さあ始めるよ。いーち……

 けれどその時は訪れなかった。


「あぶねーな。気ぃつけろよ」


 自転車に乗ったおっさんが舌打ちをして通り過ぎる。運がよかった。ほっと息をついて顔を上げた視線の先に、こっくりさんの銀色の髪が揺れる。


「あ……」


「ほんに仕様のない。小狐らは無茶が過ぎる」


 走り去る自転車を見送って、振り返ったこっくりさんが眉を下げた。


「立てるかの? 手を引いてやろうか?」


 俺は首を振って立ち上がった。考えてみればそれはそうだ。俺がゆきを追いかけられたのだから、当然こっくりさんも追ってきてくれていたのだ。そして、守ってくれた。何をどうしたのかは分からないけれど。


「ありがとうございます。助かりました」


 助けるつもりが助けられて格好がつかないとか。出来もしないくせになんとかしようなんて烏滸がましいとか。ちらりと過ったけれど、それよりも。


「好い好い。言うたであろ。我はそのために居る。じゃが、我が居らぬときに無茶をしてはならぬ。よいか?」


 素直に嬉しくて、ほっとした。ゆきが無事でよかった。俺はこっくりさんの言葉に頷いた。


「ということで、郁哉も当面おやつは抜きじゃ」


「ええっ!?」


 思いもよらなかった宣告に素っ頓狂な声が出る。


「危ないことをしたでな。おしおきじゃ」


「えー」


 俺がぶうたれると、こっくりさんは可笑しそうに笑う。和やかな雰囲気のなかで、俺は腕のなかのゆきが消えかけていることに気づかなかった。

 

  ◇


 則ノ内さんと夜一のところに戻ってレジャーシートの上に胡座を掻いたとき、俺はやっとゆきが朧げに霞んでいることに気づいた。


「え。消え……っ?」


 せっかく見つけたのに! また消えてしまった。


 俺は呆然とゆきが消えてゆくのを眺めた。眺めることしかできなかった。姿が見えなくなった途端に、確かに感じていたゆきの重みも消える。


「ええと。どういうこと? 家に帰るのがイヤで消えちゃった?」


 逃げられなかったから、今度は消えたということだろうか。


「郁哉は莫迦ばか


 慌てる俺の頭の上で夜一が羽を広げる。それは決めポーズなんだろうか。いちいち羽を広げるのはやめてほしい。首が……。


「バカ言うな。バカって言うヤツがバカなんだぞ」


 俺の抗議に夜一はフンと鼻を鳴らした。

 ……鼻? そもそもカラスに鼻ってあるんだろうか。そういえば鼻らしいでっぱりのある鳥って見たことがない。いや待てよ。くちばしに孔が開いていたような。もしやあれが鼻……。


「郁哉失礼」


 何か言いかけていた夜一が、がしがしと頭をつついた。だから痛いって!


「なんだよ。なんも言ってないだろ?」


「わたくしは賢い鴉! 言われなくともなんとなく分かる」


 ひとしきり俺の頭をつついてから、夜一はこほんと咳払いをした。


「よいか郁哉。ゆきは帰りたくないのではない。菜月どのと離れたくないのだ」


「でも、離れないと帰れないだろ」


「そのような理屈、年端もゆかぬ子供に通用するものか。しかれども、理屈の分からぬ子供の無理を聞くわけにもゆかぬ」


 そう言うと、夜一はバサッと羽を広げて俺の前に舞い降りた。そしてゆきを乗せた(乗っているはず)手のひらに向けて諭すように語り掛ける。


「よいかゆき。荼枳尼天様はお庭に帰らねばならぬ。お前の我儘で此方こちらに留めてはならぬ御方。分かるな?」


 けれど応える声はない。そう言えばこっくりさんが、ゆきは本気で隠れている間はこっちの声も聞こえないって……。


「ええと、夜一さん」


 則ノ内さんが申し訳なさそうに声を掛ける。


「ゆき、そこにはいません」


「なんと?」


「夜一さんが来たので逃げて行きました。今は、先輩の肩に」


 則ノ内さんがそう言って指差すので、俺は驚いて己の肩を見た。しかし当然ながら何も見えないし重さも感じない。本当にいるんだろうか。


「ほう」


 こっくりさんがその様子を見て隣で目を細める。


「え?」


「あの娘……」


 こっくりさんの言葉は膝に飛び乗った夜一に遮られた。


「これ、ゆき。逃げるでない」


 今度は俺の右肩のあたりに向かって話し掛ける。


「そこじゃないです。今は反対側の肩に」


「これ、ゆき」


「あ。今度は頭に」


「頭!?」


 頭と聞いて、急に夜一が落ち着きなく騒ぎ始めた。


「ゆき! 降りなさい! 直ぐに! 早く! 其処そこは駄目!」


 ぴょんぴょん跳ねて、バサバサと羽を振って。賢い鴉の面影は微塵も無い。


「夜一煩い」


「郁哉は黙ってなさい!」


 なんか、すごい剣幕だな。俺は気圧されて口を噤んだ。


「降りなさいゆき! 其処は駄目! 其処はわたくしの場所!!」


「いつから!?」


 思わず突っ込むと、夜一に煩いと怒られた。理不尽な……。



「ゆき、ちっと此方へおいで」


 こっくりさんが立ち上がって俺の頭を掬う。


「あれ? 見えるんですか?」


 俺は不思議に思って訊いた。ゆきが隠れたら見えない、とこっくりさんは言っていたのに。


「今は拗ねて隠れておるだけじゃ。怯えて身を守ろうとしているときとは違うからの」


 こっくりさんはそう答えて則ノ内さんに向き直った。


「菜月にも見えておるのじゃな?」


「はい」


 則ノ内さんが頷く。


「はっきりと?」


「はい」


 こっくりさんはそうかと呟いて視線を落とした。


「ゆき、一度出ておいで。今はまだ、ばいばいはせぬゆえ」


「ほんとです?」


 こっくりさんの手のひらで、白いもやが揺れる。


「我は嘘はつかぬ」


 ふわりと柔らかい毛玉は、やがて耳と尻尾を現して頭を上げた。


「ばいばいしたくないです」


「そうか」


 こっくりさんは優しく微笑んだ。


「では、誰にも見つからないように姿を消して、この庭の何処かに隠れてごらん」


「かくれんぼ?」


「うむ。かくれんぼじゃ。ゆっくり二十まで数え終わっても誰も見つけられなかったら、ゆきの勝ちじゃ。よいの? 二十まで数えたら出てくるのじゃ」


「わかったです」


 返事の声が消える前に、ゆきの姿は再びぼやけて消えた。


「うむ。上手に隠れたの。さあおゆき。と言うてももう聞こえぬじゃろうが」


 こっくりさんは笑って則ノ内さんを見た。

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