必ずお帰りいただかねばならない

「どうして逃げるのじゃ」


 角を曲がったら、キレイなお姉さんが立っていました。……泣。


 うっかり真面まともに見てしまい、俺は狼狽えて顔を背けた。気づかないフリをしていれば何とかなるかもしれないと期待していたのに、こうもしっかりばっちり目が合っちゃったら手遅れな気がする。どうしよう。


「のう」


 いやいや僕は何も見ていませんよ。声も聞こえません。見える訳ないし聞こえる訳ないじゃないですか。やだなあもう。はは。


「のう」


 お姉さんはなおも呼びかけてくる。

 ああ、これがただのキレイなお姉さんだったなら。もしそうなら、どんなにかよかったことだろう。

 着物で歩いている人なんてあんまり出会ったことがないけれど、いないわけじゃない。白地に、染まってゆく紅葉の柄が描かれた着物はお姉さんにとてもよく似合っていた。

 白か銀か迷うようなサラサラした髪だって、今時たいして珍しくはない。もっと奇抜な色に染めている人も大勢いる。

 大きくはないけどすっと涼しげな切れ長の目。薄い唇は二日目の月を転がしたようにきれいに紅い。

 色白でスレンダーで、この間の健康診断で一六八センチだった俺よりも背が高い。せめて七〇欲しい。欲を言えば八〇くらいになりたい。との野望はまだ捨てていないが、高二でこれといった運動もしていないので望み薄かもしれない。でも、ちゃんと毎日牛乳を飲んでいる。まだ諦めてはいないのだ。まあそれは置いといて。

 このキレイなお姉さんが普通の人だったら、俺だってちょっと鼻の下を伸ばしてデレデレ出来たかもしれない。だって本当に美人なんだもの。


「のうと言うておるのに」


 にゅっ、と。急に視界いっぱいにお姉さんの顔が広がって俺は飛び退った。


「わっ。うわああぁっ」


 だって急すぎる。まあまあ距離あったよ? そんな距離を一瞬で縮められるなんて。


「わあ、とは何じゃ。失礼な童じゃのう」


 少し顔を顰めたお姉さんは尻もちをついた俺を覗き込んでくる。屈んで顔を近づけられて逃げ場がない。


「逃げることはあるまい。取って食いはせんから心安う致せ」


 なんで。なんで俺なんだ。諒太だって敏史だっているのに。


 お姉さんは何やら喋っているが俺の耳には入ってこない。驚愕と恐怖でそれどころではない。いろんなところがきゅっと縮む。なんならこのまま縮みきって消えてしまいたい。怖い。怖いけど、確かめておきたいことがある。俺は恐る恐る視線を上げてお姉さんの頭を見た。


 やっぱりある!!


 夕陽を浴びて茜色に染まった髪と同じ色の、三角形のネコ耳が。ふさっとして、もふっとして、お姉さんの頭の上でぴょこぴょこと動いている。


 ひえぇ。


 そのネコ耳のついた影が独りで歩く俺を追い越すように長く伸びたとき、心臓が止まるかと思ったのだ。ものすごくびびったけど、必死に平静を保ったのに。その影を見ないようにしてひたすら逃げたのに。


「なんで俺……」


 思わず呟きが漏れる。それに応えてお姉さんはにっこりと笑った。


「うむ。だって、怖いじゃろ?」


「え」


「だってムキムキなんだもの。もし殴られでもしたら、痛いじゃろ?」


 お姉さんはしかつめらしく頷いている。


「え。諒太?」


「そうじゃ。もう一人の童はな、何やら賢そうなまもりがついておっておちおち近づくことも出来ぬ」


 お姉さんはほう、と吐息を漏らした。憂い顔も色っぽくてキレイだけれど、騙されてはいけない。うっかりしたら取り殺される。


「その点おぬしはいろいろゆるゆるで申し分ない」


 お姉さんはにっこりと微笑んだ。褒められ……てはないな。だってちっとも嬉しくない。むしろ泣きたい。申し分ないって、褒め言葉かと思ってた。


 それにしてもお姉さんは意外とフレンドリーだ。てっきり何か失敗ってこっくりさんに取り憑かれたかと思ったが、もしや気のせい?

 さっき騙されてはいけないと己に言い聞かせたばかりだというのに、なんか気が緩む。


「あのぅ。こっくりさん?」


 一応念のために確かめてみよう。もしかしてもしかしたら、奇抜なコスプレの変なお姉さんかもしれないし。


「うむ」


 けれど残念。お姉さんはネコ耳をぴょこん、と動かして嬉しそうに頷いた。

 返事したよ。こっくりさん、を否定しなかったよ。そうかーやっぱりかーだよねーそうだよねーそっかなって思ってたー。

 落胆が顔に出ないように意志の力を総動員して、恭しく頭を下げる。


「どうぞお帰りください」


「うむ!」


 ダメ元でお願いしたら、予想に反してお姉さんから力強い肯定をいただけた。


「え」


 帰ってくれるの? マジで? やったー。てっきりゴネられて取り憑かれて取り殺されるのかと思ったよーあー怖かった助かった。じゃ。


「ではさようなら」


 落ち着きを取り戻した俺は、立ち上がって制服の砂を払い、頭を下げた。


 あーよかったー帰ってポテチでも食べよ。疲れたー。


「待たんか」


 心配事が片付いて気持ちよく立ち去ろうとした俺の手を、お姉さんがむんずと掴む。ぞわりとした。お姉さんの手はひんやりと冷たい。鳥肌が立って心臓がきゅっと縮んだような気がした。


「ええと……まだ何かご用が?」


 ばくばくと鼓動が早くなる。お姉さんの方に向ける首から、ぎぎぎ、と音が鳴ったような気がした。


「呼び出したら送り帰すのが筋というものじゃろ?」


 お姉さんはにっこりと笑う。態度だけ見ていたら全く害が無さそうに見える。でもなんか。オーラっていうか雰囲気っていうか。お姉さんを包んでいるものがどことなく恐ろしげなんだよな。逆らえない。逆らったらヤバい。そんな感じ。


「送り……帰す?」


「そうじゃ。開いたまじないはきちんと閉じておくれ」


 お姉さんの言い分は、至極真っ当に聞こえた。

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