いってきます

 紙袋を被っています。

 ええそうです。こっくりさんのお着替え中です。


 部屋を出たところで姉ちゃんに捕まって、顔を洗って俺だけが手早く制服に着替えたところで拉致られた。そして昨夜同様、紙袋を被って椅子に座らされている。


 でもいいんだ。

 紙袋の下の顔が緩む。屈辱も二回目になると初回ほどの抵抗を感じない。そんなことよりもこっくりさんの洋服姿、楽しみ!


 紙袋で視界が遮られているので、俺には姉ちゃんのはしゃいだ声と、こっくりさんの戸惑う声しか聞こえない。それでも、いやそれだからこそ、期待がもくもくと膨らんでいた。


「いい加減にしないと遅刻する」


 ウキウキとはするものの、つい憎まれ口を叩いてしまう。ヤニ下がって待っていると思われたら男の沽券に関わるからだ。それに実際、このあと朝ご飯を食べてから出ることを考えると本当にあまり余裕がない。

 昨夜あれだけ試着したっていうのに、さっきからいったい何をやっているんだ。決めていた服をちゃっと着るだけじゃないのだろうか。こうものんびり構えられると流石に遅刻してしまう。ウキウキとワクワクとハラハラがこんがらがってドキドキしてきた。姉ちゃんもうちょっと急いでくれ。


「煩いわねえ。もうちょっと待ちなさいよ」


「遅刻をするとまずいのかのう?」


「大丈夫よ。だーさんは気にしないで」


 よく言うよ。自分は一回も遅刻したことなんか無かった真面目ちゃんのくせに。


「姉ちゃんは気にしろよ」


「まあまあ、大人しく待ってなさいって。絶っ対、待った甲斐あるから! むふふ」


 笑い方がやらしいよ。期待が膨らむじゃないか。むふふ。


 まあ結局、二人は姉弟なんである。



  ◇◇



 慌ただしく朝食を掻き込んで、バタバタと家を出る。


「いってきます!」


「「いってらっしゃーい」」


 のんびりとした母さんと姉ちゃんの声に見送られて通学路を走った。

 大学生はいいよな。毎朝同じ時間に登校しなくてよくて。随分念入りに着せ替えを楽しんでいると思ったらゆっくりな日かよ。しかも、俺が諦めて遅刻を選べないギリギリの時間。せっかく母さんが用意してくれた朝ご飯を食べないのも申し訳ない。急いで食べて必死で走ればギリ間に合う。なら走るしかないだろう。姉ちゃんめ。


「おはよう郁哉くん、今日はゆっくりね」


 必死に走っていると近所のおばちゃんが声を掛けてきた。


「おはようございます!」


「うふふ。頑張ってね」


 遅刻寸前なのを察しているのだろう。俺が止まりもせず振り返りもせず挨拶だけ返すのに、それを咎めるでもなく手を振ってくれる。いつも通りの対応だ。


 見えて……ないな。よしオッケー!


 走りながら小さくガッツポーズを決める俺であった。家族のなかで見えないのが父さんだけなので不安だったけど大丈夫みたいだ。道行く人たちからも変な視線は飛んでこない。

 こっくりさんが姉ちゃんの服を着ているのが心配だったのだ。万が一服だけ浮いて見えたらどうするんだ、てさ。いっそそっちの方が異常な光景だろう。実験台の父さんはもう出勤した後だったし、確認のしようがなくってさ。


「間に合いそうかの?」


 こっくりさんは涼しい顔で俺の傍らに浮いている。もし見えちゃったらどうするんだ。浮かずに走ってくれないかな、と思うものの今は咎める余裕が無い。それにお願いしても叶わない気がする。いや、叶わないと確信する。なのでこっくりさんの言葉にひとつ頷いて、車や人の通りに気を配りつつ通学路を駆け抜けた。



  ◇◇



「はあ、はあ」


 教室に滑り込んで荒い息を吐く。なんとか間に合った。暑っつい汗だく。つっかれたー。


「珍しいなギリギリなんて」


 席に着いてぜえぜえ言っていると諒太が寄ってきた。


「そうなんだよ。朝から姉ちゃんに捕まって、二キロ全力疾走」


「おつー」


 笑いながら諒太はペットボトルを差し出してくる。


「お前んとこ姉弟仲いいよなー」


「さんきゅ」


 諒太のくれたスポーツドリンクをありがたくいただいて、俺はほっと息をついた。


「生き返った。ありがとな。帰りにアイスでも奢るわ」


 それから、はっと気づいて顔を顰める。


「別に特別姉弟仲がいい訳じゃないだろ?」


「いやいや。この歳で姉ちゃんとじゃれるなんてあんまねえよ? 仲よしじゃん」


「戯れてないし!」


 やめて。高二にもなって姉ちゃんと仲よしなんて恥ずかしい。


「はいはい」


 ニヤニヤ笑う諒太に抗弁しようとしたところで担任が入ってきた。


「おーみんな席に着けー。出席取るぞー」


「へーい」


 諒太は軽く手を上げて席に戻った。ガタガタと椅子を鳴らす音が響いて皆が席につく。出席番号順に名前を呼ぶ大崎の声と、それに応える生徒たちの声。悲鳴もひそひそ話も聞こえない。


 よっしオッケー。誰にも見えてない。


「斉藤ー」


「はーい」


 俺は返事をしつつほっと胸を撫で下ろした。

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