで忙しく、しばらく十分な時間が取れなかったのだが、不意に瑞美から連絡があった。
就活などで忙しくなる前に旅行に行きたい、との提案であった。
会えない時間が寂しさを募らせていたところでの、瑞美からの積極的な提案。
私は二つ返事でOKした。行先も瑞美が既に決めており、電話口の向こうでその場所が告げられた。
上野駅から東北新幹線で二時間。
降りた盛岡駅からバスでさらに二時間。のどかな風景が続く片側一車線の国道455号線をひたすら進んだ先に、旅の目的地はあった。
——龍泉洞。
山口の秋芳洞、高知の龍河洞と並び、日本三大鍾乳洞とも目される場所だ。
鬱蒼とした大自然を背景にして、道の両脇には龍泉洞ののぼりが風でバタバタとはためいている。
東京よりはるかに冷え込んでおり、服の隙間や指先から冷気が忍び込んでくる。
雪が降っていないのは、せめてもの救いだった。
「また、なんでこんな遠路はるばる……」
予想を遥かに超えるの長旅で、瑞美のチョイスに疑問を感じていた私だったが、見たら祥子ちゃんもここに来たかいがあったって思えるよ、と言われ、手荷物をトイレの近くにあったコインロッカーに預け、チケットを購入し、入洞口へ向かう。
観光名所としての歴史も長いのだろう。
雰囲気のある整備された入口を通り、洞内に降りていくと、意外にも外と温度が変わらない。
冬場は地底のほうが温かいからね、と言われ、なるほどそういうことか、と得心する。地球の不思議だ。
そしてしばらく進んでいった先の光景で、私は思わず感嘆の息を漏らす。
特殊な光に照らされた岩肌は、陰影が深く、無骨なのに不思議と魅かれるものがある。
通路の横に広がる地底湖は、まるで宝石を落としこんだかのような幻想的な青を湛えている。
ドラゴンブルーという名前で親しまれているのだそうだ。
人の時分では踏み込んではならないような圧倒的な美しさが、そこにはあった。
あまりの絶景に心
ひんやりとした指先が心地よい。こうしている時間が何よりも好きだった。
寒い季節のせいか、他に観光客がいないこの地底を二人で歩いていると、本当に異界にでも迷い込んだかのような錯覚になる。
でも、繋がった手から伝わる存在の大きさで不安は全くなかった。
地底湖の青に照らされた瑞美の横顔は、この世のものとは思えないほどの神秘的なものに見えた。
静まり返った世界に、キィキィというコウモリの鳴く声が洞内に広がる。
甲高い音があまり好きではない私だったが、この時は妙に心地よく耳に響いた。
探索の時間はあっという間に終わり、再び外界に出た私達は、本日宿泊する旅館へと移動した。
*
龍泉洞からほどなく近い場所にある旅館は、歴史を感じさせる風情ある表構えであった。
家族旅行でも洋式のホテルばかりであった私は、初めてといっていい和風のテイストに、否が応でもテンションが高まっていった。
玄関では人の好さそうな女将に出迎えられ、部屋に通される。
純和風で十畳ほどあり、女二人で泊まるには十分すぎるほどの広さであった。
料理も豪勢で、旅館自慢の風呂も心地よい。
旅の疲れは一気に
暖房の低く
私と瑞美は少しだけ離れたそれぞれの布団の中で、取り留めのない話をした。
積極的な時の彼女にしては、あまり難しい話が出てこない。
流行りの服の話をしてみたり、芸能人の話をしてみたり。
なぜか妙にアンバランスで、それゆえに、唐突に会話が途切れた彼女に。
想いを、伝えた。
「私……瑞美が好き。親友とかじゃなくて、その、もっと深く付き合いたい」
「……」
瑞美からの返答はない。
でも、私はもう満足だった。今日言えなかったら、多分一生言えない。
駄目だったら、いい親友で居続けよう、もしくは友達のうちの一人くらいで居させてくれるなら、それでも――。
そんなことを思っていた私の唇は、瑞美のそれで塞がれていた。
長い時間、本当にそうしているのが当たり前なくらいずっと、そうしていた。
知ってた。あたしも、あいしてる。
照明がないせいで、表情が見えないけど、とても嬉しそうな声だった。
その後は、お互いでお互いをひたすら温め合った。
少しでも離れれば感じる肌寒さが怖くて、眠気と疲れで
*
そして、私達は「付き合う」こととなった。
嬉しかった。
自分の性的指向を……そして何よりもその矛先が彼女であるにも関わらず、それを受け容れてくれたことに。
そして、彼女も同じ気持ちでいてくれたことに。
ただ、瑞美も例によって積極的な時と消極的な時があった。
消極的な時は手を何とか繋ぎ、抱きしめ合うくらいが精いっぱいで、それから先の時間はなかった。
けれども、それはそれで、精神的な充足が強かった。
その後、お互いに都内の会社で就職することになり、多忙な日々が始まった。
新入社員は、自由の利かないものだ。
覚えることも多く、規律も多く、時間が拘束され、日々に流されていく。辛いというわけではないが、大変だった。
瑞美とも会えない日々が続いた。向こうは向こうで研修などが多く、時折電話口で弱音を吐いていた。
でも、お互いの声が元気となり、乗り越えていったように思える。
また、ストレス発散の部分もあったのか、積極的な瑞美の時は良いようにされてしまうのだが、それがないと物足りなくなるほどにまで、私は瑞美を求め、瑞美に求められていた。
それから——、二年の月日が経ち、パートナーという概念が
急に、別れの日が訪れた。
ようやく立ち上がり、青く暗い部屋の一番奥にあるベッドへ倒れ込むと、そのまま転がる。
横向きになった先には、
その空っぽを見つめながら、押し殺した息が一つ、漏れる。
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