Moonage Daydream

宇乃夏

Moonage Daydream

一年ぶりの神戸は雨だった。

新神戸駅までマサキが迎えに来てくれるというので、わたしは京都での散策時間を予定よりも二時間伸ばした。東海新幹線の窓際の座席で、デイビッド・ボウイのMoonage Daydreamを聞きながら、ゆっくり読もうと思って持ってきた芥川の本に手をのせたきり、うつろう灰色の窓景を眺めている。

オーストラリアから帰国してしばらく経った。

マサキとは、ゴールドコーストでの最初の夏から続いている。もう、六年も前だ。彼は高校を卒業した後、日本で左官になった。弟のように可愛がったマサキ。わたしの恋人ではない。友達でもない。それは腐れ縁の何かだ。

六年前、わたしたちはサウスポートの図書館で出会った。十月二十三日の木曜日、わたしは前日誕生日を迎えたばかりだった。二年付き合った会社の同期と別れてワーキングホリデーに出たわたしは、夏が好きだったのと、かつて修学旅行で地を踏んだという理由でオーストラリアを選んだ。「英語を話せるようになりたい」が名目だったが、具体的な目標を持たない女で、渡豪して一か月経つ頃には語学学校に行くことさえ億劫になっていた。日本語学校でのボランティアで出会った先輩ワーホリに外国人の友達ができると勧められて、渋々その英語クラブに参加していた。マサキはというと、日本の国際高校を校則違反で叩きだされて、英語が達者なわけでもないのに両親の勧めでその土地を踏んだといった。その町の中心にある外国人の専門学校に通っていて、週に一度図書館で開かれる英語クラブに、友達作りの名目で女を探すために参加していた。

英語クラブの入り口でネームプレート用のクラフト紙をはさみで切っていた時、あとから来た中華系のアジア人に”Please lend me scissors after you use”と声をかけられた。わたしが”Okay”と答えると、その隣に立っていたマサキが、友人の彼に”You should wait. Lady first”と言ってわたしに微笑んだのがこの関係の始まりだ。彼はとても綺麗な顔をしていた。また、出会ってしばらくは韓国人だと思っていた。彼の外見と、内面から滲み出るなにかに痛烈に惹かれたわたしは、早々に彼を家に連れ込んで(二十歳そこそこだと思っていた)、三日間部屋で二人きりで過ごした。四日目、水を飲むのにリビングに顔を出した時、ルームメイトに「おはよう」と言ったら「もう夕方よ」と言われたのを覚えている。

マサキはその町のちょっとした有名人で、マリア(マリファナのこと)を吸っている頭のおかしい連中のパーティによく顔を出していた。彼に連れられてそこへ行ったわたしも、世界各国の頭のおかしいお友達をそこでたくさん作った。楽しいワーキングホリデー生活の、いや、それは新しい人生の幕開けだった。

わたしは二十三で、彼は十六だった。


あれから六年。海外の開放感の夢から醒めず、帰国してもなお身体の関係を続けているというとなんだか大仰に聞こえてしまう。けれど周りが思うほどそれは、決して大仰な関係ではない。年に二回だけの逢瀬。古今の世の中にありふれた、小説やドラマで語りつくされた関係で、決してわたしたちは特別な存在ではない。

呪いみたいなものだ。始めてしまったが最後、切っても切れない腐れ縁。

神戸駅、マサキは改札の前に立っていた。Beatsのイヤホンをつけて、首を深く下げて手元のスマートフォンを見ている。待ち合わせの時間を過ぎているがわたしは連絡を入れていない。彼も彼で、周りを見回したりもしていない、心配もしていないと思う。同じ空間にいればいつか出会う。それだけはいつもと変わらないことで、わたしたちが唯一信じているお互いの「こと」だ。半年ぶりに会うマサキの髪は、メッシュグレーになっていた。サイドを短い前下がりツーブロックで切り上げて、真ん中をポンパドールにしている。アディダスの靴とスキニーパンツ、襟の高いベージュのスウェットに丈の短いジーンズを羽織って、黒い帽子をのっけている。左耳にはお気に入りのシルバークロスのピアスが揺れていて、生意気にも丸グラスの虹色のサングラスをかけている。妹が好きなK-Popのダンスグループのメンバーのような恰好だった。年々、「わたしの知っているマサキ」の恰好からかけ離れていく彼を見るたびに、わたしはこの男がまったく知らない他人に見えて少し怖くなる。

『最近の若い子って、みんなそんなものだよ』

『そうなの?』

妹に言わせれば、今韓国系のファッションは流行りなので、それはおしゃれな街の若者にとっては理にかなった恰好であるらしい。マサキはこの街では、頭のネジが飛んだ有名な不良ではなく、「ただのお洒落な今風の若者」なのだ。いや、きっと元来の彼はそうなのだと思う、上手く隠して生きているだけで。

目の前まで来てようやく顔をあげた彼の前で、わたしは社交辞令の笑みをする。なるべく可愛げのある顔をつくる。

「久しぶり」

すると半年ぶりに会う女に、彼はにこりともせず、黒いマスクをずらしイヤホンをとった。

「遅いわ。腹減った」

わたしたちは神戸駅のとんかつ屋に入って、そこで夕ご飯を食べた。マサキは基本わたしに何を食べたいとか、今日は何していたのとか、余計なことは聞かない。三十手前で夜八時過ぎに揚げ物と炭水化物なんてそら恐ろしかったので、わたしはレモンチューハイとあてにマサキの残す付け合わせのキャベツに塩をかけて食べた。

一緒に歩く女の手荷物を持つとか、道路側を歩くとか、ドアをあけるとか、そういう基本的なことをくどくど言ってきた甲斐もあって、少なくとも今では自然にそういうことができるようになった。他の子にもしているのか聞くと、「彼女とアイさんだけや」と肩透かしなことまで言うようにもなった。

わたしには余計なことを聞かない分、彼女となれば別である。彼女好みのファッションをして、彼女の行きたい場所に行く。男というのはそうでなければならないと思っている。それが、彼女がいる身ながら特定の相手と不貞を続ける彼の、それなりの線引きなのかもしれない。

「なんでホテルとったん」

とんかつ定食を七割くらい食べてようやく、彼はまともに口をきいた。

「おれの部屋で良かったやん」

「あんたの部屋狭いもの」

彼はかつて、職場近くの壁の薄い風呂ナシアパートに住んでいた。去年はそこに二日泊って、夜中の声がうるさいと隣人と騒音トラブルになったのでわたしはホテルに移った。

「あそこ引っ越したで。一人くらい大丈夫だったのに」

マサキは昔から綺麗な顔をしていた。語学学校ではインド人の女の子達にジャスティン・ビーバーともてはやされていた。その町で一番可愛くて頭がおかしかった。数年前から大人になってしまって、可愛いという言葉は不似合いだけれど、綺麗な顔をしていることに変わりはない。マサキは、名前を二つ持っている。「マサキ」というのが日本での戸籍上の名前で、韓国名は別にあった。在日韓国人三世だった。オーストラリアで出会った時、彼はわたしに最初「韓国人だ」と言った。日本名なのに変だと思った。田舎の出だったわたしには、そういった人種がいるのは甚だ不思議で、彼が国籍にそこはかとないコンプレックスを持っているのが見て取れても、その正体が良くわからなかった。両親が海外旅行や、外国の文化が好きだったため、土地柄のわりに幼いころから外国を身近に感じていたわたしにとっては、国籍の違いなんて大したことではないと思っていた。少なくとも、性差や年の差よりはもっと踏み越えやすく、大差のないものだと思っていた。彼は、そうして幼少のころから「自分の存在」についてよく考えてきたためか、周りの同年代の友達の中でも最も聡く見えた。その実ただ背伸びしただけの、思春期の少年だったとしても、だ。

わたしは高校生の時、男子に縁がなかった。長年気になっていたテニス部の同級生がいて、彼がどういう人かという妄想をし尽くしていたが、ある時クラスの冴えない男の子の机を蹴飛ばしているのを見て、わたしの儚い妄想の王子様とは縁遠い人物と知った。同時に彼に対する期待値が実際の彼とあまりに自分の中で乖離していることに気付き、思いの成就は早々に諦めた。彼と会話する機会は終ぞなかった。なので、実際の未成年男子というカテゴライズの人種がどういうものなのかは、マサキに出会うまで知らなかったに等しい。

その頃のわたしにとって、マサキの言葉や思考、その価値観や行動理念はわたしの大きな存在理由だった。わたしが彼と同じ年齢のころ、わたしはクラスでも馴染めなくて、心から通じ合える友達もいなくて、いつも空っぽ、灰色だった。その時わたしは、初めて世界に色を感じた。暁のゴールドだ。手を繋いで身体を温め合える存在があること。同じ香水をつけて、同じベッドで眠る誰かがいること。

けれどあの出会いで大きな影響を受けたのは、わたしよりもマサキだったのかもしれない。


「明日昼なにするん?」

滞在先の新開地のホテルまでわたしを送ったマサキは、それじゃと手を挙げた瞬間にふとそう言った。明日は彼の仕事終わりに、メリケンパーク辺りに繰り出す予定だった。わたしははて、と不思議に思った。何時に会うか、とかは聞くことはあっても、わたしが彼と会わない時間に何をするかなど、彼が興味を持つことはない。珍しいものを見るようにマサキを眺めると、なんとなく理由がわかってしまった。

「なにかあった?」

わたしがそう聞くと、マサキは驚いたようにわたしを見て、そして悲しそうに顔を歪めて噴出した。

「さすがやな」

くっくっく、と喉を鳴らして苦しそうに笑っている。何かあったのだ。こうなると、わたしは彼を放っておけない。部屋のチェックインを済ませると、荷物を持ったままロビーで話を聞いた。

聞けば仕事場の上司と折り合いが悪く、何かにつけて色々注意を受けるらしい。その説教も、技術的なことではなく性格的な、または身体的なことを言われ、それが彼はとても腹が立つといった。話を聞くに、遅刻を頻繁にしたり勝手に髪色を変えたりピアスをしたりしているマサキがそもそも悪いのだが、その上司の『教育的指導』は間違っている、とわたしは思った。

「この前なんか、これだから高卒は、とか言われて、それは別にいいねんけど」

いいんだ、と言ったら「事実やし」と言った。顔は怒りで滲んでいる。

「けど、今日のやつはないわ。おれのこと朝鮮人って呼んだあいつ」

マサキは頭を抱えている。

この時世、マイノリティが声を上げやすい時代になってきたって、長い差別の歴史や人の意識までは簡単に変わるものではない。特にそういうものに触れない人間はそうだ。普段の行いが悪いマサキにも、当たりが強くなる落ち度はある。けれどそれは、個人を侮辱していい理由にはならない。

「違うねん。言われることと主張することは、違う」

「悪口じゃないわ」わたしは慰めるつもりで言った。

言ってから、しまった、と後悔した。傷ついた顔でわたしを見て言った。

「それは悪意のある呼び方なんや。あんたが知らんだけや。アイさんにはわからん。ていうか知らんでいい、どうせ理解できん。」

わたしは頭が痛かった。心の奥もズキ、と痛んだ。わたしは彼のアイデンティティに触れなかった。あえて踏み込んでこなかった。わたしの無知が、彼を安易に傷つけるのが怖かったのだ。

マサキは今にも泣きそうな顔をしていた。彼はわたしの前でもほとんど泣かない。女の前で泣くのは男として格好悪いと思っている節がある。平日の夜中のロビーで泣きごとを言う青年が気の毒になったのか、ホテルのフロアマンが温かいおしぼりを持ってきてくれた。わたしは誠実そうな彼にありがとう、言うと、それをプチっとむいた。包み込むような湯気の立つタオルをマサキの手にあて、目元を抑えるように言った。

「ありがとう」

彼の素直なところはかわいい。こうして、弱音を吐くのもわたしの前だとわかっていて、そこはかとない優越感があった。彼女にも言わないのだ。いまの彼女は、彼より二歳年上で、優しくてかわいらしい、美容師だと聞いている。

さっぱりした顔になったマサキを、ホテル近くの駅まで送ろうとすると制止された。

「送った意味ないやろ」眉間に皴が寄っている。「この辺治安悪いんや」

わたしはそうなの、と答えると、ありがとう、とまだ赤いマサキの目元を指でこすった。

「そのサングラスやめたら?」

「なんで」

「似合ってないよ」

「彼女は似合っとるって言うもん」

「良い子ね」

「わかったわかった。もうかけん」

マサキはサングラスをシャツの真ん中にかける。

「明日ところで何するん?」

「裏のピンク映画館で日活ロマン見る」

慚愧心からくる形式的な質問だとわかっているので、冗談を言う。

「おっさんに襲われるで」マサキは心配そうな顔で言う。「そんな行きたいなら土日に行こうや、付き合うから」

「あら、乱交がしたいの。酔狂ね」

わたしが言うと、冗談だとわかったらしい。マサキは大きくため息をつく。彼曰く、わたしは狂言が多いが、真剣にものを言っているときは目を見ればわかるという。

「なんやねんそれ、本当、付き合いきれん」

マサキは笑いながらいじけた様にくるりと背中を向け、明日七時な、と言って待ち合わせ場所も言わず商店街の方へ歩いて行った。

メリケンパークのどこかに行けば会えるだろう。八時ごろに行ってやろう、と思い、わたしは部屋でシャワーを浴び一服してから寝た。


若い頃のわたしは、自分がマサキにとっての椎名林檎、アヴリル・ラヴィーン、または水原希子になれないことに甚く憤りを感じた。

『わたしと彼は、いったいなに?』

それが専らわたしの中の人生の問題であるように思えた。わたしは決して目の引く美人でもなければ、マサキが好むようなモデル体形でもないし、まず彼のなにかというには年を取りすぎていると思った。

マサキはいつも言う。

「アイさん、七つも上なんやもん。歳離れすぎ。地味やし。親戚の姉ちゃんって感じや。そんなんおらんけど」

神戸の滞在期間中、街で二人きりになると、わたしたちはほとんど英語で話した。うっかりマサキの彼女や知り合いに出くわした時の予防線だ。彼の知り合いに会うとき、わたしは「オーストラリアん時の友達」と紹介される。どの国籍のふりをするかはその時の気分によって決める。そして日本語を話せないふりをする。ご都合主義のバカげた遊びだが、わたしたちはこういうことが好きだった。もともと仲の良かったグループが日本人以外にもいたので、パーティの時以外も日本人同士でもほとんど英語で会話していた名残がある。また、それには英語を話さない人たちに対する多少の優越感と、秘密の会話をしているような気分にさせる肯定的な背徳感もあった。


朝霧のスターバックスで、わたしたちはホワイトモカをすすった。わたしはホットで、マサキはアイスを頼んだ。わたしの手には十ページほどしか進んでいない芥川の本がある。マサキはそれを見て、「おもんないの?」と言った。

「面白いとか、面白くないじゃないのよ。読んでおかないといけないの」

「『じゅんぶんがく』だっけ?」マサキはおそらく、意味を分かっていない。分かっていないし、分かるつもりもない。

「おもろいもんだけ読むのが一番やろ」と言って、昨日三宮の本屋で買ったワンピースの最新刊を折り曲げている。わたしはマサキの後ろに並んで萩尾望都の画集を買った。頭一つ高い首すじに汗をかいていた。ブルガリの匂いがした。童貞風の大学生(マサキが「絶対童貞やろ」と言った)がバタイユの眼球譚を手にそわそわしているのを見た。

「文学少年よ、バカにしないで」

「眼球譚やろ?エロ本と勘違いしてんねんあいつ。性癖歪められるで」

バタイユの眼球譚は随分昔に読んだ。マサキは読んでいないが、わたしが内容をうまく説明できたので知っている。わたしは小説が好きで、マサキは漫画が好きだった。その頃のわたしにとってはそれが異常なものには思えなかった。わたしとマサキのような二人がいるのだから、いろんな性癖の人間がいてもおかしくないと思った。

わたしがひと呼吸ついて煙草を咥え、カチ、とライターを鳴らしたところで、マサキが慌てたようにわたしの手を握った。火がついていたのでぎょっとした。

「ここ禁煙」

「あ、そう」マサキの目が不安げに丸くなっていたので少し驚いた。「ごめん」

わたしが煙草を吸うことに関して、最初の二、三か月くらいはとやかく言われたけれど、その後はなにも気にしなくなった。マサキは煙草のあとにわたしとキスすることを嫌がった。学校も仕事もサボって、彼に無理やりキスして、マリアとスミノフで酔っていたわたし達はシーツの中で小一時間笑い合った。

『ほんまにダメ人間やな、おれたち』

マサキはシーツの中で、キラキラした笑顔だった。落下していく感覚があった。それはとても恐ろしく、同時にその倍以上の高揚と光悦を感じた。誰かと一つになる。その町で、世界中で、ただ崩壊しているのはわたしたちたった二人だけ。そういう、罪の感覚。同時に、生きているという自覚。

彼は昔から煙草を吸うことを「悪いこと」と言っていて、調子に乗ってたばこや酒を煽ると、必ず悪いことが起きる、と言った。それをマサキは「悪いことをした代償」と言う。悪党にもルールがあるのだ。マサキとわたしはその頃、その町で悪業の限りを尽くしていた。その考え方にはわたしも思い当たる節があった。わたしは決してごみを道端に捨てない。それはわたしにとってとても悪いことで、中学生くらいまでは、もしそんなことをした日には捨てたゴミがその晩わたしのもとに戻ってきて「なぜ捨てたの?」と問い詰められるかもしれない、などという妄想に取り憑かれていた。大人になった今、そんな妄想などしないけれど。実際、そんな「天に吐いた唾が自分に降りかかってくる」ようなことは、生きていても滅多に起きないものだ。それでなくても自分は、決してごみのポイ捨てなどしないのだし。マサキはたばこや酒に関しては怖がる節があるのに、道端にゴミを捨てる事に関してはそれほど頓着しなかった。それからバスで席を譲らないこともあった。わたしはマサキがそういうことをするたびに、『それは悪いこと』だと教育してきた。その甲斐もあってか、マサキの道徳観はほとんどわたしと同じである。

一度だけ、わたしは彼のした『悪いこと』について、泣き叫びながら説教したことがある。彼がコンビニで万引きをしたのだ。盗んだのはコンドーム。サウスポートの夏だった。わたしはスミノフで酔っぱらった彼がそれを見せて「盗んだ」と赤い顔で笑ったのを見て、自分の部屋に連れていき、椅子に座らせて泣くまで説教をした。聞けば一度や二度ではなかったという。その頃のわたしたちといったら、通りで喧嘩をふっかけたり、夜中の町を音楽と共にバイクで疾走したり、他人のパーティで暴れてぶち壊したり、酔って友達の部屋の窓を粉々にしたり。それなのに、マサキのその罪だけが苦痛だった。それは彼自身の心の叫びのような気がした。そんなことをして見つかったらどうなるのか、誰を困らせることになるのか、など、わたしは彼に伝えた。酒が入っていた所為か、泣き出した彼を見てわたしも泣いてしまった。あの頃の彼は、見た目は派手だったが陰鬱な少年だった。パーティに行くと言って一時間もサーファーズの海を眺めた後、結局行かずにわたしの部屋に戻ってきたこともあった。夜中の十時に眠れないと電話をかけて、片道一時間半も歩いてわたしの部屋に来たこともあった。

さみしくて一人では眠れないと言った。

わたしが居なければ生きていけないと言った。

天使にラブソングをが好きだった。エミネムのカーテンコールも好きだった。わたしのあげたブルガリのブループルーオムをつけていた。


横でホワイトモカを飲む長い睫毛をのぞき込む。明石海峡の夕陽が茜さす。

マサキだけでなく、わたしも変わっただろう。

わたしは小さくため息をついた。もうマサキをそれほど愛していないことに気付いたのは二年前。他に誰かができたわけじゃない。今までだって、男ができたり、別れたりを繰り返しても、目を背けてきた真実にたどり着いてしまった。

昔のマサキは可愛かった。町で一番の美少年だった。

「今も可愛いやろ」と彼は言うけれど、もうあの頃のような可愛さはない。あんなに小さかった顔も少し面長になったし、手足はごつごつしてきて触れても気持ちよくない。心なしか体臭もきつくなったし、体毛が硬い。レモンみたいな味がした舌も、今では歯を毎日磨いてないんじゃないかと思うときもある。マサキは目が切れ長で唇が赤くて鼻筋が通った美少年だった。わたしはつくづく面食いだった。または耽美主義者なのだ。だからマサキのどうしようもない道徳観も、後退した貞操観念にも適応した。キチガイと言われて呼ばれなかったパーティの部屋に、マサキが「Prove it!」と叫んで花火を投げ入れた時も、わたしは横で大笑いしていた。見てくれさえ良く、頭の狂った有名人で、連れて歩く自慢ができればわたしはなんだって良いと思っていた頃だ。

けれどわたしはもう、昔みたいには生きられない。老けてしまったし、この国に戻って道徳心を気にするようになった。本当はずっと、わたしはマサキを愛しているのだと信じたかった。それを証明したくてこの関係を続けていた。けれど、わたしにとって「マサキ」とは、人生がうまくいかなかったときの、単なる逃げ道であることに気づいてしまった。どんなに仕事がうまくいかなくても、狙っていた男に恋人がいても、長年付き合ってきた友人と価値観が合わなくなってしまっても、美しい年下の男と半年に一度情交するというのは自分の人生の糧になった。それは少なくとも自分には女としてのそういう価値があるということだから。わたしにとって「マサキ」とは、そういう概念なのった。マサキにとっても、「アイさん」とはきっとそういう存在だ。年上の女と定期的に会う。女は東京で働いていて、お金を持っていて、一年に一度、自分に会いにわざわざ神戸までくる。夏は休暇を取って東京で彼女と過ごす。そういうことだ。他人に自分の人生はうまくいっている、と「主張」するための存在だ。わたし達は、自分たちの人生がうまくいくように、お互いを利用している。

それをわたし達は、わかっている。口に出さないだけで。


「おれたちって、なんなんやろな」

マサキの口からその言葉を聞くまでは、そう思っていた。

神戸の四日目の夜だった。ポートタワー近くのみなとみらいで食事をしていた。昨日の夜、マサキと会ってホテルで今夏二度目の情交をした。わざとエアコンを付けないでいた部屋は、それが終わるころには三十一度を超えていた。満足感のあるセックスの後の水は、人生で一番美味しいと思う。汗をかいたマサキの背中が艶めかしかった。マサキの上反りはわたしの中にたまらなく侵犯し、何度奥を突かれてもその動きに飽きが来ることはなく、最奥を叩かれる程に喉が喜びの声を上げた。内臓を押しつぶされるような快感に、目を瞑り唇を噛みしめて彼を味わっていると、必ず両手を組み敷かれて、歯の痕がつくから、と、舌で口を割り開いてくるのも好きだった。わたしの額から流れる汗が二人の髪を乱し、肌にまとわりつく。マサキの身体はいくつになっても甘美だった。彼も同じく、何年経ってもわたしの身体に興奮する。わたしたちは昔から、生き急ぐような激しいセックスをした。一度の情交の中で、ベッドで始まっても気が付けば玄関やベランダにいたりする。体位を変えることも常だった。バスルームで後ろから腰を貫かれると、吐息が鏡を曇らせる。快楽に身体が震え立っていることも難しくなると、鏡に腕や胸が触れる。冷たい感覚に脳幹が狂いそうになる。押しつぶされ形が変わったわたしの胸を、彼は後ろから揉み上げ、きゅうっと先の赤をつねられると、喉から勝手に淫蕩の声が出る。またクールな音楽を流しながら汗だくで交わることが何よりも好きだった。退廃的な雰囲気は、二人が出会った頃の夏を思い出させてくれる。

「アイさんはおれの、ナニサマのつもりなん?」

若い子の言葉は容赦なく胸に刺さる。相手にどんな印象を与えるか考えず、響きの鋭さだけを気にして発するからだ。

窓際に座ったマサキはわたしと目を合わせない。ラクレットチーズを好んで頼んだのに、お腹がいっぱいなのかフォークの先で残りをこねくり回している。それをするんだったら、わたしに一言食べるか聞くべきだ。

わたしは六年前の夜を思い出した。わたしたちはその夜、獣の如く抱き合って、お互いの首を絞めた。わたしは酸素の薄くなった脳の片隅で、いつも気が遠くなるほど良いマサキのセックスが苦しいと思っていた。腕や足を噛まれて、そこらじゅう血だらけだった。事が終わった後、マサキは勝手にわたしのSNSを見たと言った。わたしは当時、若い男と遊んでいることをSNSに書いていた。マサキの名前と姿は伏せていたが、後姿の写真とその日にしたことを事細かに書いていた。始めから遊びのつもりだった、という内容を見て、マサキは激昂した。わたしは友達と、この遊びがいつまで続くか、賭けをしていた。

『アイさんはおれの、ナニサマのつもりなん?』

マサキは甚く怒って、そう言い残し、次の朝出ていった。実質一度別れたのである。しかし彼は戻ってきた。あるパーティに二人とも呼ばれていたが、彼は熱を出していて、かつわたしに会いたくなくて、二人とも顔を合わせる前に帰った。その夜、マサキに電話を掛けた。そして電話口で泣いてやった。彼は、わたしに何時に家に居ろと言って電話を切った。わたしは指定された時間より一時間遅れて帰宅した。すると彼がわたしのルームメイトとリビングで酒を飲んでいた。どういうわけか上半身裸で。わたしは酔った彼の赤い肌に噛み付き、リビングで人目もはばからずキスをして裸になり交わった。すぐそばで見ていたルームメイト達は、途中で気まずくなって部屋に引っ込んでしまった。隣の棟の管理人の部屋からデイビッド・ボウイのMoonage Daydreamが流れていた。

次の日わたしに風邪がうつったのは言うまでもない。マサキは毎日学校帰りに寄って、熱を出したわたしを看病した。マサキを含んだ友人何人かに病院に連れていかれて、真緑の錠剤をもらった。その日生理になってしまったので、しばらくセックスはしなかった。

あれから六年が経つ。別れたのは一度や二度じゃない。

お互いに恋人ができる度に別れて、それでも何度も再会して、セックスして、また別れて、再会して、セックスして。わたしたちは身体の相性が頗る良かった。まるで恋情なんて最初から必要なかったくらいに。マサキの身体にぴたりとはまるシャツを見ただけで、首筋に伝う汗を感じただけで、わたしは鳩尾を震わせた。

何度目かに再会した時、わたしは大交差点で信号待ちをしていた。オーストラリアに来て二年目のシドニーの冬だった。対面にマサキが立っているのを見つけ、まさか、と息をのんだ。しばらく眺めていると、マサキと目が合った。その隣には背の低いアジア人の女がいた。マサキはわたしを見つめていた。わたし達は大交差点の真ん中で抱き合うような真似はしなかった。他人のようにすれ違った夜、メールを入れた。端的に滞在していたホテルと部屋番号だけのものだ。十二時きっかりに部屋のインターホンが鳴って、ドアを開けると、ベビーズブレスのドライフラワーを持ったマサキが渋い表情で立っていた。一発その左頬を殴って、花束を床に叩き落して、そのままキスをして抱き合った。耳元でマサキが噛みしめるように「会いたかった」、とつぶやいた。その声が今も、わたしの脳裏にこびりついて離れない。

わたしたちはほとんど病気だった。再会と別れを重ねる、エモーショナルな音楽の似合う自分たちの運命に酔っていた。キース・アーバンのCop Carを一緒にきいて街でたった二人という気分になり、マルーン5のPayphoneを聴きながら煙草を片手に学校の前で過ごした雨の日、テイラー・スウィフトのTroubleが流行った時に二度目の別れを告げ、The ChainsmokersのCloserと共にマサキは戻ってきた。

それは現実に、日本に戻ってきた今も続いている。年に二回、夏は神戸で、冬は東京で、わたし達は身体を重ねる。けれど今年のマサキは少し違った。少なくとも自分たちのこの歪んだ関係に疑問を持ち、苦言を呈する。

「どうしたらいいんや」

遅すぎる気づきだった。マサキがこの疑問にたどり着くまで、わたしは同じ疑問を角度を切り口を視点を変えて、何度も何度も反芻してきた。何百回ではない、何千回の域だ。わたしはそれこそ、同じ疑問をこれだけの期間繰り返す自分が狂っているのではないかと星の数よりも思った。心底、「今更気づいたの?」と言ってやりたかったが、マサキの前では言わない。マサキの前ではわたしはいつも、大人の女でなければならない。果たして彼は、そんな疑問に最近やっと気づいたのだろうか。それとも、考えることが怖くて捨て置いていた事実と向き合い始めたのだろうか。わたしは彼の心境を聞くことにした。

「おれら、なんなん?」

マサキはかわいい。わたしにとって、彼の純粋さは癒しでさえある。わたしはその時のマサキが、内臓を持たないぬいぐるみに見えた。

「友達、ではないね。エッチしちゃってるし」

白々しくそう言う。マサキのつくった声色ごときでは、今更わたしの心は動かされたりしない。この男は、わたしが泣けばいいと思っている節があるのだ。

「けど、付き合っとらん」

今さら何と言って欲しいのだろう。とうに二人とも、これ以上を始めることも、終わらせることも諦めているというのに。

「あんたがわざわざ、関係性を知りたい理由はわからないけど」

どうにもならないのに、なぜ藻掻く。わたしはゆっくりと煙草をひと吸いして言った。

「セフレでは?」

それが最も近い日本語。英語で言えば『フレンズ・ウィズ・ベネフィット』。この場合のベネフィットは性行為をさすが、わたしたちの関係はそれだけにとどまらない。マサキは絶望したような、納得したような、覇気のない顔をしていた。

老けたな、と思った。

「なんでそんなこと…」

本当は「袈裟と盛遠」と思い、言いかけて、やめた。マサキは漫画しか読まない。マサキの知らないことをうまく説明できないと、彼は拗ねる。ルイ・トムリンソンみたいな甘い声をしているのに、歌も上手くない。歪むマサキの表情を前に、わたしはひどく不思議な気分になった。

わたしはかつて、この男を手に入れたかった。この男の愛が欲しかった。手に入れられたとは思わない。愛を受けたとも思わない。けれどもう充分なのだ。

わたしは店で流れるPale WavesのWhen did i lose it allをマサキに照らし合わせながら、この男にそんなことを望んでいたかつての自分を振り返る。わたしは二十代前半、確かにこの男を望んでいた。けれどあの頃固執していた恋がそこまで特別なことではないと知って、改めてマサキを見つめると、そこにどうしようもない焦燥感が足元を駆け巡る。

「そんな風に思ってたん?」

他人に互いを紹介する時、そうじゃなければなんだというのだ。友人に会っている時、彼はわたしの腰に手を回して、古い友達だ、などと白々しく言う。今朝方までわたしのアソコを舐めていた舌で、偽りの愛を囁くなんて器用な真似をそもそもできない男だ。外国人のふりをしろって?遊びなら付き合うが、わたしは自分の国籍にコンプレックスはない。それは変わらない。一生だ。あんたがどこの国の人でも、わたしの国籍には何の影響も与えない。国籍だけじゃない、生きる場所も、職業も、思いも、何もかも、わたしたちの個はお互いの個に影響を与えない。一生だ。

ずっとだ。一生。この先も。あんたとわたしである限り。

「ただのセフレだって?」

もうこれは、わたしが悪いのだと思う。それでいい。そもそも、相手が年端も行かない少年だと知りながら身体を合わせたのはわたしだ。彼は頭のネジが外れた道徳から逸脱した男だったけれど、同時に無邪気な少年だった。その彼に、情交を教えてここまで引きずり落したのは、わたしなのだ。それだけがどうしようもない事実。ここ数年、この関係を続けていたのはマサキへのいつまでも続く淡い思いでも、彼の情念でもなく、わたし自身の罪の意識だ。愛してるなんて、今更白々しいし、そんなの気持ち悪い。極悪だ。吐き気がする。

わたしは短くなった煙草の灰を落として、フィルター近くまで最後にひと吸いした。

「あんたが選んでいいわ。わたしが選ぶといつも、失敗するから」

マサキはわたしを見ている。何を言うつもりなのかという不安げな表情で。

Desperately trying for us

Desperately trying for us...と、二度と聞こえる。マサキにもここでわたしが沈黙した意味がわかることを願う。

「彼女を愛してるから、もう辞めたいんでしょ?」

そう言ったらいいじゃない、とわたしは言った。

煙草を唇に近づけると、品のない真っ赤な爪が見える。マサキは派手な女が好きだった。本当のわたしはベージュやコーラルホワイトなどの落ち着いた色が好きで、その色を似合っていると褒めてくれるひとが東京にはいる。その人とどうなるかを決める権限が発生するのは、マサキとのこの関係を清算した後だ。今のわたしには、なんの権限もない。

「今じゃなくてもいいよ」わたしは言う。「感情に任せて別れを決めたって、きっとまた繰り返してしまうだけだから」

わたしは東京で、感情を制御してものを言う技術を身につけた。客観的な位置で状況を見て意見を出せる、大人だ。彼の目は相変わらず名前の通りキラキラしていて、まつ毛が長くて、ぽってりした唇が印象的。もう、可愛いという言葉はほとんど不似合いで、街にいるおしゃれで小綺麗な男の子だ。マッチングアプリや読者モデルで人気が出そうな、今時の若者。

「なんでそう思うん」

わたしが一目で感じた、独特の悪鬱を秘めた美しく隠微な少年ではない。

「いつもそうだったから」わたしはまた煙草に火をつけた。「いつかわかるわ」

彼にとっては簡単なはずだった。少なくとも、彼はわたしを愛したことなどないのだから。酷い女だと、自分勝手だと罵られても、彼をこのままこの運命に縛り付けておくわけにはいかない。今のわたしが図書館での出会いを経験するとしたら、また彼を愛するだろうか。彼が憂鬱を纏った煌びやかな少年に見えないのは、わたしが彼をもう愛していないからだろうか。彼の気持ちを見透かせないわたしは、そもそも初めから、彼を愛してなどいなかったのではないか。彼に出会ってからのこの六年間、恐ろしく清廉な時空に記憶を吸い込まれていただけで、実はずっと正気ではなかったのではないか。


神戸の夜景は海に滲んで溶けていく。


その夜、わたしたちは少し高級なホテルで夜景を見ながら、二回セックスをした。夜景を見てビルディングライトが嫌いだったことを思い出した。これもこの男のせいだ、彼と別れていたいつか(いつだったかは詳細にもう覚えていない)、新しい彼の恋人が高層ビルに住んでると聞いたからだ。とにかくビルの灯りが嫌いだった。同じ町に住んでいた頃だ。いくつかのライトの中にマサキがいて、そこで自分以外の女と交わっていると思うと発狂しそうだった。

ウィンドウペインに映るマサキはもう、一人前の男になってしまっている、と感じた。エミネムとリアーナがThe way you loveを出してからもう六年だ。ベッドに縛り付けて火を放って逃げだせているような間柄なら、とうにそうしている。

「Last nightやな」マサキは二回目にわたしを抱く前、そういった。数年前にも一度聞いたセリフだったが、結局旅行先の京都でわたしたちはまた出会った。けれど、今日のそれはマサキの本心なのだろう。乱心、わたしをここで殺してくれたりしないだろうか、もしくはわたしが彼をこのまま、などと彼の幼稚な愛を受けながら思う、青山〈せいざん〉の、夜が更けていく。幼い寂しさを持った明鏡の美少年はいない。わたしの知らないところで恋を、苦しみを、たくさんのものや人と別れを出会いを、海の塩辛さや夜景の残酷さを知って、絶望を繰り返して、やがて本物の男になるだろう。隣のわたしは、傷つけて傷つけられて、溶けて溺れて、泣いて狂って忘れて、受け入れて、やがて本物の女になる。

もし仮に、わたしが彼とオーストラリアで別れていて、日本でもどこでも、もう二度と会わない関係だったら。彼との思い出は例えば、美しい少年との異国でのひとなつの恋は美化されて、人生の傷になっていただろうか。それとも彼との思い出に浸ることでわたしは、その後いっさい恋をしない、彼の面影を引きずった大人になっていただろうか。どうしていたらわたしは、二度と彼の腕に触れず、迸る情念に身体を繋がない女になっていたのだろうか。それは今より幸せなのだろうか。こんな風に、いっそこの男とあのまま心中していたらなんて考える夜を、いくつも超えることもないのだろうか。


帰る日も、神戸は雨だった。マサキはわたしを新神戸駅まで送った。仕事は休んだと言っていた。

「こうも毎日雨だと厭よね。夏だっていうのに呆れるわ」

「海も入れんかったな。もうちょっと痩せんと肉がやばいで」

「うるさいな」

白のパーカーに黒のスウェットを合わせていた彼は、わたしにスーツケースを手渡した。わたしはありがとう、と言った。マサキは無表情だった。

「アイさん、今いくつ?」

 唐突にそう聞いてくる。別れを惜しんで、会話をつないでいるのだ。普段連絡など寄越さないわりに、別れ際はいつもそうだった。

「あんたの年齢に七を足せばいいじゃない」

「ナナ、ね」今のマサキの彼女の名前だ。

「来年あたり結婚したいわ」

「彼氏に会わせてよ」

「阿保か。無理よ」まだ彼氏ではないからだ。

「もう会わないから?」

 マサキの声が小さくなった。わたしは答えずに笑って、彼の頭をなでた。

「今度は冬ね」

「もう会わないんやろ」

「ええ、二度とね」

「うん、もう二度と」

わたしはマサキを見つめた。マサキもわたしを見つめた。そしてどちらからともなく抱き合い、街中でキスをした。そんなこと、今まで一度もしたことがなかった。

「ばいばい、マサキ」わたしはいつも通り言った。

「さようなら、アイさん」マサキもいつも通り、そう言った。

わたし達は、半年前もそう言った。


わたしは東海新幹線の窓辺の座席で、雨が降るのを眺めながら、デイビッド・ボウイのMoonage Daydreamを聞いている。

袈裟と盛遠を、もうすぐ読み終える。

半年後の冬、次はマサキが東京にくるだろう。なんども同じ質問を繰り返しながら、わたしはまた半年後もきっと、マサキの腕に抱かれて眠る。

あれから七年が経ってこの秋、わたしはいよいよ三十になる。

マサキは次の春、生きていたら二十三になる。



END

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Moonage Daydream 宇乃夏 @KinoAram

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