第5話 スペインの読経
十九歳の時、スペイン・アンダルシア地方のセビリヤに遊学していた。
安いペンションに宿をとり、大学のスペイン語科の夏期講習に参加したのだ。
そのペンションに泊まるようになって間もなく、私は不思議な体験をした。
ある日、ペンションのどこからともなく、読経が聞こえてきたのだ。おりんの音が、それに混じる。白壁に囲まれた中庭一帯にも、その、規則的で神秘的な音はこだまする。
一体どこで、誰が? しかもこんな遠い異国で……。
その翌日、大学から戻った私は、そのころ日本ではやっていたガンダーラの歌を口ずさんでいた。と、中庭から、それに合わせてギターの伴奏が聞こえてきた。
窓から中庭を覗くと、階下の窓際に腰かけて、髭づらの、髪の長い男がギターを弾いていた。
「日本の方ですか?」
そう尋ねると、
「ええ、僕ね、今度ガンダーラに行くんです」
男はそう答えた。
読経とおりんの音の主はこの青年だったのだ。
三十近くかと思われるその人とは、それからたびたび交流するようになった。
彼はいわゆる的屋で、器用な手さばきで針金細工を作り、街の路上で売って稼いで、セビリヤを拠点に世界各国を旅しているらしかった。
「もともとはフラメンコのギタリストを目指して来たんです」
彼は少し照れくさそうに言った。
読経とおりんの音はその後も時折響いていた。異国情緒に溢れた街中の、小さなペンションの中庭に、それは重厚に、そして白壁に溶け込むように響くのだ。
それを耳にしていると、自分が異国にいるということを暫し忘れてしまう。おりんの音がひそやかに響き渡り、セビリヤという異文化と、おりんの音という和文化が、心地良く共存してしまうのだ。
彼と、彼の仲間数人が集ったある晩、彼は私のリクエストに応じて「アルハンブラ宮殿の思い出」を奏でてくれたことがある。
この名曲も、おりんの染み入るような音も、彼の繊細な指から紡ぎ出されるのだ。
トレモロの響きに幻想的なおりんの音色が私の内で重なり、思わず陶然となるのだった。
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