ただいまー
玄関を開けたらすぐにこっくりさんが手を差し伸べてきた。分かっているとも。十円玉だろう。もうその手は食わないぞ。うっかり触ったらえらいことになる。結局、お触り料がいくらなのかは分からず終いだけれど。
「なんぞ益体もないことを考えておるな?」
「いやいやそんな。滅相もない」
俺は仏のような穏やかな視線をこっくりさんの手に向け、そこに諒太の十円玉を置いた。間違って手など握らぬように細心の注意を払う。無我でありながら思慮深い。我ながら完璧だ。
「ただいまー」
ひとり頷き、靴を脱いでリビングに入る。靴が無いので姉ちゃんはまだ帰って来ていないのだろう。
「おかえりなさい」
いつもは素通りするリビングを、今日は台所に向かった。夕飯の準備をする母さんがこっくりさんを認めて嬉しそうな顔をする。
「母さん、弁当で遊ぶのはやめてくれよ」
弁当箱を差し出しながら文句を言うと、母さんはにんまりと笑った。
「うふふ。びっくりした?」
「びっくりなんてもんじゃないよ。あんなふざけた弁当、教室で広げたら大惨事だぞ」
「があーん」
俺の言葉に、母さんは大袈裟に嘆いた。そして流しの端を掴んでがっくりと項垂れる。
え。ヤバい。言い過ぎた?
「いやごめん。弁当は美味かった。でもちょっと恥ずかしいって言うか……」
「どこで食べたの?」
慌てて言い繕う俺に俯いたままの母さんがか細い声で問う。
「え。中庭で」
「誰と?」
「ひとりで?」
「がああぁぁーん」
母さんの嘆き様は相当だ。俺は焦った。いったいどうしたって言うんだ。
「じゃあ。じゃあせめて、だーさんは見た?」
「ううん? なんか、葉っぱと喋ってて」
「うそぉ……」
母さんはついに両手を床に突いてよよと泣き崩れた。
「せっかく……せっかく頑張ったのに……」
「ええと。母さん?」
訳が分からず肩に手を添えようとしたところで、母さんががばっと顔を上げる。俺は反射的にビクッと後退った。
「郁哉に可愛い彼女が出来たこの喜びを、みんなと分かち合いたかったのにぃぃ」
……おいこら。
「うわああぁぁぁん」
突っ伏して泣き始めたが。お花畑ちゃんの嘘泣きには付き合っていられません。アホらし。着替えて来よ。
俺は空っぽの弁当箱を母さんの頭の上に置いてから、こっくりさんと共に階段を上った。
◇◇
「それで、迷子は見つかりそうなんですか?」
制服を脱ぎつつ訊ねると、こっくりさんは顎に指を当てて、こてんと首を傾げた。
「ちと難しいの」
「神通力的な?」
狐狗狸は弱いと言っていたけれど、こっくりさんは実は力が強いのではないだろうか。所作の端々に自信が窺えるし、焦りなどとは無縁に見える。それならば迷子くらいちょちょいと見つけられそうなものなのに。
「狐狗狸はな、力が弱い。その仔ともなれば尚更じゃ」
少し眉間に皺を寄せて語るこっくりさんを西日が照らしている。きらきらと輝いて見えるのは銀髪のせいだろう。
「争っても勝ち目は無い。勝てぬから逃げる。己が弱いと知っておるからの。じゃからあれらは気配を消すことに長けておってな。弱い個体ほどその
難しい。厳しい。でも、不可能ではない。だってこっくりさんは、用が終われば帰ると言っていたのだから。
「もしかして、昼間も探してました?」
では、木や鳥に話し掛けていたのは迷子探しだったのか、と思い当たる。
「うむ。僅かに気配がしたからのう。手掛かりだけでも得られるかと思うたが」
こっくりさんは首を振った。
「もう学校にはおらぬか、余程怯えて閉じきってしもうたか。何れにせよ芳しゅうないのう。どんなに怯えていようとも、我の声さえ届けば飛び出してくるはずなのじゃが」
「声だけで?」
制服を脱いでパーカーを頭から被りながら俺は訊いた。
「
むふ、とこっくりさんが笑う。それを見て、こっくりさんも小狐のことが大好きなんだろうな、と思った。
「見つかったら連れて帰るんですか?」
「もちろんじゃ。きっと怯えておろう。早う見つけてやらねばの」
中学のときのジャージに足を通して、俺はこっくりさんに向き直った。
「帰り道は穢れて通れないはずなのに、どうやって?」
こっくりさんが目を見開いて、それから瞬きをした。ぱちぱちと二回。それから、ゆっくりと一回。
長いまつ毛が夕陽に照らさらて、白い頬に影を落とす。翳った瞳の色を窺うことは難しい。
「お莫迦ちゃんかと思うて油断したわ」
くっ、とこっくりさんが笑った。
「我は嘘をつけぬのじゃ。その問いはちと困るのう」
こっくりさんは実は強いのではないかと俺は思う。こっくりさんは、悪霊なのだと聞く。
見えない瞳の下の唇が美しく釣り上がった。
細い月のように尖った。きれいな、紅い唇。
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