隠れた合図は「もういいよ」
「つまり」
食事を終えたこっくりさんが、口元を拭ってから俺を見た。
「ゆきが惑うたのも、迷うたのも隠れたのも、全て郁哉のせいじゃな」
「ええーっ」
則ノ内さんに手伝ってもらって重箱やらを片付けていた俺は声を上げる。否定したい。否定したいが、イマイチ自信がない。もしかして本当に俺のせいなのだろうか。悩む。
「困ったお莫迦ちゃんにもお仕置きが必要かのう」
「勘弁してくださいよ」
俺が頭を掻くと、こっくりさんはくすくすと笑う。頭の上に戻っていた夜一が羽を広げてカーと鳴いた。
「反省しました。もう不用意なことはしません」
今回のことで、悪気がなくても、そんなつもりじゃなくても、思いもよらぬ結果を招くことがあると身に沁みた。
「それは誠かのう」
「本心ですよ。できるかどうかは分からないけど」
頼りのない俺の返事に、こっくりさんがぷっと吹き出す。
「なんじゃそれは」
「俺は無知でお莫迦だから惑うんです」
だから。
「信用ならないなら、ずっと見張ってればいいでしょう? どうせ離れられないんだし」
何気ないふうを装っても、僅かに体が固くなる。息を詰めてこっくりさんの反応を窺ってしまう。用が済めば帰る、とこっくりさんは言った。離れられないはずなのに、どうやって?
「ふむ」
すっと笑みを引いて、こっくりさんが居住まいを正した。
「そのことじゃがな、郁哉」
真面目な声だ。キレイでやわらかいのに、どこか重みを含んだ声。俺の肩がぴくりと震える。
「先輩?」
急に緊張を孕んだ空気に、則ノ内さんが戸惑ったような声を上げた。
「あ。あー、なんでもないよ。ね、だーさん?」
取り繕う俺に合わせてこっくりさんも微笑んでくれた。
「うむ」
それから、則ノ内さんに向かって丁寧に頭を下げる。
「まだきちんと礼も言うておらなんだ。菜月、ゆきを守っていてくれて本当に有り難う。そなたが居らなんだらどうなっていたことか。言葉では言い尽くせぬほどじゃ」
「そんな、お礼だなんて。私もかわいいゆきと過ごせてとても嬉しかったです。お別れが寂しいくらい」
そこまで言って、則ノ内さんはハッと口元を押さえた。
「あ。違うんです。えっと」
さっき俺にしたように、顔の前でぱたぱたと手を振り回す。よりによってこっくりさん相手に失言してしまい、相当焦っているようだ。
「好い好い」
こっくりさんは気にするなと言ってゆきの頭を撫でた。
「別れを惜しむほど愛されておるのじゃ。それはゆきにとっても幸せなこと。稲荷の狐は人と交わることも多い。最初に触れ合った人間に好い印象を持つのは幸いなことよ、のう?」
「はい!」
こっくりさんに覗き込まれて、ゆきは元気よく頷いた。
「ゆきもなつきがすきです」
「ゆき……」
則ノ内さんの目に涙が滲む。俺もつられてちょっとうるっときてしまった。
切ないな。ちくしょう。
「ありがとう、ゆき。私もあなたが大好きよ」
目尻の涙を拭った則ノ内さんが両手を広げる。ゆきはそこに飛び込んだ。
「あなたに会えてよかった。ずっと忘れないわ。おうちに帰っても元気でね。もう、迷子になっちゃダメよ?」
則ノ内さんはゆきをぎゅうっと抱きしめる。ゆきも小さな手で則ノ内さんにしがみついた。
「ゆきもなつきにあえてうれしですー」
きゅっと胸元にしがみついて、すりすりと頬を擦りつける。その様は愛らしくて自然と笑みがこぼれる。そして愛らしいので切なくなる。
「うふふ。本当に名残惜しくなっちゃう。さ、もう帰らなきゃ。さようなら、ゆき。元気でね」
「え?」
則ノ内さんが体を離して微笑むと、ゆきの体が強張った。
「さよならは、ばいばいですよ?」
「ええそうね。ばいばいね」
則ノ内さんが再び涙ぐむ。それからそっとゆきを撫でた。
「ゆきはお庭に帰るのよ」
「なつきは? なつきもいっしょいくです?」
ふるふるとゆきが震える。今にも泣きだしそうに。
「私のおうちはお庭じゃないの。ごめんね?」
ぶわっ、と。ゆきの黒目がちな目から涙が溢れた。
「や、です」
ぎゅっと目を瞑って、ゆきはぶんぶんと首を振る。目の端から溢れた涙が、きらきらと弾けて飛んだ。
「ばいばい、やです」
「ゆき」
宥めようとして則ノ内さんがゆきに手を伸ばした。
「やー……」
けれどその手から逃げるようにくるりと背を向けて、ゆきは駆けだした。消えてしまわないのは怯えていないからだろうか。その理由は俺には分からないけれど、ゆきがちゃんと見えることは幸いだった。
駆けだしたゆきが公園の門に向かっている。きっと飛び出してゆくだろう。門の両脇に伸びる植え込みの向こうに、右から走ってくる自転車が見えた。
「ゆき!」
俺は夢中で小さなゆきを追いかけた。
公園を飛び出す前に捕まえられたら一番よかった。けれど人間の身体能力は他の生き物と比べて劣る。出遅れたことを差し引いても、俺は小さな小さなゆきに敵わなかった。
「ゆき!」
それでも俺は飛び出した。横から突っ込んでくる自転車に驚いたのか、ゆきは公園を出てすぐのところで固まっている。あんな小さな体で、もしもぶつかったらどうなってしまうのか。どうせ間に合わないからと放っておくことなんてできない。
ゆきを抱き上げたところで、すぐ側に自転車の気配を感じた。ぶつかると思った瞬間に、俺はゆきを抱き込んで
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